僕と君と子猫の話 -Cyan Magenta Yellow and ―.-



 雨が降っていた。
「……寒い」
 季節は冬。地形柄、この季節に降雨はなく、降ったとしてもそれは雪だ。
 今日はたまたま普段より肌を裂く北風はお休み中で、けれど代理で僕たちを苦しめに雨雲が来たのだろう。
 風は緩く、真上から来る珍しい雨は傘が弾く。大雨ということもなく、どちらかといえば小雨というか霧雨というか。
 その代わりに湿気のレベルは最大だった。屋敷では、牡丹が洗濯物の処遇に困っているかもしれない。
 濡れているわけでもないのに服が湿る。飽和した水分が空気中から僕を浸食する為だ。
 希釈したプールの中を泳いでるとでも言うべきか。
 これでは傘の意味があまりないな、と僕は一人溜息をつく。そうして、微妙に遠い家路をとぼとぼと歩いた。
 いくら久遠家が由緒正しき旧家で、僕がその現当主だとしても、執事である朽葉宗司はわざわざ車を出して送迎するような事はしない。
 心配性な親を持つどこぞの令嬢ならいざ知らず、僕個人はただの高校生なのだから。
 考えている事が既に贅沢だな、と自分を戒めて意識を現実に引き戻す。
 車も通らない赤信号で律儀に止まっていると、耳がかすかな音を拾った。
「……ん?」
 その音は、傘と地を打つ小雨の囁きよりもさらに小さな音だった。
 風が耳元を通り過ぎれば途切れるような、そんな音。
 何故それほどまでに小さな音が気になったのか。
 そう、それは例えるなら、何かの鳴き声に似ていた。
 もう一度耳を澄ませる。雨音にまぎれて届く声は、とても小さいが遠いわけではない。
 或いは足元から鳴るような小さな呼び声。
 僕は周囲を見渡した。ここで、そうしないでいられる人間の方が少ないだろう。
「……いた」
 シャッターの降りた、恐らくは誰も使っていないであろう雑居ビルの元。
 殆ど意味を成さない庇の下に、一つの箱が置いてある。中にいるモノ、それは子猫であった。
「ナァ」
 混じりけのある暗い灰色は、世辞にも美しいとは言えない。
 雨に濡れた毛並みはとてもではないが心地よさそうな質感はもっておらず、震える体は手に収まりそうなほど頼りない。
 子猫は鳴くことをやめない。けれどその声音は酷く小さく、僕があのまま考え事をしていたなら気づかず通り過ぎていただろう。
 己がどういう状況にいるのか、子猫は知るまい。どれほど不幸な身の上なのか、理解はできまい。
 僕にはそれが理解できるからこそ、子猫の鳴き声が憐れに聴こえてならなかった。
「寒そうだね」
 箱の目前に座り込む。中にはとても清潔には見えないタオルが一枚。雨のせいでもはや解読不可能になりつつあるが、箱の前面には『誰か拾って下さいにゃー』という文字が書かれている。
 それを見て、僕は無意識に眉を寄せた。
 誰か拾って、という漢字を書けている事から、そしてその字が思いのほか整っている事からも、飼い主は幼児などではないことが読み取れた。
 小さな子が親に言われて泣く泣く、というイメージではない。
 張られた手紙と箱やタオルの汚さからして、悪し様に言えば、邪魔だから捨てたという印象を受けた。
 酷い人間もいたものだと思った。僅かな逡巡。一通りこの後に起こりうる障害をイメージ。
 一つだけ溜息をついて、子猫を両手で拾い上げた。予想通り、体は冷え切っている。
 そのまま片手にもちかえ、胸のあたりで抱える。傘を差しなおし、いつも通りの帰路に戻った。
「ボタンさん、なんて言うかなぁ……」


「ダメです」
「……まぁ、そう言うと思ってましたけどね」
 予め想定していた返答とはいえ、僅かな期待を打ち砕かれて僕は意気消沈する。
 もう少し上手く立ち回れば猶予はできたのなぁと、帰宅後の行動に後悔しながら。


 屋敷についた後、とりあえず暖めてあげなくてはと子猫をお風呂に入れた。
(ああ、名前決めとかなきゃな)
 何故か子猫は大変嫌がったので苦労したのだが、一通り綺麗にして体を拭いてやった。その間に、候補を絞る。
「…………ゴロウ」
 そして、五郎が暫定的に決まった。
 佐藤とかなり迷ったが、子猫を呼ぶのに苗字ではおかしいと思い五郎に軍配が上がったのである。
 そんなわけで意気揚々と僕は浴室を後にした。
 いつもは出迎えに来るはずの牡丹が今日はいなかった。それに我幸い好都合と当初の警戒を解いて、そのまま五郎(暫定)を抱いたまま厨房に向かったのが運の尽き。
 無防備にもその場で猫に暖めた牛乳を舐めさせていると、背後から地獄のように薄ら寒い声がかかったのである。
「旦那様」
「―――」
(さて、ここで諸君らに問う。
卿らは幼少の頃、少々性質が悪いと自覚できる悪戯を母君などに見咎められた事はあっただろうか。
あるならば思い出して欲しい。そう、その時の心境が、今現在の我が心境と同質の物である)
 内心でカボチャに演説をし終えてから、僕はユックリと振り返った。
 ギギギ、と首筋に油を差し忘れた機械のように往生際の悪い動作で。
「何か弁明はありますか?」
 質問さえ無しかよ。



 とりあえず五郎(暫定)が牛乳を舐め終えるまで殿の役目として話を無駄に引き伸ばした後、僕たちは広間へと向かった。
 何故広間なのかと問えば、厨房はお説教をする場所ではないからだ。
 ちなみに問うたのは僕であり、答えたのは牡丹である。そんな久遠浅葱の憂鬱。
 僕の延長工作に苛々が増したのか、牡丹の表情は目に見えて不機嫌だ。
 上だろうと不だろうと機嫌程度で顔色を変えない彼女にしては非常に珍しい。
 もしかしたら、彼女は猫が嫌いなのかもしれない。それは僕にって不都合な事実となるのだが。

「ダメです」
 リビングにつくなり開口一番その一言。
 まだ何も言ってない。機先を制された僕は溜息を吐いて呟いた。
「……まぁ、そう言うと思ってましたけどね」
 口調に抵抗の響きが混ざっているのは事実だろう。
 一体自分はどこの小学生かな、と現状を省みて気が重くなるが。
「でも、放って置くわけにもいきませんし」
 小学生と違うのはそこだろう。
 確かに捨て猫を見て可哀想と思ったのは事実なのだが、むしろそれを無視してしまう事実に耐えられなかったのだ。
 そして、それは今も同じだ。一度拾ってしまった命を、反対されたからといって簡単に捨ててしまえるほど、僕は成熟していない。
(仕方ない。ボタンさんの心証は大事だけど、最低限責任は果たさないと。……というか、もしここで頷いたら逆に軽蔑されかねないし)
 若干の打算を混ぜつつ、僕は方針を固めた。少なくとも、この雨の中五郎(暫定)を捨てに行くのは全面的に却下なのである。
 さてどういったものか、と渋い顔(本当に良く見れば渋っているのが解る、辛うじて)をしている牡丹を眺めながら思案していると、広間の扉を開く音が聴こえた。
「おやおや、これはどうしましたかな。珍しくご機嫌斜めなようですが」
 現れた人物は、朽葉宗司だった。
 彼には、未成年の僕では扱えない執務とこの屋敷の管理を全て引き受けてもらっている。事実上の当主代行だ。
 ゆえに、立場的には侍女と執事だが、力関係で言えば隔たりがあるのだ。
 そんな彼の言葉に、ばつが悪いのか牡丹は渋面を変化させた。無論、客観的に見れば、ミクロ以下の表情差分であるが。
「私は平常通りです」
 目蓋を閉じながら彼女は言う。表情より、その態度の方がいくらか解りやすいかもしれない。
 その様を見て彼は、ホッホ、と笑みを浮かべながら頷いた。
 もう六十近い歳で、その様はどこぞの好々爺といった風情である。
 話の通じ易さで言うのなら、牡丹より朽葉だ。僕は彼を味方につけるべくこれまでの経緯を語った。
 五郎(暫定)への同情を惹く為に、若干の着色を加えた為か、聴いている牡丹の視線が痛い。
 それでも、主が話している途中で割り込むような事をしないのが彼女だ。
 ――それを解っているから、牡丹の前で堂々とエッセンスを加えられるのであるが。
「ふむ」
 僕の話を聞き終えて、朽葉は一つ頷いた。 微笑みを浮かべながら牡丹を見る。
「特に問題はないと思いますな。ミサキ嬢はなにゆえ反対を?」
「いえ、それは……」
 逆に問われ、牡丹は返答に窮したようだ。
 考えてみれば、朽葉の疑問は尤もである。
 久遠の家は旧家だ。先代どころか数代に渡って事業を納めている、言わば上流階級である。
 今となっては侍女の牡丹、執事の朽葉、そして当主である僕しか住んでいないが、金銭的な制約はない。
 三人住まいにこの屋敷は広大だ。ましてや、猫一匹を飼うのに不都合が出るなどありえる筈がないのである。
 あれ、じゃあなんでボタンさんが拒絶すると思ったんだっけ?
 考えてみたが、答えは出なかった。あまりにもこの家にとって瑣末なことだからである。
 仕方がない、と僕は彼女の言葉を待つ事にした。
「それはですね……ええ」
 数秒考えて、彼女は一つ頷いた。そこまで考えないといけない時点で、問題ではないと思うのだが。
 そんな風に他人事な考えだったからだろうか、牡丹はこちらをキッと(あくまで僕の主観として)睨んだ。
「誰が、世話をするのでしょうか」
 なるほど、と朽葉は頷く。 僕はと言えば、彼女の言い分を理解するのに数秒の時間が必要であった。
(誰がって……ああ、そうか)
 餌の代金にも、飼うスペースにも困る事はないだろう。
 ただし、だからといって完璧に放しっぱなしなわけにもいかない。
 猫を犬のようにつないで置くことはできないし、躾だって必要だ。
 牡丹に任せるのは簡単だ。けど、それじゃあまりに――。
 一瞬の逡巡。僕は口を開いた。
「分かりました、僕が面倒を見ます。ボタンさんとクチバさんはこれまで通りで構わない」
 考えてみれば当然だ。動物を飼うというのはそういうこと。
 僕がどういう人間かなんて関係がないのだ。拾った動物の世話くらい自分で看るのが道理である。
「……しかし、それは、」
 朽葉は何故か嬉しそうに何度も頷いていたが、牡丹には異議があるようだ。
 彼女は何か言いかけ、そして突然響いた電子音に遮られた。
 次いで、ガチャガチャという音、すぐに玄関が開け放たれた。当然だが、僕たちの誰も玄関を開いていない。
 ドカドカと足音が響く。響き方から言って二人組み。片方には、まるで遠慮も躊躇いもない。
 こんな行為に及ぶのは、強盗でもなければ心当たりは一つしかない。
 強盗だってここまで不遜ではないから、恐らく後者で確定だろう。

「はぁい、来てやったわよ?」
「鍵はどうした」

 不敵に挨拶するソイツに、僕はノータイムで問い返した。確かに鍵は閉めた筈なのだが。
「ああ、返しとくわね」
 ポイ、というよりはヒュンという風切り音を立てて飛来した金属片を、僕は眼前で掴み取る。
 それは、どこからどう見てもこの家の合鍵だった。
「ダメよ? お金持ちが合鍵をあんなところに置いてちゃ。まぁ見つけたのはアオイだけど」
 侵入者――西園緋は傲然に笑って斜め後ろで黙っているヤツを眇めた。
 まあな、と遠慮がちに返事する当たり、アヤツはまだ常識があるとみえる。
「……ニシゾノ様。旦那様の御学友なのは存じていますが、勝手に入られては困ります」
 彼女の鉄面皮も、流石にこの暴挙にはひび割れていた。それでも無表情に近いあたり、かなり自己統制が徹底している。
「硬い事言ってんじゃないわ。久遠の家に喧嘩売る気なんてないし、その辺はダンナサマも承知してるでしょ」
 返されて、牡丹は沈黙した。溜息を吐いている。
 人の家を金持ちなんて言ってるが、西園は久遠と同じくらい大家だ。例え無人だったとしても盗む必要などない。
 それにしても、牡丹には中々容赦ない緋だ。
 内心でそんな疑問が掠めたが、発展させても答えはでそうにないので削除した。
「解った。オマエに常識を説いてもはじまらないしね。確かに無用心だったのは僕だ。面倒だが置き鍵はやめるよ」
 緋だけには君とも貴女とも言わない。
 コイツだけは、オマエか呼び捨て以外を使いたくないのだ、何故か。まあ、最初の出会いに問題があるのは明らかなのだが。
「けど、結構凝った場所に置いてあったはずなんだけどね」
 現に気付かなかった牡丹は、僕をさっきよりさらに氷点下の視線で睨んでいる。
 そろそろ受動器官が能動器官に発展しそうなので、僕は彼女から視線を逸らした。
 氷か石にされてはたまらない。
「で、何の用?」
「ああ、ちょっと面白い場面に出くわしちまってな」
 言って、葵は僕が抱いている猫を見た。
「帰ってヒイロに話したら、あたしも見たいとか言って強引に引っ張り出された」
「見られていたのか……っていうか」
 そこで視線を切り替える。当然行く先は決まっていた。
「全面的にオマエのせいかよ」
 フン、と僕のツッコミを緋は流す。それでも視線は五郎(暫定)に注がれたままだ。
 葵の言葉は真実ということだろう。
「で、ソレどうするのよ」
 言葉にプレッシャーを感じる。猫をソレ扱いといい、良家の子女とは思えない重圧といい、答えによっては身の危険に及びそうだ。
 問題は、どういう答えを希望しているのかまるで解らない点である。
 どうしてこう僕の周りにいる女性は、魔眼染みた視線ばかり持っているんだろうか。
 口にする言葉はまだ協議中であったが、この際だから言ってしまうことにした。
 なるべく牡丹には視線を合わせないように意識しながら。
「飼うよ。今更捨てるなんて出来るはずない」
「ああそう」
 そっけない返答。しかし、何故か緋の視線から重圧が消えた。
 返ってくるのは安堵と、何か少し混ざったような視線。コイツの優しい目を久しぶりに見た気がする。
 ……もしかして、飼えなかったら里親を名乗り出てくれるつもりだった、とか)。
 雨の中再び捨てられないようにと、急いで駆けつけたのだろうか。
 その為に不法侵入紛いの強行突入だったのだとしたら。
「フン、勘違いするのは勝手だけどね。口にだしたら殺すわよ」
 僕の視線に気付いたのか、つまらなそうに緋は言う。
 言葉には、本当に殺気が込められていた。けれど、否定の意味ではない。
「……了解、肝に銘じとく。けどなんだ、実はイイヤツだったんだ、オマエって」
 葵が笑っている。死刑囚を嘲う民衆のようだった。 同時に、牡丹が額に手を当てて僅かに俯く。
 しまった、と後悔した。全然了解も銘じてもいなかった。
 案の定、目前の緋はとてもとてもイイエガオで、
「口にだしたら殺す、って言ったんだけど?」
 葵は、どこからともなくテロップを取り出す。

【大変お見苦しい映像が流れております。暫くの間お待ちください】





















「いたいいたいいたいいたい……! ギブ、ギブだって!」
「だーるまさんがーこーろんだー」
 どういう意味だそれは!




















「イタイ」
「不思議ね、ボロ雑巾がしゃべってるわ」
 朽ち果てた僕を見下ろしながら、緋が言った。パンパンと手を払っている様がどうしようもなく似合う。
 ここは僕の領地だと言うのに、誰一人助けてくれなかったのはどういう事か。
 葵は、悪いななんて目をしながら後ろに下がって地蔵と化し、朽葉はホッホと笑いながら無言。
 牡丹に至っては視線さえ合わせてくれない。まだ根にもっていらっしゃる様子です。
 サブミッションフルコースの効果は抜群だ。今だ筋肉も関節も応答しない。
 っていうか、コイツは本当に女なの?
 目前で、ナァと鳴き声がした。地に伏した僕の頭を、五郎(暫定)がちょんちょんと突付く。
 慰めてくれているのか、それとも追撃しているのか判断に迷った。
「ああ、そういえば」
 唐突に葵が口を開く。さっきまで地蔵だったくせに、今更何を言う気だこのやろう。
「その猫、名前はもう決めたのか?」
「五郎だ」
シークタイムゼロの返答。葵は、ソウカ、と呟いた。

「―――――」
「……………」

 場の沈黙が痛い。誰とも目を合わせたくない雰囲気だ。
 僕、なんか失言したか?
「よっこらせっと」
 背中に誰かが乗る気配。さっき嫌というほど把握したこの体重は、緋だろう。
 実はとても軽いくせに、僕の胸はトテモ重くなる不思議な体を持つヤツだ。
「ふざけてるんじゃ」
 アゴに腕を回される。なんで男女同士で密着してるのにこんなに殺伐としてるんでしょうね?
「ないっつーの――!」
 牡丹がテロップを取り出す。貴女たちは一体何者ですか。

【大変お聞き苦しい音声が流れております。暫くの間お待ちください】








「……」
「ふん」
 僕にキャメルクラッチを見舞った少女は、何の感慨もなく手を払った。
 僕はと言えば、返事がない、ただの屍のようだ。
 その間にも、周囲では名前の代案が盛んに議論してあった様子。貴様らオボエテイロ。
 というか、唯一の反対派だった牡丹まで参加しているあたり、僕の救われなさが如実に現れている。
「仕様がないから、わたしが決めてあげるわ」
 この場の支配者の言葉に、皆が注目した。緋は、葵を床に転がして捻りながら少しの間逡巡。
 ちなみに、何故葵が制裁を受けているのかと言うと、議論中はヤツが下らない代案を担当していたからである。合掌。
 元々積極的ではない牡丹と、一歩引いた所から意見のみ挟む朽葉。残る葵がアレでは決まらないのは道理だ。
 見るに見かねて、という事だろうか。どうやら、緋は本当に五郎(暫定)を大事に思っているようである。
 ゴロウ、いい名前だと思うんだけどなぁ……。
 言うと本当に死ぬので言わないが。
 そんな僕の内情を置き捨てて緋は面を上げた。会心の出来なのか、中々にイイエガオだ。

「クロガネとか、どう?」

「は? なにそれいみわかんねぇって、あいたたたイタイイタイイタイから!」
 スグに反応した葵に、緋はさらなる捻りを加えた。
 ……と言うか、オマエ葵のことが世界で一番好きなんじゃなかったっけ?
「ふむ……鉄、ですか。それは名案ですな。中々洒落の判るお嬢さんだ」
 しきりに頷きながら、朽葉はアイツを褒めている。洒落ということは、何かにかけているのだろうか。
「えっと、どういうこと?」
「色、ですね」
 解らず問い返す僕に、黙っていた牡丹が答える。彼女は言葉を続けた。
「……シアン、イエロー、マゼンタ。少々違いはありますが、確かに上手い名かもしれません」
 意味深な言葉だ。完全な説明にはなっていないだろう。僕は彼女の言葉を元に考える。
 えっと……なんか聴いた事ある単語だ。――って、ああ、なるほど。
「絵の具の三原色か。シアンが僕?」
 牡丹は頷く。
 浅葱とは青に近い色だ。朽葉は黄色に、牡丹は赤に近く、マゼンタとも良く似ている。
 それらを全てを混ぜても真っ黒の絵の具は作れない。だから、印刷では最後に黒を足した四色を基本とするのである。
(クロ、だと黒猫につける名前だから、クロガネにしたのか)
 残念ながら、この猫は黒っぽい灰色なのである。
「あんたたち見て、何か足りないと前から思ってたのよねー。これでピッタリはまったわ」
 僕と同じようにボロ雑巾に成り果てた葵に腰を下ろしながら、緋は嬉しそうに言った。
 クルクルと人差し指でツインテイルの片方を弄んでいる。猫を見る目付きは少女のそれだ。
「で、ご返答は如何なされますか、ダンナサマ?」
 攻撃性のない視線で言われて、一瞬ドキリとした。外見だけで言えば、コイツは元々パーフェクトなのだから。
「うん、いい名前だしそれでいこう。ありがとう、ヒイロ」
「……どういたしまして」
 答えた瞬間には、もういつものヤツに戻ってしまった。言葉自体小さすぎて、何と言ったか解らないくらいだ。
 つまらなさ気に顔を逸らすと、そのまま立ち上がって葵を踏みつけた。
 フニャ! と奇声を上げるヤツを半ば引きずるような格好で玄関の方に歩き出す。
「それじゃあ帰るわね。次来た時クロガネがいなかったら、雑巾どころか粉微塵にしてやるから、せいぜい可愛がりなさい」
 分子結合さえ許してはくれないと言う事ですか。それでは、牡丹がいくら反対しようと放り出すわけにはいかないだろう。
 了解と答えると、緋は名の通り鮮やかに去って行った。ずるずると引きずられ葵が続き、送り出す為に牡丹が付き添う。
 そうして、広間には僕と朽葉と鉄だけが残された。
「クロガネだってさ。良かったね、五郎じゃなくて」
「ホッホ」
 おかしそうに朽葉が笑う。
 若干名残惜しい響きなのは仕方ないだろう。暫定だったし諦めるしかないが。
 まあ、それはともかくとして、
「僕、いつまでここで寝ていればいいんですかね」
「ホッホ」
 何故そこで笑うのかが解らない。この家の人々は、どうにも一筋縄ではいかないらしい。
 そのまま、僕は自分で動けるようになるまで床に転がっていた。

「ナァ」


 後日談。

 クロガネの姓が決まった。
 美咲、である。
 理由は、僕になんて任せておけない、だそうだ。
 朽葉は相変わらずホッホと笑っているだけ。
 どうして僕のまわりはこうも複雑なのか、説明してほしいが、何も答えてはくれなかったとさ。



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