僕と君と煙草の話


「煙草喫うの、止めませんか」
 食事に集中していたのに、紅茶の香りを消し飛ばす煙に気づいて僕は言った。
 ジュ、という音。どこからともなく携帯式の灰皿を取り出して、無機質な音と共に煙を止める。
 そして、そんな音より遥かに綺麗で温かみの無い声が、二人しかいない広間に響いた。
「それは命令ですか?」
 火をつけてまだ一分と経っていない煙草を消させた恨みでもないだろうが、僕らの関係を考えるならその口調は冒涜的だ。
 尤も、僕はそんな事欠片も気にしちゃいないし、内省するほど殊勝な性格をしていない。
 彼女は。
「そういうわけじゃ、ありませんが」
「では」
 一度消した煙草をそのまま灰皿に落として、また一本取り出した。
 既製品でどこにでもありふれた安物のライターが、染み一つない雪のような手に悲しくなるほど似合わない。
 言うまでも無く、芸術品のような口元から伸びる、品性の欠片もない筒も同様。
 まるでいつもの情景だ。いい加減繰り返しすぎて頭痛を覚える。
 「君は、一応この家の執事なんですけどね」
 繰り返した言葉だ。相手の返答も読めている。
「訂正させていただきますと」
 案の定、或いはいつも通りに彼女は言う。一言告げてから紫煙を吐き出して一瞬止まるそのタイミングまで、もう真似できそうなほど読めている。
 フゥ、と煙を通して僕を見る目に、視線を合わせた。
 いつも通り、主を相手にする表情ではない。年下のガキを相手にする表情でもない。
 例えるなら、空気を見るような視線だ。さて、僕と彼女の年齢差は一歳だったか、二歳だったか。
 青臭さを尺度にして測るなら、二桁は離れているであろう老成さで彼女は告げる。
「私は貴方付きの侍女であって、執事として館を管理しているわけではありません」
「じゃあ、僕に対してはもう少し愛想良くした方がいいと思います」

「それは命令ですか?」

 ほらきた。二言目にはこの言葉。
 僕は彼女の雇い主。彼女の業務内容は屋敷の管理ではなく僕の世話全般。
 命令だと言えば、彼女は今すぐその煙草をゴミ箱に捨てる事が出来るのだろう。
 煙草だけではない。僕が言えば、彼女はきっとどんな事でも拒まない。死ねと言って死ぬかどうかまでは断言できないが、それでももしかしたらと思うほど忠実だ。服を脱げと命令すれば思案も拒否もせず実行するだろう。
 それゆえに僕が絶対に命令しないのを知っていて、知っているからこそ打算的に告げる決め台詞。
 だから彼女の言は正しいのだが、外見や行動からの印象を素直な言葉で表現するなら、僕の言葉の方がしっくりくる。
 それは、彼女が本来の職務を怠っているという意味ではなく。
 侍女、或いはメイドという言語に対して、世間が抱いているような甘ったるい幻想を木っ端微塵にするくらい、彼女のイメージが無機質だからだ。先の話ではないが、どれだけ美人でも情欲できなければ意味が無い。
 黒と藍の地味一辺倒な侍女服や、飾り気のない銀縁の丸眼鏡は表層に過ぎず、薄ピンクのエプロンは滑稽なほど合っていない。
 真に硬質なのは、装飾ではなく本質。笑わない口元、冷え切った視線。言語を紡ぐ以外に仕事をしようとしない頬。
 この女は、人形でさえももう少し表情があるのではないか、と思えるほど可愛げが無いのだ。
 僕は溜息を吐いて食事を再開する。
 こんなやりとりは日常茶飯事だ。結局僕が何を言おうと、彼女が僕の言葉に頷く事は無い。
 命令をしない僕と彼女では、結局のところヒエラルキーが逆転しているのだ。
「それと、差し出がましい事ではありますが」
 無言で食事を片付けていると、珍しく彼女の方から口を開いた。
 食事中の主の隣で煙草をふかす態度から見ても、礼儀正しいと言える女ではないが、病的なまでに上下関係に従属する人間でもある。
 ゆえに、彼女の方から僕の行いを妨げる行動を取る事は珍しい。
 食事中に話しかけられたからといって怒るタイプでもないので、内心面白がって先を促した。
「主人が侍女相手に、敬語を使うのもどうかと思われます」
(……なんだ、そんな事か)
 その言葉自体、何度も繰り返したやり取りの一つだ。新鮮味など、是非もない。
 だから、ちょっとからかってみるつもりで、彼女の台詞を真似してみる事にした。
「それは、命令ですか?」
「……いいえ。滅相もありません」
 一瞬眉根を寄せて、けれどすぐ無表情に戻る。
 それでもいつもの鉄面皮が崩れた事に奇妙な満足感を抱いて、僕はフォークを置いた。
 席を立つ。
「ご馳走様。今日も美味しかった」
「恐縮です」
 最後だけ彼女の言葉に応えて、敬語を用いずに告げる。
 対する彼女は、まるでそんな事を思っていない表情で答えた。
「では学校へ行ってきます。僕からは特に仕事はないので、夕方まで好きにしてください」
 話しながらドアに向かう。主が侍女に対して、礼儀を意識せねばならない道理はない。
 相手がこういう人間なら尚更だ。僕の敬語は、子供の頃からこの怖いお姉さんと共にいて、自然に身についただけの事。
 背後で、またジュ、という音が響いた。その端麗な容姿に似合わない、煙草を消す音。
 気配から、腰を折って綺麗にお辞儀しているのが解った。
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
 背後の声を聞き流し、内心のざわめきを隠してドアを閉める。バタン、と彼女の気配が届かなくなった。
(うん、なんだ、言葉でどう修飾したところで)
 溜息を一つ。声が届かないのを確かめて、呟いた。
 無論、最初からバレバレなのだろうから、全く意味はないのだが。
「好きな相手に命令なんて、できるはずはないよな」
 舌に喫った事もない煙草の苦味を覚えた気がして、僕はつい苦笑を漏らした。
 直後、呼び鈴の鳴る音。今日は珍しく朝が早いのか、登校途中にある僕を誘いに来たらしい。
 数秒と待たず喧しくなる双子を待たせないよう、僕は急いで玄関に向かった。
 怒らせると、あの片割れは怖いからね。



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