僕と君と勝負の話 -The Empress .-



 僕と君と勝負の話 前編

(何この異空間、誰か説明してくれないかな)
 堪え切れず心中で独白した僕を、一体誰が責められよう。本当に、何がどうなっているのか。
 何をどういじればこんな摩訶不思議領域が展開するのか、ちょっと教えて偉い人。
 マクスウェルの悪魔でも召喚して解説させよう。そんな荒唐無稽な妄想を思い浮かべるくらい、我が家の居間にはレアなイベントが発生していた。
「……はあ」
 横目で盗み見る先には一人の男。少し遠い場所にあるその名を、西園葵という。
 恐らくこの空間に存在する中で唯一、未だに場の空気を読めていない輩だ。
「で、そこで俺はこう言ったわけです。おいお前、空気読め、と」
「妥当ですね」
 相変わらず白けた返答で相手をしているのは、我が久遠家のメイドにして精神的ヒエラルキーのトップに立つ美咲牡丹である。
 それも当然だった。葵のヤツは僕を理由にこの家へと上がり込んだが、目当てはどう見ても彼女だったからだ。
 何故だか知らないがおまけまで連れて来たので割り込む事が出来ず、さらに言うなら強敵過ぎて意識さえあまり向けられない。
 しかし、自分が誰に向かって喋ってるか分かってるのか。あの冷え切った視線を前にして、他人のエアリーダーについて話題を広げている場合じゃないだろう。この空気詠み人知らずめ。
「……おい、良いのか。お前が溺愛してる分身、他の人を口説いてるけど」
「いいんじゃないの。あの女相手に、あんたらみたいな誅罰下す訳にもいかないし」
 目前には一人の女。あちらで人のメイドさんを口説いている輩の別性別バージョンが、やる気のない事を口にする。
「それからその手甘過ぎだから、あっち見てる暇ないでしょ。チェック」
 続ける声色に変化はない。こいつとしては熱意が足りないイメージを漂わせて、黒い騎士を動かした。
 騎士の剣が歩兵を裁き、その場から撤退させる。それで敵の斜線を阻むものが消滅。
 僕のポーンはそれで最後だった。将棋と違って捕虜制度のない殺伐としたデスゲーム。王は、魔術師と騎士の波状攻撃に捕らえられつつある。
 けど、甘いのは僕じゃないんだよね、西園緋。
「お前さらに性格悪くなったね。しかし、僕はその性悪さを予期していたのです。……これでチェックメイトだ」
「あ゛」
 今まで忘れられていたビショップを、ナイトが動いた事によって開いた空間へ一直線に動かす。
 その駒が、キングにチェックを突きつけていたクイーンを消し去った。目前の顔が一気に青ざめる気配。
 意識を逸らしたのもこの布石、盤上だけが勝負場所じゃないんだよ、これは。
「……くぅ、あたしのが性格悪いって? あんたにだけは言われたくないわねッ」
 その駒は、さながら魔法のように敵陣営へと侵入していた。王は女王がいたその一点からのみ無防備であり、魔術師の射程を阻むものはいない。
 慌ててキングが逃げ出そうものなら、絶妙なポイントで監視するこちらのクイーンかルークによる一撃に倒れるだろう。
 僅かな僕の読み勝ち。ギリギリで甘い手を打てば、聡いこいつは見抜いてくる。その結果排除できるのがポーンならなおさらだ。
 何せ、この西園緋という総司令官は歩兵を極端に恐れている。最大戦力である女王や癖のある騎士よりも、だ。
 チェスとは、チェックメイトの為ならば他の駒など捨石にするのがセオリーだが、こいつは少々主旨を間違えていた。キングに対してチェックを掛け続けるのは、相手のポーンを一方的に排除できるようにする為なのである。順序が逆転しているのだ。
 ま、つい最近までチェスを知らなかったこいつ相手に、初戦でクイーンを量産して包囲。そのあと有無を言わさず、丁寧に全駒を排除した後チェックメイトした僕が悪いのだが。
 あの時は髪を振り乱して嘆く彼女に、不覚にも宗旨替えしようと思ってしまったのは内緒である。
 こいつの可愛さは実に分かり辛いが、表に出ると破壊力が凄まじい。
 そんな感じで、本日も既に三連勝。悔しげに燃える瞳に若干の艶が加わった。
 はっはっは、そんなに悔しいか悪魔よ。お前のそういうシーンはレアだ。もっと見せろ。
 ……あっちもこっちも気が抜けないな、ほんと。
「お前は強いんだけどね。うん、僕よりたぶん上手いと思うよ」
「……じゃあ、何で勝てないわけ」
「そりゃ、腕じゃなくて方針じゃない? 駒に対する執着は捨てないと」
 フン、と視線を逸らす緋。しかし三秒もすれば、また駒を元の場所にせっせと戻している。
 決して僕の駒には触れないで、自分のだけ拾っていくのが実にこいつらしかった。
「まだやるのか、って目してるわね。仕様がないでしょう。あいつはアレだし、あたしは暇なのよ」
「いや、お前とやるのは楽しいから良いけどね」
 純粋な頭の回転において、彼女は僅かながらも僕を上回っている。目標を歩兵の虐殺から王の討伐に変えられれば、相当苦戦を強いられるだろう。
 餌を使って自分より上手い相手を倒すのは楽しいし、実力の近い相手と本気で読み合うのも楽しい。緋は、僕にとって理想的な対戦相手と言えた。
 何せ朽葉は強すぎるし、牡丹さんにはそもそも僕に勝つという発想がない。
 それにいくら欠点を並べたところで、葵の次に親しい友人は、と問われればこいつしかいないし。
 だから問題はチェスにあるのではなく、僕は再度視線をずらす。居間は広く、二人が話しているソファーからの会話は断片的にしか聞こえない。こちらの声も、少し音量を下げるだけで届かなくなる。
「……ああ、そういうこと。そりゃそっか、惚れた相手が目の前で口説かれりゃ、気になるのは男も同じよね」
 呟くように、何でもない口調で緋は言った。その間にも、僕が奪った駒を勝手に自分のところに戻している。盤面には整然とした黒の一団が現れつつあった。
「お前に気を使われるとは思わなかったけど。……っていうか、その言い方だとお前も気になってるって事じゃないの?」
 気になるのは男も同じ。言い換えれば、女も気になる。この場の女とは、言い出した緋自身を示しているのだろう。常識的な読みでなら。
 問題は、そのセリフがいかにも普通の女の子らしいっていう、ただ一点のみである。
「不服がありますって、顔に書いてるけど……? 良いわ、私が勝つまでは好き放題言っておきなさいよ。そのかわり、」
 口調は相変わらず、あちらを憚っているのか静か。しかしその瞳に灯る闘争心の気配が、いつも通りの猛獣がそこにいる事を誇示していた。
 コツン、と己のキングを打ち鳴らす緋。挑戦的な微笑を浮かべ、勝気に釣り上がった目が今度は負けないと告げている。
 これで準備は整ったわよ、さああんたも本気を出しなさい。そういう声が聞こえてくるようだ。全く、兄妹揃って気障な連中である。
「お手柔らかに……ま、僕だって簡単に負ける気はないけどね」
 先読みは向こうが上なのは知っているが、展開のコントロールは僕に一日の長がある。戦略と戦術の違いとは少々違うが、執着を捨てきれない緋はそれだけ打つ手が読み易いという点もある。まだ総合的には僕の方が有利だ。
「言ってなさい。わたしに膝をつかせた人間がどうなるか、そのうちそのぼんやり頭に叩き込んであげるんだから」
 言いつつ、親指でコインを弾く。適当にやったようにしか見えないコイントス。だがコインは完璧な軌道で垂直に上がり、当然のように同じ軌道を描いて落ちた。
 手の甲で受け止める様に淀みはない。その堂に入った男らしさといったら、惚れてしまいそうなほど凛々しかった。
 案外、僕はこいつが好きなのかも知れないな、と命知らずな事を思い浮かべながら、どちらだと問う瞳に告げた。
「裏だ」
「じゃあ表」
 宣言と同時に手をどけた。大理石の如き白磁の手に乗っているのは、表を向いたコイン。
「あたしが先攻ね」
「お前、何か不正してない?」
 チェスの勝率なら今のところ十割。ただし、コイントスの勝率に対しては零だ。二分の一でこれほど負けるなんて悔しい以前に疑わしい。
「あら、生まれた星を鑑みれば自明でしょ。不正してるのはあんたの方。その結果、なぜかわたしが勝つっていう変な事になってるだけよ」
 要するに、僕の運勢は不正並に悪いと言いたいらしい。認めない事もないが、こいつが僕とは逆に愛された星の下に生まれているのも事実だと思うのだが。
 葵が行動力、僕が堅実さで勝負するタイプなら、西園緋という女は総合力で制圧するような高性能機だ。
 何か一つが飛び抜けている人間はそれなりに知っているが、こいつほど高水準なパラメータを誇るやつなど見た事がない。当然、その中には幸運というステータスも含まれているらしく、 結果として、一体何の冗談だと問いたくなる万能人間が出来上がるのだ。
 まあ、その分差し引かれているものがあるのだが。
 天は二物を与えず。ハードが規格外なら、中に入っているソフトも規格外だと相場は決まっている。
「要するに、性格が非常に宜しくない」
「……今なんか言った? 物凄く侮辱された気がしたんだけど」
 気のせいだろ、と完全に白を切りながら駒を戻す。自分にも聞こえないほど小さく呟いたのだが。この地獄耳め。
 内心で若干動揺した僕は、落ち着ける為に視線を逸らした。その先のドアが動き、新たな人物が現れる。朽葉宗司だった。
 彼はその両手にトレイを持ち、その上にはティーカップが四つと大き目のポットが二つ乗っている。
 足元に、特に血統書などない雑種の猫がつきまとっていた。鉄という名のわりに結構軟弱なその猫は、部屋に入るなり緋の足元に擦り寄って丸くなる。動物に好かれているらしかった。
「ほっほっほ、いかがですかな」
 コトンという音さえ響かせず、彼は僕たちの脇にカップを置いた。その完璧な所作は執事を超えてバトラーである。いや、自分でも良く解らないが。
「ありがと。あたしって、朽葉さんの紅茶大好きなのよね」
「それはそれは。こちらこそ、ありがとうございます」
 ほっほっほ、と笑いながら丁寧に礼を告げて、朽葉はあっちの二人の下へと向かった。ずっと意識してはいるが、特に目新しい展開はないようである。
 安心し、置かれていた瓶から角砂糖と一つ落とす。未だに気の強い微笑みを浮かべている緋は、意外な事に何も入れない。
「あれ、お前ストレートだっけ」
 原型なくなるくらい加工しそうなイメージがあるんだけど。そういえば、こいつが何か入れているシーンを僕は知らない。
「ご挨拶ね。あんたこそ、男の癖に砂糖なんて入れてるんじゃないわ。折角の上物が勿体無いでしょ」
 後半は口に出していないはずだが。前々から思っていたけど、僕ってサトラレじゃないだろうな。
 嫌過ぎる想像を巡らせつつ、僕も駒の配置を終えた。先攻は緋、彼女が一手目を動かそうとした瞬間、

「ところで、ボタンさん今週の日曜ひまだったりしない?」

「「――――――」」
 緋の手が止まる。僕の方は呼吸が止まった。
 二人で示し合わせたように、声が聞こえた方を盗み見る。二人とも前傾姿勢で身を乗り出して注視、やたらと顔が近いところにあるが今はそれどころじゃない。
「おい」
「黙って」
 固唾を呑む、とはこの事か。三センチとない空間を隔て、囁き合いながら小さく意思の疎通を図った。その間も視線は一点に注がれている。
 葵の表情はいつも通り。余裕なのか自前なのか判断出来ない笑みを浮かべながら、黙り込む牡丹の返答を待っている。
 住み込みの侍女という職業上、彼女に休日は存在しない。
 正確に言えば休日はきっちり決めているのだが、彼女は平日だろうと休日だろうと生活のサイクルを変える事がない。
 それでも日曜日は仕事しなくて良いとは言ってあるから、彼女の意思さえあれば休日として機能する。
 けれど、
「牡丹さんが頷くはずがない」
「さて、どうかしら」 
 僅かに顔をずらして緋を睨む。視線に気付いたのか、ヤツも睨み返してきた。そこに込められた意味は、とりあえず黙って見てろクソガキ。
 同級生にも関わらず、僕はその念に屈した。仕方なく敵情視察を続行。
 だって、怖いんだもん。
「今週の日曜とは、やはり明日の事でしょうか」
「そうそう。急で悪いんだけど、遊びにいけねーかなーって。とりあえずダメで元々言ってみました」
 僕的には驚天動地の展開だが、牡丹は相変わらず無表情。葵は余裕でへらへら笑っているが、若干の緊張が見て取れる。
 しかし葵よ。君は三つのミスを犯した。
 一つ目、いきなり過ぎる事。いくら牡丹さんが普段から予定など入れない人だとはいえ、前日では準備も何もない筈だ。
 二つ目、最近の牡丹さんの日課は鉄の世話だ。特に日曜は念入りで、あれは世話というより一緒に遊んでいるのだ。
 僕も混ざりたいけど、混ざると仕事に戻ってしまうのであるチクショウめ。
 って、そんな事はどうでも良い。三つ目は、相手が牡丹さんだという事である。
 この僕が何年もかけているのに、未だに二人きりの外出は成功していないのだ。パっとでた君にチャンスなどある訳が――、

「ええ、日曜は暇を貰っていますから、構いません」

「ちょっとまっぐむぅうううううう!?」
 我慢できず突撃しようとしたのに、僕を阻む存在がいた。
 背後からこちらの口を塞ぎ、これは絶対悪意だろうが鼻まで封鎖している細く白い両指。その力は万力の如き強固さで、どうやっても全く解けない。
「むぐッ」
 窒息だけでは飽き足らないのか、その両腕に思いっきり引かれた。背中がぶつかったのは下手人の胸。やっぱりお前はBだったか……!
 僕の叫びに、何事かと二つの視線が向けられている。言わずもがな、葵と牡丹だ。朽葉は視界の中にはいない。
「あ、気にしないで。ちょっとこいつがズルして、制裁してるだけだから」
 冤罪だ! 叫ぶ声も届かず、何だそんな事かと視線が外された。あちらは既に細部の相談に入っている。
 後ろから抱きつかれている状態だったせいか、牡丹さんの目線はいつも以上に冷え切っていた。
 僕が何をした、MyGodよ。
「暴れんなっつーの。良いから、ちょっとこっち来なさい」
 むむぅと抵抗の意を表すが、むむぅでは抵抗の意など表せない。そのままずるずると引きずられ、僕の視界から二人が消えた。どこからか、ほっほっほという暢気な笑い声が聞こえた気がする。
 ここで良いわね、と呟く声。こちらに言っているのではなく独り言だ。僕は答えるどころではなく、苦しいあまりお花畑のような映像が見え始めていたりする。
 次瞬、唐突に拘束が解除された。ギリギリだった僕は、ゼェハァと床に手を着いて空気を貪る。
 やばい、まじ美味しいよ空気。
「おま、殺す気、かッ!」
「馬鹿言わないでよ、殺す気だったら二年前に殺ってるわ」
 睨みながら問い質すと、ヤツは実に平然とそう言った。
 二年前。もうすぐ三年生になるから、確かこいつと始めて会ったのがそのくらいの時期だったか。
 確かに、あの時のこいつなら実際に人を殺しかねなかったかもしれない。
 いきなり恐ろしい過去を引き出され、僕の怒りは一瞬で消え去ってしまった。
 最近微妙に仲が良かったから忘れていたが。そう……こいつは、マジ怖いヤツなのである。
「大体、あんたがいきなり割り込もうとするからいけないんでしょ。いくらダンナサマだからって、休日まで人を拘束しようとするヤツは許さないわよ?」
 ジロリ、という擬音が聞こえてきそうな眼力。さながら僕は、蛇に睨まれた蛙か。
「拘束とか人聞きの悪い事言ってほしくないんだけどね。さっきのは、ちょっとびっくりしただけだよ」
 そう、本当に邪魔をする為に声を上げたわけじゃない。そんな冷静な判断、働く訳もなかった。
 だって、僕が何年もかけて未だに成功していない偉業が、目の前であれほどアッサリ遂げられたのだ。驚くなという方が無理である。
「でも、お前こそ良くないんじゃないの? あれ、一応デートだよ」
 真に遺憾ながら認めないわけにもいかない。それに、牡丹さんと葵なら心配するような事は何もないはず、だし。
「良くないっちゃ良くないんだけどねー、相手があの女じゃ、実力行使に出るわけにはいかないじゃない?」
 緋が牡丹を苦手に思っているのは知っている。見るからに、相性が悪い二人だからだ。その割りには、互いを尊重しようという言動が見て取れるのだから不思議である。僕の知らない間に不可侵条約でも交わしていたのかもしれない。
「けど、そうね。アンタの立場は分からない事もないし――何なら、確かめてみるってのはどう?」
 いかにも天啓を得ました、と言わんばかりの表情を浮かべ、目前の悪魔はそう言った。何故悪魔と表記するのかと言うと、浮かんでいる笑みがあまりに邪な色で染まっていたからである。
 しかし、けど、とか言われましても。
「えっと、何を?」
 確かめるって? 笑みの意味も言葉の真意も汲み取る事が出来なかった僕は、自分でも間抜けだと思えるような反応をするしかなかった。
 案の定、意地悪な笑みは失望したような呆れ顔に。うう、そっちの方がダメージでかいですよヒイロさん。
「……っとにもう、鈍いのも大概にしないと磨り潰すわよ、そのぼんやり頭」
「ゴメンナサイ」
 不機嫌に染まったこいつに抵抗するのは、筋金入りのマゾか自殺志願者の所業だ。数年の付き合いによってその程度は把握していた僕は、条件反射的に謝罪を口にしていた。
 全く情けない。ここは自己嫌悪を覚えるところのはずなのだが、緋に掛かると自分でもそれが正しいように思えてしまうのだ。
 あ、もしかして僕、調教されてる?
「流れから言って、確かめる事なんて一つしかないでしょ。尾行よ、後をつけるの!」
 どうだ、名案だろう! という声が聞こえた気がした。こいつはいつも楽しそうか、いつも不機嫌そうかのどちらかのヤツだと思っていたけど……いつも、どちらも同時に行っているだけなのかもしれない。
 まあ、それはともかく。
「却下。ねえヒイロ、お前それ犯罪だよ?」
 というか、好きな人を後をつけるなんて、ストーカーにも程がある。僕をそんな哀れな道に突き落として楽しいのか、お前は。
 ……楽しいのかもしれない。否定する材料など何処にも見当たらなかった。
「じゃ、あんたはあの女が西園に来ても良いって言うわけ? あたしは、それだけは御免なんだけど?」
「飛躍し過ぎだよそれは。大体、ボタンさんがアオイのところなんかに行くわけないじゃないか」
 たぶん、きっと。
 僕のその希望的観測に、悪魔は嘲笑を浮かべた。その視線の見下し加減といったら、ない。さしもの僕も、穏やかには返せなくなってきた。
 視線が交わる。いつの間にか笑みが消えている。緋の瞳に映る僕も、笑ってなどいなかった。僕たちはさながら決闘直前のように睨み合っている。
「ハ、信じてるってわけ。良いでしょう。あんたのその拘り、認めてあげても良いわよ? ただし」
 言葉を切った緋は、ポケットに手を突っ込んだ。一秒後、その手の平に乗っていたのは一枚のコイン。
 先ほどのチェスで使ったものだった。それを迷う事無く親指で弾く。
 澄んだ音が響き、コインが舞った。何度繰り返しても微塵もズレない正確な軌道を描いて、ヒイロは手の甲を打ち鳴らす。
「さっきのは無しにして、トスから始めてあげる。もう一度勝負よアサギ、あたしが勝ったら従いなさい」
 本当に、気障な女め。内心で呟き腹を括った。
「今度こそ裏だ」
「今度だって表よ」
 互いに短く告げた。緋が手を動かし、コインが現れる。
 今度は裏だった。
「オーケーヒイロ。僕がお前を負かせるのはアレだけだ、お前が勝ったら何だって言う事聞いてあげるよ」
 コイントスによる初勝利、本気になればもはや負ける要素などない。自信を持って僕は宣戦布告した。
「その言葉、忘れたら許さないわよ、アサギ」 



Back   Menu   Next

inserted by FC2 system