僕と君と勝負の話 -And Fool .- 




 僕と君と勝負の話 後編


「で、こうなるわけね」
「……ありえない、ありえないって」
 日曜日の空は晴天。絶好の行楽日和で、僕が念じた願いは天になど届かなかった。
 てるてる坊主を作ったのが小学生以来だったなら、それを逆様に吊るした事など人生で初である。
 朝うっかり牡丹に見られ、小さく溜息を吐かれた事は恐らく一生物のトラウマとなるに違いない。あの人は、要所要所での感情発露は欠かさないらしかった。
 僕の嘆きを他所に、視界の遥か先には見知った二人の姿。言うまでもなく、西園葵と美咲牡丹だ。
「お洒落してる牡丹さん見るのって、何ヶ月ぶりだっけ……」
 つい、自分を追い詰める発言をしてしまう僕だった。それでも目が釘付けになってしまうのは、惚れた弱みというものか。
「自業自得でしょ。まさか真剣勝負でまで、あたしがポーン狙うと思ったわけ」
 疑問系ですらない問いと、呆れを通り越した哀れむ視線。
 問いに答えるのなら、思っていたわけがなかった。僕はこの女を侮った事など一度もないし、そもそも能力的にそのような余裕はない。
 それでも勝利を確信していたのは、パラメーターでは表せないものがあるからだ。その領域においてなら、確実に勝っている自信があった。
 慢心だったのだろう。緋が普段通りに歩兵狩りを始めた事に疑問を覚えたのに、いつもの事だと簡単に流してしまったのが敗因だ。
 誘導するはずがされていたのは僕の方で、気がつけば劣勢になっていた。そこから必死に挽回を図ろうとはしたけれど、対等以下の状態からでは覆せない。そのままギリギリで交わされる接戦の末、僕は始めて緋に負けた。
 二度と通じない手ではあるだろう。次の勝負があったなら、負けなかったという確信は今もある。
 が、一度限りのカードを最高のタイミングで切ってみせた、その絶妙さを否定など出来ない。完敗以外の何物でもなかった。
「あたしが勝ったら覚えておきなさい、って言ったけど。あれは無しにしてあげるわ。負け犬に鞭打って格落とすのも馬鹿だし」
 酷い言い草だ。何が一番酷いかと言えば、真実を口にしているところが特に。
 お前はたった今、哀れな負け犬の背中に、思いっきり茨の鞭を打ちつけた自覚がないというのか。
「言葉にも攻撃力あるって知ってた?」
「言葉には防御力がないのは知ってる」
 ノータイムの切り返しに二の句が継げなかった。要するに、言い訳するなってことですか。
 お前、ほんと性格悪いよ、緋さん。
 言葉がダメなら、とせめてもの抵抗としてお前は酷いヤツだという念を乗せる。
 その抗議を見るや否や、緋は怒るでも笑うでもなくため息を吐いた。
「……たく、このぼんやり頭は。大体ねえ、豆粒にしか見えない女褒める前に、隣の美少女に言う事があるでしょ。そういうの礼儀っていうか、常識だと思うけど?」
 何が大体、なのか分からない。僕の牡丹さんに向かって豆粒とか言うな。そんなに遠くないし。
 というかその言葉、お前だけは言っちゃダメだろ、悪魔さん。
 僕は心に湧いた純粋なその思いを、出来るだけオブラートに包んでプレゼントする事にした。
「……医者の不養生と掛けまして、白雪姫の王妃と解く」
「……その心は」
 胡散臭そうな表情を浮かべながらも相槌を打つ緋。中々ノリが良いのは認めよう。
 その付き合いのよさに免じて、僕は心から笑みを浮かべて答えてやる。
「鏡を見ろ」
「要するに殺されないと解らないって言いたいわけね!?」
 冗談じゃない衝撃が胸部を直撃した。髪を逆立たせて、緋が僕の襟首を掴んだのである。
 鼻がくっつきそうになるほど顔が近い、怒りに燃える瞳にビビりまくってる僕が見える。
 そりゃ怯えもするだろう。この現実世界において、たかがタンパク質の塊が重力に逆らって天を衝いているんだから。
 何製だよその髪の毛、メーカーどこだよ。最新式だからって何でもかんでも多機能にするのは、最近の悪い風潮だぞ?
「ま、外見は別問題としても、常識とか礼儀って言うのはヒイロには似合わないよ」
 そうだろ? と視線で同意を求めた。勿論降伏の意を伝える為に両手を挙げるのも忘れていない。
 別に気を逸らせる為に方便を言ったわけでもなかった。本当に外見は別問題なのだ。
 己を美少女と自称して、嘘くさくならないヤツはそういない。大体魔法の鏡だって、目前の人間が美しい事自体は認めていたと思うし。
 そういう意味ではなく、コイツの良いところは……その、なんだ。
 何だかんだ言って普通じゃない事を苦にも思わない、破天荒かつ奔放な活力だと思うのだが、どうだろうか。
 しかし魅力だとか口にするのは恥ずかしい。それ以上に相手が相手なので、僕は結局端的に告げる事にした。
「ま、元気が一番って事で。お前が可愛いという点にだけは同意してやらない事もないし、渋々ながら」
「……ふん、オーケィ。今はそれで引き下がってあげる。あっちも動くみたいだし」
 やけにあっさりと手を離したかと思えば、知らない間に視線は二人の方へ向いている。目聡いヤツだと思いながら、僕もそちらを注視した。
 ゴチャゴチャしてる間にあちらの相談も終わったらしい。この距離なら、耳を澄ませば聞こえない事もない。
「では、とりあえず昼食で宜しいのですね」
「んじゃあいきますか。この辺なら、わりと穴場知ってるから」
 敬語の使い方がなってないってーの。仮にも牡丹さんは年上だろうが。
 ビルの角から顔だけを覗かせて、僕は内心で葵相手に毒づいた。ついでに怨念とかも送ってみる。
 ぴぴぴー。おまけにぴぴぴー。
 届け、この思い。
「うわっ、気持ち悪い電磁波飛ばさないでよ。鳥肌立つじゃないの!」
「何でオマエに届くんだよ……」
 意味がなさ過ぎるにも程がある。というかこんな冗談が本気で届くなんて、お前は一体何者だ。
「そりゃあたしの方が近いからでしょ。受信設定一緒だろうし」
「そういう問題なのか……?」
 いや、確かに双子なら同じ周波数で動いているのかもしれないけど。本当にそれで納得して良いのか僕は。
 とりあえず緋のアンテナが髪の毛と同じ特別製という事だけ理解しておこう。決して僕がおかしいのではない。
 僕には変な送信機能なんて付いてない。別に髪の毛がキタローチックだったりもしない。ないったらないんだからね……!
「ま、あんたの葛藤とかどうでも良いけど、目的忘れちゃダメよ。もし見失ったりしたら――酷いからね」
 それはアレですか。見失う行為が酷いという可愛らしい注意ではなく、見失ったら酷い事をするという容赦のない宣誓ですか。
 当然後者だろう、文脈的にも人物的にも。問題はむしろこの悪魔をして酷いと言わしめる行為に、一体どれほどの凄惨さが秘められているのか、という点か。間違いなく生命の危機っぽい。
「ら、らじゃーであります……」
 既に追跡に移っている背中に向かって、ガクガク首を振りながら答えた。あの死刑宣告だけは現実にしてはならないと誓う。
 告げると同時に炯々と灯ったあの不吉さと言ったら、もはや筆舌に尽くし難い。
 いくら緋でも流石にそこまでしないだろう、なんて甘い楽観を焼き尽くすには十分過ぎる魔性を帯びていた。
 マジで人間とは思えない。猫だって昼には目なんて光らせないのに。
 どうやら休日に女の子二人で出掛けるという甘美な幻想は、今日の僕には一片たりとも許されていないようだった。

 ***

 それからの事をあまり詳細に記述したくはない。
 何でかと言うと、、
「これはどう見てもストーカーです、本当にありがとうございました」
「あんた、それの元ネタ知ってて言ってるわけ……?」
「え、元ネタあるの?」
「もう死んじゃえバカ」
 物凄い蔑みを込めて緋は言った。うっかりマゾな素質に目覚めそうなほど、背筋に突き刺さる侮蔑であった。
 不潔、最低、ぼんやり頭、という罵倒が後に続く。
 オタクな友達が良く使う定型文なのだが、何か言っちゃいけないものなのかもしれない。
 むしろその元ネタを知ってるお前は何なわけ、という問いは一先ず置いておく方が懸命なのだろうが。
 隠れてコアな趣味もってるんじゃないだろうか。過保護な親父さんの心配事が、また一つ増えた気がした。
 そんな感じの、身近な砂漠地帯拡大の危機。
 というかそんなことより、そういうセリフには心を込めないでほしい。蔑みも、もう少し隠してくれ。
 ……あれ? ぼんやり頭って罵倒だよね?
「そうは言うけどさ。実際これ、犯罪スレスレだよ? っていうか僕は周りの目が痛い」
 自分で言うのもなんだが、僕たちはうら若い男女である。
 別に高校生二人が珍しいはずはない。けれどもしその二人が薄汚い壁に張り付いて、探偵ごっこをやってればその限りじゃないだろう。
 頭だけで様子を窺っていれば牡丹さんたちにはバレないが、向こうから歩いてきた人たちは一様に「何だこいつら」という顔をしている。
 放っておいて、頼むから。
「男のクセに意思薄弱も甚だしいわね。視線なんて無視よ無視。カボチャ相手に遠慮する事なんてないわ」
「カボチャ……」
 どこの学芸会の話ですか、それは。
 ツッコミを入れる間もなく緋が動く。
 当たり前ではあった。相手は動いてるから、いつまでもジっとしてはいられない。
 けれど何が楽しいのか、それを追跡するストーカーもどきの挙動があまりに不審だった。壁から壁へ動き、等間隔に存在する植林の影に潜む。
 ゆえに、普通に歩くより遥かに目立っていた。むしろこの不穏さに振り向かれない事が奇跡っぽい。
 周囲の通行人たち、緋曰くカボチャたちは例外なく奇異の視線を向けるのは無理からぬ事であろう。
 しかもこの際マイナスでしかないが、本人の無駄な可愛さが注目に拍車をかけている。兎耳のようなツインテイルが走るごとに元気に揺れる。
 正面から来る人は凝視してるし、通り過ぎた人は振り向くし。ふわふわ、ふわふわ。と、催眠術の如き視線誘導術であった。
 あの口元がによによしてるのは、きっと楽しみまくってる証拠だ。
「って、何で僕まで釣られてるんだ。……見つかったら何て言い訳しようかな」
 今朝のてるてる坊主の一件もある。牡丹にまたため息を吐かれるのは避けたかった。アレ、本気で堪えるのだ。
 そんな風に今後の身の振り方について思案していると、いきなり襟元を捕まれた。グイっと引き寄せられ、バランスを崩しかける僕。
「な、なにごとー!?」
「何事じゃないでしょ、とろとろしてるんじゃないの。――あいつら道曲がったから走るわよ。こんな所で見失えないだからさっさと来なさいッ」
「な、なるほどー!?」
 走るわよ、という言葉が出る前に既に僕たちは走っていた。僕に限って言えば強制だが。
 襟元をひっぱられているので下手に止まろうものなら、そのまま前に転びかねない。
 というか、
「どうでも良いのかもしれませんしやっぱりどうでも良いんでしょうけど、首絞まりそうですヒイロさん。持つ場所間違えてやいませんか」
「犬引っ張るのに首以外のどこ引けっていうのよ」
「犬!? 酷ッ!」
「うっさい」
 きゃうん!
 襟元の圧力が急上昇。極悪飼い主に虐待される子犬ような鳴き声を上げつつ、僕は慌てて崩れたバランスを整えた。
 転倒を免れる為つんのめながら慌てて走る涙目の男と、その男を犬のように引っ張って走る兎系兵器の二人組み。
 ああ、周囲の目が痛い。
 羞恥心とか良心とかそういうのに心の隙間をグチグチと突かれながらも、僕は半ば自動的に追従して足を動かす。
 とりあえずコソコソ無駄に目立つより、まだ走っている方が奇異に思われないのが救いだった。
 今度は肉体的に辛いのだが。というのも、引っ張られながらの運動は妙な負荷が掛かる上に、酸素供給は三割減だ。おまけに結構ペースが速い。
 こんな速度じゃ追い越してしまうんじゃないだろうか。
 いや、そんな事より気になる事があるというか、男一人を引きながら楽々走るお前は一体何者か。
 身体能力でさえ負けているのではという危惧を覚えながら走っていると、角を曲がった直後、いきなり緋が反転した。

 クエスチョン。
 この状態で緋が引き返すとどうなるか。
 アンサー。
 絞まります。主に僕の首が。

「ぐぇ」
「変な声出さないの、絞めるわよ?」
 既に絞めてますっていうか、お前が言うのか、お前が。マジ外道ですねあんた。
「とりあえず追いついたけど、おかしいわね。何であいつらこんなとこ来たのかしら」
「――っていうかここどこだよ、思う存分引っ張りまわしてくれたけど。僕にも分かるように説明して……って、あれ?」
 呼吸を落ち着けてみれば、問うまでもなかった。物陰から見える二人は、とあるビルの中に入っていく。
「何で映画館なんだろう。ご飯にするとかいってなかったっけ」
「さあ、ポップコーンが食べたかったんじゃないの。とりあえず行くわよ」
 あ、やっぱり入るんですね。
 調査対象が入るのだから当然の流れなのだろうが、正直映画なんて見る気分ではなかった。というか、あの空間に入りたくないのだ。
 何故なら映画館の入り口は当然のように人がごった返していて、二人ともはぐれずに追跡するには、とある試練を突破せねばならないのである。
「ちょっと、何一人で行こうとしてるのよ。はぐれたら面倒なんだから、手離しちゃダメよ」
「僕は今、女の子に対する幻想を、一つずつ丁寧に粉砕されてる気分だ」
 つまり、試練とはそういうこと。
 何が悲しくて、好きな人を追いかける為に別の女の子と手を繋がなければならないのかと。それもよりによってこいつだし。
 人生最大級の嘆きに苛まれながら、僕は人混みを掻き分けて進んだ。
 こういう時だけ当然のように後ろをキープしているのが、彼女が西園緋たる所以である。
 やっとの思いでターゲットたちと同じ列に並ぶと、両肩に手をかけて乗り出した。
 おい、ちょっと待て。止める暇もなく、耳元で彼女は言う。
「怨霊の匣ねぇ……。あのバカがデートで映画館選ぶはずないし、あの女の趣味?」
「た、たぶんそう、だと思うけど。東国冬彦、好きらしいし」
 それより、胸当たってますから、胸。言い出せない上に、かなり動揺している自分が悲しかった。
 意識するともはやどうしようもない。背中の感触どころか、キッチリ繋いだ手の柔らかさとか一々耳元にかかる声とか。
 確信犯なら死刑確定だが、今回は無意識らしいのでなおさら困る。
 もはやどうにでもなれ。赤い顔で捨て鉢になった僕を、受付のお姉さんが微笑ましそうな笑顔で迎えてくれた。
「大人、二枚下さい」


 ***

『陰子さんのそばには計画の発覚を強く厭い、なおかつ遺産の獲得を強く望む者がいた――』
『あんただ、山坂さん』
『そうだ! その通りだ高禅寺』
 スクリーンの中では何やら探偵役らしい胡散臭い男が、重要人物らしき博士を問い詰めていた。
 もうすぐクライマックスなのだろう。流石名作と世に謳われることはあって、全く興味のない僕もそれなりに引き込まれた。
 正直理解できても、したくない内容ではあるのだが。というか、なんだか先が読めてきたので気分が悪くなってきた。
 視線を僅かにずらし、スクリーンの正面、僕たちより右斜め前方にいる二人組みの様子を伺う。
 牡丹さんは、用がなければ置物のように動かなくなることがあるが、今はそれに拍車をかけて人形のようになっていた。
 少ない経験の中から推測すると、アレは相当見入っている。横で手を繋ごうと悪戦苦闘している葵など存在からして忘れている。
 あの人でも熱中するのか、という新発見を得たわけだが、僕としては横にいる狼藉者の計略が気になって仕方がなかった。
 精神を落ち着かせる為にあえて隣を見れば、面白くなさそうな顔が一つ。どうやらその表情は真実らしく、僕の視線に気付いた彼女は目敏くこちらに

顔を向けた。
「何よ、別に面白くないわけじゃないわよ」
「強がらなくてもいいけど。その台詞はどんな言い訳よりも雄弁だよ」 
「うるさいわね、ほんとに嫌いなわけじゃないのよ」
 じゃあどうした、と問うことはしなかった。目を逸らした仕草が、それは聞くな、と言っていたからだ。
「まあ、いいけど」
 いくら相手が悪魔謹製の極悪少女だからって、無神経に振舞うことが許されるわけじゃない。いや、報復云々は抜きとしても。
 多少の空気は読めると自負している僕としては、そわそわしている緋という非常に珍しい状況を、あえて見送ることにした。
 が、その気遣いは一瞬にして無意味と化す。何故なら、緋は自分から口を開いたからだ。
「落ち着かないのよね、集中できないっていうか」
「うーん、何が?」
 この天上天下唯我独尊を地で行く女が、周囲を憚ったわけでもあるまいに。
 理由は不明だが、緋は普段から想像もできないような静かな口調でそう言った。
 僕の問い返しに戸惑いが混ざったとしても、それは仕方のないことだっただろう。
「この空間よ。人に囲まれてるのに、そんな気がしないじゃない。隣にあんたがいなかったら、耐えられなかったかも」
「……えーっと」
 それは非常に微妙な発言ですよ、西園緋さん。
 意表を真後ろから串刺しにするような台詞に、僕は言葉を失った。
 何というべきかと脳細胞をフル回転させるべく、一度緋から意識を逸らしてスクリーンを見た。

『さあ、匣に入ろう』

 見るんじゃなかった。最悪に嫌なシーンに、僕はすぐ顔を背けた。
 えっと、なんだっけ。そう、緋がいきなりしおらしくなって、えーっと、この空間がなんとかだからつまり。
 そうか!
「ねえ、ヒイロ」
「なによ」
 僕は難問を解き明かした博士のように清々しい笑顔で言った。
「映画館はじめてだったんだね、オマエも結構可愛いところがってぐはッ!?」
「この、ぼんやり頭が」
 匣の中の人から、あほうと言われた気がした。

***

「もういい、帰る」
 映画館を脱出して開口一番、それまでずっと黙っていた緋が言った。
「賛成だ、帰ろう」
「……」
 視界の先にキッチリとターゲットたちの影を収めながらも、その言葉に同調すると、途端不機嫌を復活させて僕を睨む輩が一人。
「なんだよ?」
「やっぱり続行よ」
 問い返せば即答。何を怒っているのが、アスファルトを踏み抜かん勢いで歩き出す。
 只ならぬ気配に、周囲の人ごみが割れた。モーゼの生まれ変わりかお前は。
 今振り返られれば一発でバレるのだが、幸か不幸かそのようなことはないようだ。僕は仕方なく忠実な部下のように追従する。
 なんなんだよ? という疑問は控えることにした。まださっき一撃されたところが痛かったので。
 
***

「あら、美味しいわねコレ? 何であたしに教えないかな、あいつは」
 紅茶片手に嘯く姿には、先ほどの不機嫌は欠片も見られない。それも当然、今不機嫌なのはどっちかというと僕である。
 少しだけ見張りを緋に任せて、トイレに行った一瞬の隙を突かれたらしい。
 戻ってみると、今日の目的である二人は影も形も見えなかった。
 事は十分ほど前に遡る。
 映画館を出た頃には既に昼は回っており、当然予想したように牡丹さんたちは昼食にすることにしたらしい。
 先導していたのが葵なので、朝言っていたお勧めの店とやらが目的なのだろう。緋は相変わらず不機嫌だったが、原因もさっぱりなので僕は半ば放置していた。
 若干白けたムードが漂う中(無論僕らである)牡丹たちが辿り着いたのは、見るからに穴場っぽい喫茶店。
 僕たちは少し様子を伺ってから突入を開始した。店は適度に賑わっていて、幸い通された席は近からず遠からずといった条件だった。
 見つかる心配はないと判断し、しばらくしてからトイレへと席を立ったのだが……。
 もしかしたら、最初の最初から気付かれていたのかもしれない。誰のせい、とはあえて言わないが。
「どういう釈明を聞けるか期待したんだけどね、見失ったら酷い事していいんだっけ?」
「あんたが長いから悪いんでしょ?」
「長くねえよ」
 知らない人が聞いたらそっちの方かと思っちゃうだろ。
 っていうか自分が言い出したことなのに、なんでこいつはこんなにも平然としているのだろうか。
 まあ、単純に飽きたのかもしれないが。最後の最後まで僕は振り回される運命らしい。
「ま、どんな酷い事でもやれるものならどうぞ」
「む……」
 告げる声音には、内容と反してどうしようもない嗜虐の色が混ざっていた。口元には嘲笑と紙一重の三日月が浮かんでいる。
 どうせ僕に何かできるわけもない、と思っているのだろう。
 いつもならその通り。何も返すことなくそれで引き下がる所だが、今日の僕は若干神経が磨り減っていた。
 ……っていうか、ちょっと頭にきてますよ?
「どんなことでも?」
 問い返した時、確かに緋は驚いた。二度ほど大きく瞬きをし、僕を見る。それでも余裕は残っているらしい。
「どんなことでも」
「仕返ししない?」
「仕返ししない」
「――本当に?」
「ほ、本当よ」
 不動に見えた余裕は、繰り返すごとに剥がれていった。最後にはらしくもない動揺が現れる。
「しつこいわね、何なら一つじゃなくていくつだってやってみなさいよ! 何だってやってやるわよ!」
 言質はとれた。僕ははじめて笑みを浮かべる。先の緋に習って、ニヤリと。
 この際気付いていないのかは好都合だが、「酷い事」から「なんでも」に話が摩り替わっていたりする。
「言ったよ? 約束だよ? 破ったら絶交するよ?」
「え……ぜ、絶交?」
 何気なく言った言葉に、しかし彼女は表情を変えた。言葉にするなら、それは不安だろうか。
 どれが琴線に触ったのかは、問い返してきた単語からして自明だ。
 面白くなって、僕は確かめてみることにした。
「絶交」
「そんな、子供みたいな」
「絶交」
「ちょっとくらい、怒り返したって良いわよね?」
「絶交」
「べ、別にあんたなんか」
「絶交」
「……手加減とか?」
「絶交」
「……う」
「でも、態度によってはなきにしもあらず」
「……」
 沈黙。が、それも長くは続かず、
「……ごめんなさい、あたしが悪かったです」
 萎れた花のようにヘナヘナと肩を落として謝る緋。素直になると、普通に可愛いヤツだった。
 そういえば友達いなかったっけ、こいつ。昔を思い出してみれば、孤独に強いわけじゃないのかもしれない。
 なんとなくそれで満足してしまった僕は、呼び鈴をならした。奥から店員さんが来る気配を感じながら、僕は言う。

「ま、そのうちにね」

 ***


「というわけで僕は帰るわけだけど、送っていかなくていいの?」
 目的を見失った僕たちにやることなどあるわけもなく、なんとなく街を彷徨うのも飽きたので解散という流れになった。
 そろそろ空の色は、青からオレンジに変わりつつある。僕的にかなり疲れる一日だったが、それなりに収穫はあった。
 なんといっても、この全天候型強襲兵器に対して一歩リードしたのである。これを収穫と言わず何と表現すればいいのか。
 最終的に上々な気分となった僕は、家が近いというということもあり送っていこうと言い出したわけだが、
「これ以上借り作らせてどうしろっていうのよ、一日絶対服従でもさせたいわけ?」
 ツン、といつもの調子に戻って緋は言った。先ほどの記憶は抹消するつもりなのかもしれない。
 させるわけがないんだけどね。
「それもいいね、何でもいいんだっけ?」
「ぐ、……じゃあね!」
 結局、怒ってるんだか笑ってるんだか判らないいつもの表情を浮かべて、颯爽と駆けて行った。
 今日に限り、逃げていった、と表現することにしよう。ざまあ見やがれこの悪魔め、である。
 何故か残った一抹の罪悪感と物足りなさに、首を傾げつつ家路に着く。鍵を開けると、丁寧に揃えられた牡丹さんの靴があった。
「あれ、もう帰ってるのか」
 独り言を呟きつつ脱いだ靴を整えてリビングへ。案の定そこには、鉄を膝の上で撫でながら休憩している牡丹さんの姿。
「おかえりなさいませ、旦那様」
 僕に気付くと静かに立ち上がり、普段通り礼をする牡丹さん。膝に乗っていた鉄は突然の天変地異に驚いて逃げていく。
 いい気味だ猫よ、と内心ほくそ笑んだ僕だが、牡丹さんの雰囲気がいつもと違うことに気付いた。
「た、ただいま」
 若干乱れた心拍数を整えつつ、僕は返事をした。そういえば、と今日一日の自分の行動を思い出す。
 最後に上手く逃げられてたのは、バレていたからなのかどうなのか、確認してみるべきだろうか……。
 そんな無謀な選択肢は選べない、と内心で却下した僕に、絶対零度の声がかかった。
「それからアサギ様、差し出がましいようですが」
「は、はい」
 煙草に火をつけながら彼女は言った。その動作に、僕の背筋に冷たさが走る。
 何故なら牡丹が僕を浅葱と呼ぶ状況は二つだけ。
 一つは怒っている時。
 もう一つは、物凄く怒っている時、だ。ちなみに前者か後者かは煙草の有無で分かる。
 結果として、今の彼女は物凄く怒っていた。僕としては叱られる子供のように縮こまりながら、牡丹の言葉を待つしかない。
 煙草を一度だけ吸い、静かに吐き出す。そして取り出した携帯灰皿に落とすと、彼女はナイフのような視線を僕に向けた。
「主の振る舞いとしては、如何なものかと」
 何が、とは流石に言えなかった。やっぱバレますよねー、と心の中で逃避気味に頷いてみる。
「えっと……いつから?」
「ニシゾノ様が探偵ごっこに興じられていた頃から、でしょうか」
 この場合の西園様というのは、当然緋のことだ。
 ってことはつまり、最初からじゃん。
「それで映画館を先にしたわけですか……」
「ええ、目的は先に済ませるべきだと仰られましたので」
 葵がそう言ったということか。当然、不躾な追跡者たちをさっさと撒いて、愛しい人を帰宅させるためである。
 牡丹が葵の誘いを承諾したのは、あの映画が見たかったからなのだろう。そうでもなければ、あれほど簡単に頷くわけもない。
 そういう事情を、あいつは意外と分かっているヤツだ。それでも至福の時間を妨害した僕に、明日辺り報復してくるかもしれないが。
 とにかく、と牡丹はため息をついて〆の言葉を口にした。
「済んだことについて追求するつもりはありません。ですが侍女として、アサギ様には今後ご自身の立場を弁え、思慮深く行動してほしく思います」
「……はい、ごめんなさい」
 他にどう言えというのか。主犯ではないとか嫌々だったとかそういう言葉を口にすることは可能だったが、そんな男は僕自身許せない。
 ならば謝るしかなかった。日本海溝より深く反省して謝罪の言葉を告げると、牡丹はふっと表情を緩めた。
「それで」
「はい」
「今日は、楽しめましたか?」
「いや本当にすみません。楽しむつもりなんて」
 許してくれたと思ったのは気のせいだったのか、僕は慌てて弁解の言葉を繋ぐ。が、牡丹は首を振っていいえと答えた。
「そういう意味ではありません。ええと、そうですね」
 珍しく言い淀んで、僅かに思案する牡丹。ストーカー行為が楽しめたか、という意味でないならどう意図での言葉なのか。
 大人しく言葉を待っていると、牡丹の目に鋭さが宿った。一瞬、言い様のない緊張を僕は覚え、

「ニシゾノ様……いえ、ヒイロ様と二人きりで、どうでしたか?」

 何気ない言葉。なのに突然、酷く核心を突かれた気がした。
「べ、別にあいつと二人でいるのは珍しいことじゃありませんよ。そりゃ、今日みたいな犯罪一歩手前はありませんけど」
 僕は理由のない焦燥に追われて無意味な弁解を告げる。
 何故か、楽しかったの一言だけは言ってはならないと思ってしまったのだ。
 好きな人の前だから、という意味ではない。それは、僕自身が認めてはいけないことなんじゃないかと――。
「そうですか」
 その後の追求に理由もなく警戒した僕だが、牡丹はそれ以上話を続けようとはしなかった。私は仕事がありますのでこれで、とリビングを出て行く。
 僕は彼女の言葉に生返事を返しながら、突然湧いた違和感について考えていた。
 別におかしなことではない。珍しいことでもないし、ましてやアイツと二人でいることは後ろめたいことでもないはずだ。
 牡丹が嫉妬することはありえないし、葵は緋だけは愛していないと公言している。では、何故牡丹の言葉にあれほど動揺したのだろう。
「大丈夫だ、別にどこもおかしいことなんてない」
 言い聞かせるように独り言を呟く。けれどそれで真実だ。何故なら僕が好きなのは、美咲牡丹という煙草の似合わない侍女様であり、

(今日のアイツは可愛かったな、なんて、絶対に思うわけがないんだから)

 


 後日談。

 


「アサギ、てめぇえ待てコラァアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!」
「ヒイロ、オマエ共犯っていうか主犯じゃないか見てないで助けてくれ!」
「イヤよ、助けてほしかったらあの切り札使いなさい。っていうか使え?」

 アイツが可愛いなんて思い過ごし以外にありえない!

 


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