心の居場所 夢の在り処



 夢も希望も未来も愛も、貴方さえも消えてしまいましたね。
 だから、言葉通りに全てを引き継ぐと誓ったんです。
 先生、私は上手くやれるでしょうか。
 それだけが、心配です。

  ***

 嫌な、夢を見た。
 目が醒める。無意識に今、自分がいる居場所を確認した。
 視界にあるのは青空ではなく灰色の天井で、私が身を預けているのは草原ではなく硬い寝台らしい。
 理解と同時に、意味もなく身を起こした。見渡せばそこは私の部屋でしかない。
 見飽きた物しか存在しない空間、こんな物しか残らないという事実を、煩わしいほど脈動している心臓に見せ付ける。
 この胸を焦がしている感情が現実に納得して引き下がるまで、そんな風に私はひたすら黙っていた。
 五分ほどしただろうか。鼓動は既に正常化し、脳裏に焼け付いた映像をただの幻だと笑って、目を逸らせるくらいの平常心は戻っている。
 そうなれば後は簡単だ。幻想は幻想らしく、詳細も掴めないまでにぼんやりと萎んで、霧に霞むように意識から消えた。
「……ふぅ」
 毎日毎日、飽きる事なくため息を吐く。そして昨日を焼き回すように枕元に転がっていた葉巻を手に取り、火を灯した。
 この葉巻は出来損ないだ。低級品の粗悪なドラッグでさえないけれど、私が扱うものとは多少コンセプトが似ている。
 ただこれをどこの誰が作り出したのかは知らないし、依存性も高揚効果も低くて使えたものじゃない。
 消費者にも生産者にも等しく見捨てられ、今は物好きな道楽者が少量を流通させている程度。昔は出回っていた煙草というドラッグを改悪した結果、こんな物になったのだろう。
 もはや地獄でさえなくなったこの世界で、これでは人の精神を誤魔化せない。こんな物を吸っているのは今時本当に珍しい健康志向者か、私くらいのものだと常々疑っているのだけど。
 そんな下らない事を考えている間に、葉巻は殆ど煙と灰に分かれて消えた。結局今回も良く判らなかった味に顔をしかめつつ、適当に使わなさそうな皿に押し付ける。そのまま立ち上がり、着替えもせずに壁にかけてあるコートを羽織った。
 擦り切れたジーンズと、部屋着の上にくたびれた男物のロングコート。外は今日も寒いだろうが、これで耐えられなかった事はない。
 昔から使い続けてきた曇り気味の丸眼鏡をかけて、長くなった髪を後ろでまとめる。競技の存在しなくなった黒い野球帽を被り、外出の準備は整った。
「では行ってきます、先生」
 誰もいない部屋に向かって呟いてから、さあ、と気合を入れてみる。
 いつも通り、世界を薬漬けにしてしまおう。彼が定めた役目を続けなければならない。
 

 きっと、今日もこの世界には夢が足りないだろうから。

  ***

「断言しよう、ヒノモリ君。この世界にもう子供は生まれない。故に愛は消え、人々は日々死に続ける。神を信じる事さえ叶わず、いずれ争いの果てに最後の一人まで倒れるだろう。だから」
 だから。その後に彼は、一体どんな言葉を続けたんだっけ。

  ***

 受け取った金を確かめ、ブルーローズを手渡すと客は足早に私の前から立ち去った。その後姿を見送りながら、いつも通り昔の事を思い出す。
 考えるのは軽い事。例えば彼は、一度として私の呼称を改めようとはしなかったな、なんて。
「先生。貴方は本当は、この世界をどうしたかったのですか」
 思わず口に出た疑問を、私は首を振ってなかった事にする。
 誤魔化すように天を見上げれば、そこには空の代わりにただ闇が支配している。周囲が暗くないのは、ただ電灯が太陽の代わりに働いているからに過ぎない。
 見上げる価値のない、この天井の下に取り残されて十年が経つ。そして、私がこの生活を続けて三年。
 生存者自体かなり減った気がするし、そろそろ軋みが上がる頃かもしれない。
 酷い災害だったのは覚えているが、原因が何だったのかは謎なままだ。だから外がどうなっているのか誰も知らないし、死ぬまで一生この地下都市から逃げる事はできない。もはや終わりを回避する術はない。
 ゆえに、街の住人はこの場所を世界と呼ぶ。形容詞をつけるなら、腐った世界だ。住人は全てが閉ざされたこの世界に適応し、青い空なんて忘れたような顔で暮らしている。 そうでない人間なんて、一年ももたないのだから当たり前だ。
 私くらいからの人間は全てがそう。もう少し下である十代の少年少女は、自然という単語そのものに違和感があるだろう。 彼らは
 それでも青い空と、緑の大地を求めない人間はいない。証明として、私がばらまく薬を求める者は後を絶たない。

 薬の俗称はブルーローズ、誰がそう名付けたのかは知らない。他のキツイヤツと比べれば、実に他愛無い幻覚効果を持つドラッグだ。
 肉体的な依存性は軽微で、副作用も生活に異常をきたす物ではない。その気になれば、いつでも断ち切る事ができるだろう。
 尤も、精神的な依存性で言うのなら随一だろうが。何せ多種多量あるドラッグの中でも、リピーターの割合はトップである。
 そこでふと思った。この腐った世界にも秩序を保つ組織は存在するが、これを唯一扱う私が捕まることなどありえるのだろうか、と。
 自分でも一度だけ使った事がある。最初の被験者が私だったのだから当たり前だが。彼が開発した薬の効果は一つだけだ。
 思い出を繰り返している間に、また一人の客が現れた。
 それは十代の少女で、当然リピーターの一人だ。おぼろ気な記憶しかないだろうに、だからこそあの光景を忘れる事ができないらしい。 数そのものが少ない彼ら彼女らは、恐らく私と見えている世界そのものが違うのかもしれない。
 相場から見てもそれなりに安い対価を受け取り、定量の錠剤を渡す。名称のわりに、見た目は白い風邪薬だ。
「見渡す限りの青い空と緑の草原、か」
 レシピは今や私だけが知っている。あの調合でなぜこのような単一映像を生むのかは、先生にしか解らないだろうけど。
 地下に死ぬまで幽閉された人々。皆が心の底から求める物を、あの人は確かに作り出して見せた。例え一時の夢幻であっても、人は天地を無くしては生きていけない。
 だからこそ彼は死んだ。だからこそ私は続けた。結果はいつ訪れるのだろう。私はそれを、受け入れる事ができるだろうか。

 そして今日三人目の客。先ほどの少女とは違って初老の男性だった。スーツを着て仕事をするのは、どんな世界になっても決定事項であるらしい。
 彼には交換の際、いつもありがとうと言われた。いいえ、と首を振って見送る。本当に、礼を言われて良い人間じゃない。私は世界の敵なのだから。
 この仕事を始めてから、全く共通の無い人々と出会ってきた。病んだように見える少年も、溌剌とした気配の女性もいた。今にも死にそうな老人が血のついた服装で現れた後、致命傷を受けた無一文の少女にタダで薬を与えた事もあった。
 全てが罪に塗れている。同時に、彼らは咎無き者たちだ。それは他の薬を扱う売人も同様で、罪人は彼の意志を継いだ私しかいなかった。
 遠いあの日に誓った。身を切るような喪失感の中で、心を切り払う契約を交わした。
 その尊さを裏切るつもりはないけれど。
「先生、本当にこれで良いのですか」
 必要である事が、正しい行いである証明にはならない。彼は今、どんな地獄で上を見上げているのだろうか。
 その先には、せめて空があれば良い。そんな事を考えながら、手持ちの薬が無くなるまで私は天を見上げていた。

  ***

「この腐った世界では、縋れる物が必要だ。約束された終末を前に、皆が安楽に身を任せるには医者が一人足りない」
 実行者が必要なのは判った。けれどその医者は終末の時どうなるのか、最後まで教えてくれなかった。

  ***

 ブルーローズを売り終えた頃には、もうすぐ昼になろうとしていた。
 尤も昼夜などただの概念でしかなく、意図的に調節された光を示す尺でしかないのだが。
 尾行を避ける為の、出鱈目なルートでの帰路。 途中、数年を先生と共に過ごした学校の前を通り過ぎた。
 勿論、こんな世界で学問など意味はない。唯一の師弟が去った今、この建物は廃校という事になるだろう。
 思い出す、その行為だけが私を今も支えている。
 この地下に閉じ込められている中で、他の住人の様にならなかったのは彼のおかげだ。
 光と大地を奪われ、絶望にも薬にも染まることなく生きていられるのは、未だ消える事のない大切な意志があるから。
 そう、あの人の言葉を私は全て覚えている。頼りない笑みも悲しさを隠した目も、結局最後まで諦めなかった意志の強さも。
 いつもいつも飄々としていた。これほどまでに腐り果て、争いの絶えない世界で彼だけは変わらなかった。
 地上にいた時には興味もなかったはずなのに、ここで再会した時、私は途方もない衝撃を受けたものだ。
 その理由は後から知れた。何の事はない、否応なしに人々を変えてしまう世界だと思っていたけれど、そうじゃなかっただけ。
 変わってしまうのは自分が弱いからで、決して世界のせいにしてはいけないのだと教えられた。私と違って彼は強い人間だったという、それだけの事実に、酷く打ちのめされてしまったけれど。
 それでも必要な学習の一つだった。だから、先生。私は、彼に生きる意味を教えられた。
 そして、その中で一番大切な事は、罪の在り処。
『けれどヒノモリ君。弱い事は悪じゃないんだ。だから人を殺す事も、麻薬に頼る事も、この世界では地獄に堕ちるほどの罪にはならない。仕方のない事だから、悪だと責めてはいけない。――悪っていうのはね、世界に逆らう事なんだよ』
 だから、きっと彼は地獄に堕ちたのだろう。そして私も同じところへ行きたい。行けるかどうかは、私が上手くやれるかどうかにかかっている。
 世界と人々を騙し、欺き、青い薔薇を敷き詰めた棺に埋葬する。それが地獄行きの条件なのだから、喜んで成し遂げよう。
 私には彼がいたから何とかなって、その思い出で今も何とかやって行けている。死後を売り飛ばす程度の事は構わない。地獄で再会とか夢を見ているわけでもないし。

 けれど一つだけ、放っておけない疑問がある。先生は、本当に強い人間だったのだろうか、なんて意味のない疑問が。
 彼には一体何があったのだろう。ただ他人を救う為だけに考え続け、実行し続けた彼自身に、一体何が許されたというのか。
 その疑問だけが晴れないまま、三年もの間ずっと心の底で疼いていた。
 天を見上げて、届くはずのない言葉を、それでも口にする。
「先生、心には居場所が必要です。けれど、貴方は一度でもそれを求めましたか」
 この世界を回す夢の在り処、そんな途方もない事を求めた彼に、果たしてその当たり前が許されていたのだろうか。
 もしかしたら彼は、この奇跡を得る為に悪魔と契約したのではないか。心の居場所など、望めもしない場所に赴いていたのではないか。
「……下らない」
 視線を地面に向け、呟きを呟きで否定。そう思う事でしか理解できない。私が見るべきはここだと、言い聞かせることしかできない。
 それが、どうやら私の限界らしかった。
 
 そうして帰宅。家といっても、廃墟を人間が住める最低限のレベルに改造しただけだが。
 隠れ家のようなもので、実は他に三つほどあった。それもこの三年で使い切ってしまったけれど。
「いや、まさかパンツァーファウスト撃ち込まれるなんて思わないし」
 あんな骨董品が存在していたのが驚きなら、始末した下手人が同業だったのはちょっとしたトラウマだ。
 情報が流されていたらまずいから引き払うしかなかったのである。それ以来、他の同業とも疎遠だ。

 帽子を置き、眼鏡と服装を変えて表通りへと向かう。私が住む裏路地のビルは、売人か客以外訪れる事がない廃墟群だが、用心は必要だ。その意味のなさが判るほど、人とすれ違う事が稀であっても。
 辿り着いた表通りにはまだ活気というものが残っている。この辺りの区画で、唯一商店が集まる場所だから当然だ。
「まあ、比較の問題なんだけど」
 それ以外の言い様が無い。三年以上前、まだ少し世界が鮮やかだった頃は、この辺りは地下とは思えないほどの活気があったのに。
 目に映るのはいくつかの露店。その内二割程度は打ち壊されていて、さらに三割程度はとても商売をしているとは思えない沈黙様。
 まともに物を売っている半数でさえ、客を呼び込む声に力は無い。その内の中でなら威勢の良い一つの露店へ向かい、店主に声を掛けた。
「こんにちは、今日も元気ね」
「やあいらっしゃい、アオバラの嬢ちゃん。いつものでいいかい」
「ええ、お願い。お釣りはいらないから」
 手渡される紙包みには、やや冷めはじめたチキンバーが入っている。
 次いでほんの少し萎びた野菜サンドとの交換に、値段の倍に近い料金を支払った。
「悪いね。ほんとに助かるよ」
「良いのよ、貴方の所に潰れられると私が困るんだから。で、……最近はどう?」
 私の視線は売人のそれだ。けれど店主が顔色を変える事はない。彼は私の協力者の一人であるからだ。
「アオバラの嬢ちゃんがヒイキにしてくれてる分、うちはまだマシだ。昨日東の方で三つ。あと、ここ一週間でうちのが二人。それから他のが全部で二十一」
 アオバラとはブルーローズの売人という意味で、この辺りでの通り名。
 質問には曖昧に答えが返ってきたが、東の地区で三つの店が潰れ、彼の常連が二人行方不明という事らしい。
 他というのは無関係な住人の事で、話題に上る以上は言わずもがな。常識で考えるなら、全員死んでいるとしか思えない。
 そこではたと一つの疑問。私の記憶が正しければ、今のは少々聞き逃せない情報ではないだろうか。
「……待って。東で三つって、東にはもうその三つしか残っていなかったでしょう。あちらにはまだ少し住人がいたはずだし、いきなり全部潰れるなんていくら何でも――まさか、他って」
「そういうこったな。この中央と嬢ちゃんがいる南を除いて、これ全地区が無人だ。犯人が死体のどれかなら良いが、この辺りに逃げてきてるかもしれん」
 告げながら私を見る目には、気をつけろという無言の警告。当たり前だろう。ブルーローズを扱う私は、他の誰よりも狙われる理由がある。それなりの用心はしてあるが、例えば目前の彼が裏切ったら私はそれで終わりだ。
「けれど、本当に単独犯なのかしら。住人同士で殺し合っただけ、という可能性は?」
「全員が全員同じ武装して、せーので互いを蜂の巣にしたんならそれもありえるだろうよ。生憎死体が一箇所に集まっていた、なんて情報は聞いてないがね」
「そう……良く解った。ありがとう」
 コートのポケットから持ってきた薬を取り出す。歩き出す寸前に、素早く店主に投げ渡した。
 情報が有益であった場合の報酬。協力者であっても、同時に彼もまた私の客の一人でしかない。
 渡した量は一人が使う量としては多いが、一人で使うと決まったわけでもない。というより、私の目的は多くの人にこの薬を使ってもらう事だから黙認しているだけなのだが。
 そういう中継を兼ねた客は何人もいる。例えば、今朝二番目に現れた少女とか。

 歩きながら周囲を見渡す。言われてみれば、最近にしては人が多い方だ。三人の店主を加えても東地区の死人は二十四、流石にそれで全滅というわけはないから、他の住人がこの中央区に逃げ込んだのだろう。
 そして、恐らくは犯人も。二十人以上を殺すなんて拳銃じゃ不可能、重火器の類を所持しているはずだ。蜂の巣、という単語からしてそれは確定事項。けれど、いくら殺しが珍しくない世界だとしても、虐殺となれば話は別だ。自警団がいずれ本格的に捜索するという意味でも大事だが、それ以上に犯人の理性が残っているかどうか。狂気に駆られるまま殺戮に走られては、私としてはかなり困る。
 世界に恐怖を振りまかれるわけにはいかないからだ。そういう意味を含めて、この件を放置しているべきではないかもしれない
(それに、私自身が狙われている可能性も無視できない。どうやら、それなりの対策を練る必要はあるようね)
 癖だといっても、表通りで呟くわけにもいかない。心中で思考を回しながら、袖に忍ばせている隠し銃を確認する。
 護身用ではあるが、小さ過ぎてお守りのようなものだ。威力が低い以上、せめて一挙動の内に発砲までこなせなくては意味がない。
 家に戻るまではこれだけが頼り。私が売人だとばれている可能性は低いが、万が一という事もあ――、

「……ッ」
「騒ぐな、金を出せ」

 背中に衝撃、路地へ引き込まれると同時に壁へ突き飛ばされた。正面に人間の気配。
 下手人らしい男の台詞に、一瞬で混乱が収まる。予想外といえば予想外だが、それでも想定内の事象だ。護身を考えた端から凶事に出くわすとは、どうやら今日の運勢、射手座はワーストらしい。占いなど、閉じ込められて以来試したこともないのだが。
(私相手に金を要求するって事は、ただの強盗か。けど壁に押し付けた後拘束しない理由は、)
 刺激しないようゆっくりと頷きながら、強盗の全身を確認して納得がいった。引き込まれたのに腕さえ捻ってこないのは、その両手に後生大事に抱えられている厳めしいサブマシンガンの為だ。間違いない、こいつが東地区で暴れた殺戮者。
「コートの右ポケット。きっと貴方が欲しいものが入ってるわ」
 その言葉に、男は目の色を変えた。こちらに銃口を向けつつも、乱暴に私のポケットに片腕を突き入れる。
 それが私の誘導にしてチェックメイトである事に気付かないまま、男は叫んだ。
「こ、こいつは……!」
 交渉のカードとして、多いに越した事はない。先ほど支払った分を差し引いても、まだ二週間は夢に浸れるほどの量がある。
 物騒なこの世界で、そんなものを一度に持ち歩いている人間なんて売人以外に存在しない。故に男は喜色を浮かべて私の襟元を掴んだ。
 唇を交わすような至近距離、銃口は当然のように逸れている。
「寄越せ! これをもっとよこ――ッ」
 男の声はそこで途切れた。代わりに口から出たのは言葉ではなく、僅かな喀血。怪しい足取り後退りでこちらに銃口を向けようとするが、遅い上に片腕じゃサブマシンガンなど使えまい。
「貴方では、世界が終わる理由には足りないでしょう?」
 告げながら三発撃った。二発を胸部へ、一発を念の為に右目へと押し付けて。それで、文句なしの死体が一つ出来上がりだ。例え何があっても、この男がまた現れる事はない。
 実際は両手の獲物を見た時点で、この結果を確信していた。
 男の失敗は二つ。一つは、密着しなきゃならない行動に、サブマシンガンなんて不釣合いな武器を選んだ事。
 いくら狭い場所で強い武器だとしても、この状況じゃ全く性能を生かせない。付け加えるなら、武器は見せるものではなく隠すものだ。 抑止力としては効果的だが、それも相手による事を知らなかったらしい。
 二つ目は、その上で私の誘導に乗った事。女だからどうせ抵抗しない、という驕りが見えていた。だから無抵抗を装って片手を使わせた。安易に乗る人間はどんな意味でも弱い。ここではそういう人間から死んでいく。
 金品を奪いたいだけならナイフ一本で良かったのに。けれどなまじ殺戮を行えるほど強力な武器があったから、それを妄信的に頼ってしまった。
 結果的に、冷静かつ速度で上回る私の方が、この至近距離では格段に強かった、というそれだけの話でしかない。
 尤も、銃のくせに至近距離でしか使えない隠し銃なのだから、その程度の利点があって然るべきなのだが。
 男の最終的な目的が麻薬の類なのは、理性を欠いた態度を見れば誰でも判る。取引中にいきなり銃殺される事を考えれば、この事態は非常に有利な条件だったと言えた。
 いくつか練っていた対策が意味をなさなくなったが、元凶もいなくなったのだから良いだろう。

 銃声のせいか、人の気配を感じた。遠目に数人がこちらを窺っているのが見える。
 すぐに散らばった薬を回収。重火器なんて持ち歩くと逆に危険を招くので、跳弾しない角度を確認しつつ引き金を撃ち壊した。
 六発入りの小型ピストルには、これで一発しか残っていない計算になる。小型化を最優先に設計されているので、再装填もできない。
 袖に戻しながら、家につくまでは慎重に行動しなければと自戒した。
 そのまま路地の奥に身を隠そうとして、けれど一度だけ男の死体へと振り返った。思案は一瞬、集めたブルーローズの包みを一つだけ男の死体へと投げ捨てる。どうせ、発見者の誰かがもっていくだろうけど。
「せめて、終わりには良い夢を」
 我ながら下らないと思える台詞を置いて、その場から立ち去った。


  ***

「腐り、砕け、末期癌に犯された世界を救う術は存在しない。それでもなおその時まで世界を繕うというのなら、せめて欠けてしまった部分を空想で埋めてやらねばならない。人間もそれは同じだ」
 先生は、いつも悲しそうに笑っていた。己の言っている事が間違いだと、気付いていたから。
 私はあの笑みに、本当は何と告げれば良かったのだろうか。

  ***

 薬を売っている時、私はいつも彼の言葉を繰り返す。
 罪の意識から逃れたいのか、行うべき使命を忘れない為か。恐らくはそのどちらもが真なのだろう。
 この世界で許された安楽は三つだけ。殺人を含めた破壊衝動の開放。薬による強制的な精神の快楽。そして、死。
 殺人は当然、他人からは許されない。倫理によって否定されていないだけで、破壊を行った末に捕まればその先など決まっている。
 死はあらゆる意味で許されているが、それを安易に選べるならきっと誰も苦労はしないだろう。
 薬だけが、人からも世界からも許されている。代償は金品で、こんな世界であっても労働で得られるものだ。残り二つと比べれば安い。
 けれど人間には、本当はもう一つだけ許されていた安息があった。今では、口にすることさえ忌避されるようになった安息が。
 その名を即ち、愛という。
「人間の元感情そのものが最大の禁忌、か。皮肉過ぎて笑えない」
 何故愛が禁忌なのか。先生は二つの理由を示した。一つは、現実的な意味での終末。
 世界が閉ざされたなら、物資は有限にして微小になる。生産は可能、しかし人間は消費の方が圧倒的に多い生き物だ。
 だから近い内に私たちは死に絶える。寿命になど届かず、かといって餓死に至るまでもない。
 最後はあらゆる物をを奪う為に、隣人と殺し合うだろう。食人を行う者さえ出る。子供を生んで食い扶持を増やそうなどという選択肢は、世界のどこにも存在しない。それはあらゆる意味で、許されざる事だから。
 次世代への意志はこれで潰え、私たちは孤独な生き物となった。愛そのものの目的が途絶えたという事実が、一つ目にして大きな理由。

 二つ目は小さな理由だ。これは何という事も無い、当たり前の結果。世界がこうなる前からそれなりに存在はしていただろう。
 ひとえに他人を愛するというのは、最大級の信頼を預ける事だ。そしてその信頼の結果は、預けられた側による。
 子供を否定し個人で生きる事でさえ容易ではないのだ。そんな中不用意な信頼を向けてくるのは、獲物以外の何者でもない。
 故に他人を愛した者の末路は決まっている。そもそも、愛など向けられても応えられない。良心のあるものは困るだろうし、悪意のあるものはこれ幸いに搾取に走る。どちらにしろ、支払う代償は膨大となるのが世界の掟だ。
 そもそも愛を抱くという行為そのものが、あまりに悪質な世界との契約に他ならない。それを、私は誰よりも深く知っている。
 世界は言った。愛しているのなら、できるはずだと。その全てを省みない意志が、愛なのだからと。
 そんな詐欺のような意地の悪い契約を。

「それでも、私は」
 人の気配に言葉を止めた。私は、なんと言おうとしたのだろう。きっと、もう一生言う事の無い台詞はのは確かだ。
 目前に現れ、帽子を脱いだのは予想外の人物だった。彼とはここで取引する必要が無い、こちらからいつも出向くのだから、場所を知っている事さえ驚きだった。
「……珍しいわね? そちらから顔を出すなんて。悪いけど在庫は切れているから、手持ちの少ししかないのだけれど?」
 一抹の不安が顔に出たのか。私の言葉に彼は僅かに引きつった笑みを浮かべながら、意味もなく片手を上げて告げた。
「や、やあ。アオバラの嬢ちゃん。別に薬を買いに来たわけじゃないんだ。ただ、実はあんたに良い話があるって人が」
 あまりにあからさまな動作と、それ以上に致命的な台詞。戦慄が背筋を駆け抜けた。私が殺される事はない。今、最も危険なのは、
「――ッ、馬鹿な、伏せなさい!」
 彼でしかなく。そして当然のように、私の言葉など彼の耳には届かなかった。
 どさり、と重い物が地面とぶつかった音がする。彼が倒れていた。私の言葉に従ったのではない証拠に、その背中から大量の血が流出している。
 位置的に心臓そのものは避けていたけれど、出血から見て大切な血管が貫かれているのは自明。今すぐ手術できたとしても助かる見込みの方が低いし、何より――私には目前の死を覆す気など、毛ほどにも無い。
 口内に血の匂いが広がった、知らず唇を噛んでいたらしい。けれど仕方がないだろう。
 彼には悪いと思う。残っている協力者の中では、一番長い付き合いだった男だ。いつも少し冷めていたチキンバーと野菜サンドは実はそれなりに好物で、恐らく彼が協力者でなくてもあの店には通っていた。だから例えその死が彼自身の失点で、自業自得でしかなかったのだとしても……助けられるなら、助けたかった。
 けれどごめんなさい。そしてさようなら。今は、貴方を優先する時じゃない。

 前方に視線を飛ばす。彼の身長と銃創の位置からして、そちらから飛んできたのは間違いがない。けれど大通りを挟んだ向こうの路地にさえ人がいる様子はない。
 目視で見えないという事は、それだけ遠いという事だ。銃とは中距離で生きる武器だし、見えないほど遠い暗がりではこちらの位置も不鮮明になる。
 それでも一撃で致命傷を可能としたのなら、結果は一つしか有り得なかった。
「スナイパーライフル……私なんかにそんな物を持ち出すなんて、本気?」
 本気かどうかはともかく、事実はそれ以外にない。スコープもセットである以上、こちらの動きは筒抜けだ。けれどアレは、動く標的を撃ち抜くには適さない。故に移動すれば脅威にならないが――動く瞬間、足のどちらかを撃たれるだろう。彼が撃たれた時、即座に動かなかった私自身の失点だ。
 しかし、それでも足がせいぜい。彼を遣わしたのは、ブルーローズの売人が誰か判らないからだろう。そしてスナイパーライフルなんて物騒な凶器は、この世界でも珍しい。使い手を選ぶ武装は、金を出せば手に入るサブマシンガンとは違うのだ。
 自警団か犯罪集団か、或いはその両方か。どちらにしろレシピが私にしか解らない以上、集団が狙ってくるなら殺害だけは有り得ない。個人なら目先の薬欲しさに何をしてもおかしくないから、ある意味ではこれもまだ幸運は方だろうか。
 そして結論、この場のみでの対処なら簡単だ。敵の思惑は、狙撃手が私を牽制している間に人員を動員して拘束、その後拷問なり専属契約なりでブルーロズの利益を独占する。どちらにしろ、捕まるまでは安全だ。
 つまり、まだ時間があるという事。女だからといって、舐めているとしか思えない。
 私は降伏の意思を示すように両手を挙げた。けれど、その右手には袖に仕込んでいた拳銃が収まっている。

 そのまま銃口を、自分の頭に押し当てた。

「これで、どうかしら」
 向こうからでも見えるよう、あえてハッキリと口を動かした。判る人間にはそれだけで何と言ったか読める。
 飛んでこない銃弾に、狙撃手の動揺が手に取るように判った。それが狙いだが、あまり動揺してもらって暴発されるのも馬鹿らしい。
 だから当然、次の手は決まっている。私は引き金に当てた指に力を込め、
 僅かに逸らされた銃弾が背後の壁を撃ち抜くと同時に、脱兎の如く左に伸びた通路へと駆けた。

「……ッ、凄い腕ね。一体誰なのかしら」
 走りながらの独白。手が酷く痺れている。狙撃手が放った銃弾は指さえ傷付ける事無く、私から銃だけを弾き飛ばした。
 けれどそれで、掛けられたチェックからは脱出。狙撃は連射に向かない。奇跡的に装填が間に合っても、一度銃口を逸らしたなら精密な狙撃は不可能。こちらの銃を狙えたのは、私の行動を見て即座に照準を合わせていたからだろう。そんな短時間で撃ち抜ける技量には感服するしかないが、それ以上の早業は物理法則が許さない。
 故に私は護身用の一丁を代償に逃走できた。勝敗で言うのなら、私の判定勝ちであるはずだ。
「それでも負けは負け、か」
 一人協力者が死んだ。その事実がある以上、判定で勝ったところで意味は無い。彼の行動が私の窮地を招いたのだとしても、死者に打つ鞭など知らない。ならば問題は、これからどうするかだ。
 昼間に強盗を相手にした事もあり、銃はもう一丁仕込んである。これも護身用でしかないが、そもそも私ではそれ以上の銃器を扱えない。むしろ気紛れに持ってきた手榴弾三つの方が、使い方によっては効果的だろう。現金は取引も終盤だったのでそれなり。ブルーローズもいくつか。
 けれど、……本当は装備などもう意味がない事を知っていた。
 正体が何であれ集団が動いた以上、個人では対抗などできない。面が割れた以上これからの取引も不可能で、おまけにこの狭い世界で逃げられる場所などない。
 後は大人しく捕まるか、足掻いて死ぬかどちらを選ぶ自由だけ。どちらにしろ、三年続いた私の生活は、これで終わりを告げる事になる。
「……先生、見ていますか。そろそろ世界の終わりが来るようですよ」
 私が死ねばどうなるのかは、三年間幻想をばらまいてきた私自身が一番良く判っている。
 世界は、最初は己だけで回るようにできていた。私はその先に待つ終わりの為に嘘を吐き続けるつもりだったけど、いつの間にか順序が逆になっていて。
 綺麗な夢で死期を隠し続けた代償だったらしい。腐りきった世界は、痛み止めがなくなると同時に自重によって崩壊する。

 それに今、世界に存在するブルーローズは少量。私の家を見つけ出したとしても、在庫は丁度底をついたところ。リピーターたちには当分の間凌げる量を渡してあるが、――それはきっと、彼らの命を真っ先に縮める理由となるだろう。
 つまり、世界の夢は既に品切れ。私には大切な意地があって、死んだって集団の利益に協力する気など無い。つまり、青空はもう二度と。
「……え?」
 唐突に終わってしまった役割に思考を割くあまり、現実に意識を向けていなかった。珍しく人がいたので避けたつもりだったが、気がつけば転倒していて、おまけに腹部に冗談じゃ済まなそうな違和感が走っている。
「――ッ、は、あ……やって、くれたわね」
 何とか立ち上がりながら、尻餅をついて震えている人間に告げた。その両手には、細い指に似合わない大型のナイフが握られている。
 油断していた理由はそれだ。要するに目前にいるのは、朝にも出会った少女の形をした暗殺者であるらしかった。
 ああ、私も同じだったわけだ。昼ごろに殺した強盗や、先ほど上手く出し抜いたと思っていた狙撃手と。店主が裏切った時点で、他にも手が回っていると考えるべきだった。ここでは、そんな人間から死んでいく。
「全く……自分が何したか、貴女、知って」
 それ以上、言葉を紡ぐ事はできなかった。少女は何をするまでもなく震えているだけ。単純に、競り上がってきた血のせいで話す余裕がなかっただけ。
 数度の咳。抑えた手に正視に堪えない血がこびりついている。これはもう、致命傷だろう。先ほどの店主のように、病院に行けば助かるかもしれない状態なのは判る。それでもなお、私は己を致命傷だと判断した。
 当たり前だ。役目は終わっているのだから、私にはもう自分を救う気など毛ほどにも無い。
 こうなった以上、守るべきはプライドだけ。とりあえず誰にも見つからない廃墟街の奥へ行こうとして、
「あ、あ、あの」
 その声に、座り込んだまま凍りついていた少女を思い出した。
「あ、の、……その、病院、とか」
 一体何が言いたいのだろう。私を殺したのは貴女だし世界に致命傷を与えたのも貴女だ。だから殺人者であると同時にある意味で貴女は英雄でああだからつまり。
 定まらない思考のまま、私は袖に隠してあったもう一丁を少女の眼窩に押し付けた。
「え?」
 それが世界を殺した者の最後の言葉だった、というのは騙り過ぎだろうか。
 けれどブルーローズが無くなった世界がこれまで通りに動くはずもなく、その製造者である私が人々を支えていたのは、ある意味で真実でしかない。
 だから引き金を引いた理由は慈悲だ。若年層に薬を供給する役割を持っていた彼女は、丁度今朝に渡した大量のブルーローズを持っている。
 これから発生する暴動は、きっと銃で撃たれる以上の激痛を強いるだろう。女性ならば、どういう類の悲劇が起こるかも自明だ。だから、せめて優しい夢が残っているうちに。
「大丈夫。殺人だけでは、地獄行きへの理由には足りないから。きっと皆すぐ行くと思うわ」
 尤も、私はそこへは行けないでしょうけど。その言葉だけは口に出さず、老いた猫の様に路地の奥を目指した。

  ***

「誰かが延命をせねばならないが、希望を無くした人々に夢を紡げとは言えない。だから、私がそれをやろうと思う。しかし、」
 彼は一度だけ言葉を切った。その一瞬の空白の中で一体何を考えたのか、私には知る由も無かったけれど。
「もし私が倒れた時は――ヒノモリ君、やってくれるね?」
 私は、その問いに何と答えたのだったか。

  ***

「もう、はじまったのかしら」
 後方から耳元を追い抜いていった轟音に、事態が思ったより速く進んでいる事を理解した。
 遠くまで逃げたようで、直線距離ならそれなりに居住区は近い。それでもここまで届いてくる音となれば、爆弾の類以外にはないだろう。
 数は一度や二度じゃない。というか、かなり多い。音だけ聴くと景気の良い派手さだが、中心地は阿鼻叫喚の真っ只中か。
 ブルーローズの売人が消えた。もしその事実が行き渡ってしまえば、何も起きない方がありえない。
 ここ数ヶ月で世界の住人はかなり減っていて、値段が安い事もあり私の客は生存者の大多数を占める。
 何しろ、一度使えば心には消えない光が焼きつく代物だ。この世界であの光景を忘れられる人間がいるのなら、じかに会って問い質したくなるほどの効果。必然、無関係でいられる人間は少数派となる。
 故にこの状況は一番最初に想定していた。彼らの起こす行動は二つに一つ。私を探すか、他人から奪う。最初は前者だったのだろうけれど、情報が速かったならそろそろ諦め始める頃合かもしれない。
 私を襲った組織の人間から漏れたと考えると、納得も行った。要するに、私が死ぬ前に世界は終末を開始したらしい。
 やるべき事は終えている。ただこの時の為だけに、世界を青い薔薇で埋め尽くしたのだ。
 機械のように生きて、機械のように導いた。機械のように正確な仕事でなければ、意味がなかったから。
 後はただ、一人でも多くの人々が、優しい夢に抱かれたまま朽ちていく事を祈るだけ。
 そうでなければ、悲し過ぎる。誰も彼も、世界でさえも。

「――さて、私も動きましょう」
 状況を確認して、こちらも行動を再開する事にした。
 乱暴な止血でもとりあえず動くには動く。消える間際のなんとやらだったとしても構いはしない。
 家へ戻る事も考えたが、あの少女にまで手が回っていた以上、既に待ち伏せされている確率の方が高かった。
 手榴弾を持っていたのは、予感のようなものが働いたからかもしれない。ここで使われるべきだったから、私はあれを持ち出したのだろう。
 元々逃走の為のルートだ。周囲一帯の地図は頭に入っているし、細工もしてあった。所定のポイントを爆破するだけで、この辺りのエリアは孤立する。迂回して私を見つける頃には、レシピは世界のどこにも存在しない。尤も、レシピだけでは意味などないのだが。
 結論として、私にはやる事がない。止めを刺されるのも死体を晒すのも嫌だったからとりあえず逃げたが、もう本当に、
「先生、言いつけは終わりましたよ。次は何をすれば良いですか。教えてください、もうやる事がないんです。先生、どうか、指示を」
 痛みと失血のせいか、全く思考がまとまらなかった。自分ではまだ冷静なつもりだけれど、もし他人が見たらどう判断するかは分からない。
 だから教えて欲しくて回答を期待したが、当然のように答えはない。残念に思いつつ、仕方なく過去に仕舞った言葉の中から探す事にした。
 それに、そう。もし目の前に先生がいたとしてもきっと、自分で探しなさいと言ってくれるはず。だから、私は最後の最後まで自分の頭で考えなければ。

 回想しよう。先生の言葉は全て私の中に記録されている。
 この腐った世界では、縋れるものが必要だと彼は言った。
 今でもあの時の、彼が浮かべた笑みを覚えている。忘れられるはずなどない。
 絶対に人の為にならないと知っていた。それでも人の為になってしまうという現実に押し潰され、どう笑えば良いのかすら忘れてしまった歪んだ表情を。……けれど、それでもあの人は笑って告げる事を選んだんだ。
 なんて馬鹿な人。麻薬などという偽りの夢を生み出す為に、周囲と世界に磨り潰されて彼は消えた。
 同情の余地はない。例え世界が腐っていようと、一生空を見る事が叶わなかろうと、それでも麻薬などという代物は欺瞞でしかない。
 薬が人間を救うなど、おこがましい妄言にも程がある。もし麻薬をばらまくのなら、人へではなく金に救いを求めるべきだったのだ。
 どんな道理の下であろうと、道から外れれば排斥されるのは今も昔も変わらない。そうして、私の元には下らないレシピだけが残された。
 それがどのようなものかを私は知っている。開発そのものに私も協力したからだ。結局、同情の余地がないのは私も同じ。だから本当に救いがない。実行してきた経験から言うのだから間違いない。

 実際のところ、同じ成分の薬を再現する事は容易い。問題なのは、彼と私以外の手で作られたブルーローズには、適当な幻覚作用しか存在しないという不思議な欠陥があるだけ。
 一番重要な、心に焼け付くあの世界を見る事ができない。それではただの幻覚剤でしかない。だから、それでは意味がないというのなら、決して私に手を出すべきではなかったのに。
 他愛無い理科の実験の果てに生まれた奇跡を、青い薔薇と人々は名付けた。そのネーミングは私自身も気に入っている。
「けれど私は……、私だけは先生が名付けた、本当の名前を知っています」
 彼は言った、悲しい笑みを浮かべて。ウィッシュガーデン。奇跡の庭園、と。
 青い願いと緑の揺り篭。子供でも忘れてしまった空想を、彼はせめて御伽噺として世界に残した。
 稚拙な名前だと、笑いたいなら笑えば良い。この荒んだ世界で、その方が利口な事は嫌というほど知っている。けれど、
「きっと命に代えても、これだけは」
 それでもこれは、最後の夢として作り出されたものだ。単純に値段を吊り上げれば暴利を得ることもできた。しなかったのは、そのような役目を彼が許さなかったから。
 例え麻薬であっても、本当に人々の為だけに、願いの庭は生み出された。
 青い空と、緑の大地を。私たちが、心の底から焦がれたあの景色をもう一度。嘘でもいい、夢でも幻でも、どうか奇跡をと私たちは夢見たのだ。
 そのささやかな想いさえ金に換えようとする人間に、決してこの幻想は渡さない。私の命など二の次だ。
 私は幻想を回す者として、世界が終わるまで夢をくべなければならなかった。例え、どんな代償を払ってでも。

 そして、長い契約の果てに辿り着いた。
 ただの路地裏であるはずの、そこには。

「……嘘。そんな、事が」
 毎夜夢に見る光景。ただ一度だけ使い、二度と頼らないと誓った願いの庭が広がっている。
 青い空。緑の大地。太陽などなく、一輪の花もない。けれどただ輝かしい、人間が心に秘める原風景。それは、きっと星に刻まれた愛の記憶だ。
 けれどそれさえも、私の心を揺さぶるには足りない。この景色は知っていた。私がばらまいていた夢そのもの。
 だから、私が信じられないのはそんな事ではなく、
「――やあ、久しぶり」
 その中心にある、一つの悪趣味な冗談に対してだった。

 目の前にいる人。良く知った顔、良く知った声。私は彼を知っている。その名は、魂の深い所に焼き記されているのだから。
 例え地獄に落ちようとも、その名ならば永久に思い出す事ができるだろう。

「本当に、先生なのですか。どうして、そんな」
「お礼を言いに。……ありがとう、私は良い助手を持ったね」

 今、青い空の下、緑の揺り篭の上に、一人の男が立っている。茫洋とした瞳も、しまらない笑みも、何もかもが彼のものだった。
「ああ、その……幻でも嬉しいです、先生」
 混乱しそうなものだが、こんな冗談を前にしてさえ、私の一部は冷静に可能性を検討している。そうなるしかなかった三年だったのだから、仕方がない。
 致命傷を受けてなお動き続けた果ての幻か、無意識の内に誓いを破ってしまったか。まあ実際ありそうなのはそんな理由。
 或いは、今多くの人間が目にしているはずの光景が、この閉じた世界そのものに焼きついてしまったか。
 そう考えた途端、不意に笑いが込み上げた。何、最後の可能性は。私はいつから、己に幻想を許してしまったのだろう。
 この身は夢を紡ぐ機械だったはずだ。途方もない夢を抱いた、一人の男を愛した。その代償として全てを引き受けたはずだ。
 なのにどうして、
「知らなかったのかい? 君は元々、とてもロマンチストだった」
「冗談は、止して下さい。この世界に……貴方以上の夢想家、なんて」
 言い終える前に、体から力が抜ける。例え夢でも彼の前で倒れるなんて、許せない無様だ。
 けれどそれが当然である事を思い出す。視界の半分はもう既に機能せず、腹部には取り返しのつかない大穴が穿たれているのだから。
 出血は夥しく、一言だって喋れる状態じゃない。それでも私の口が動くのは、もうどちらにしろ手遅れだからだ。
 倒れた私は硬い地面の感触ではなく、草原の匂いに受け止められる。実に不思議だ、本当に、ここはただの路地裏でしかないはずなのに。
 下から肩にかけて回された感触、抱き起こされているのだと理解する。
 自分がおかしくなったのか、世界が優しくなったのか。本当のところ、そんな事はどちらでも良かった。
 だから先生の言葉を受け入れよう。腐敗した世界で偽りの夢を回し続けた。その果てがこの幻だというのなら、確かに私は極まったロマンチストだ。
 けれど、もう良いだろう。人々はいずれ最後の一人まで死に絶え、ただ一つの支柱と住人を失った世界は、観測者をなくし存在を剥奪される。 彼らはその死が下される瞬間、たった一粒の綺麗な夢を選ぶだろう。
 地球に他の人類が残ってるのかどうかは知らないが、少なくともこの世界は既に終わった。
 それは遠い昔に起きていたはずの必然であり、もう少しだけ先に起きるはずだった予定に過ぎない。
 彼は、その運命に抗った。世界が腐っているのならと、偽りこそを救済の武器とした。
 別に命を救う為に抗ったのでない。そんな大それた意志なんて何処にもなかった。私たちはただ終わりが来るまでだけでも、世界に幸福を残したかっただけ。
 その結果が崩壊であるなど、創めた時から知っていた。だから此処は夢の終わり。これ以上、求めるものが何もないというのなら。
「ああ、けれど……そうですね。そろそろ、良いでしょうか、先生」
「そうだね。僕は君が頑張り屋なのを忘れていた。本当はもっと昔でも良かったんだ」
 そうですか、もはや声にならない呟きを返す。ならば機械はもういらないだろう。スクリーンへ幻想を投げかける映写機は止まった。だから私は、初めて自分自身に幻想を許そうと思う。
 代償があるからこそ結果がある。売り払ったものと引き換えに、得るものが必ずある。だから世界の定理に、この存在を賭けて支払って見せた。
 己に夢を許さず、人々を慰め続ける人生。それが愛という陳腐な言葉の為に結んだ、私の契約。
 世界は言った、彼を愛しているならできるだろう、と。
 その夢と意志を、己を犠牲にしてでも叶えてみせろと。
 私は、その愛を貫けたはず。
 その対価を。目前に広がる夢物語を、どうして……否と断じる事ができるのだろう。
 これを受け取らなければ、私は一体何の為に生まれたのか判らなくなる。
 どうしてこんな所で死んでしまうのかなんて、そんな無様な問いを口にしたくはない。
 だから一つでも良い。ここまで来て良かったと。例えやせ我慢でもそう笑えなければ、納得できないではないか。

 ならば最後に。夢でも幻でも良い。もし、許されるのなら。
「……せんせい。きいていいです、か?」 
「何をだね、ヒノモリ君」
 事ここに来てさえ、その言葉を改めるつもりはないのか。ヒノモリ、なんて。この名前にそんな読み方は、世界のどこにも存在しないというのに。
 けれど、それがあまりにも貴方らしい。そのらしさに感謝する。
 確かに、一つでも良いと思った。だから、それで良い。本当に幻だと言うのなら、最高に気が利いた幻だ。最後のやせ我慢として、ここに笑みを浮かべよう。愚かな機械は納得して死んでいけ。

 だから神よ、もし見ているのなら共に笑え。人間の愚かさを。世界を支え、滅ぼすに至った尊厳を。
 そして赦せ。最期に、この一言を問う権利を。
 私を愛していたか、なんて高い望みはいらない。知りたいだけだ。
 どうか、世界を偽り続けたこの哀れな機械に、ただ一つの回答を。
 先生、本当に私は……、

「わたしは、うまく――」

 

 

 Fin



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