閉店のあと、ミゾレ
自分に霊感があるのでは、と思ったのはつい数日前だ。
十五年間生きてついぞ知らなかったのに、何故突然気付いたのかというとそれは単純、実際幽霊に出会ったからである。
幽霊は女だった。彼女はアキと名乗った。
字は判らない、彼女は文字を書く事はできなかったからだ。
最初は普通の人間だと思った。ぼく――ミノル――には、他人と彼女は同じ様に見える。
言葉も通じた。それで幽霊だと疑う人間がいたら、そちらの方がおかしいだろう。
実際ぼくも疑っているだけで、確認したことはない。ただ、そうなのではないか、と思っただけだ。
出会った当初の事は憶えていない。場所はこのファーストフード店だった。
どういう会話からはじまったかはおぼろげだ。確か最初に顔を合わせた時、どちらともなく驚いて声を上げたのは覚えている。
理由は知らないが、彼女の腕は動かない。なのに一人で何故こんな店にいたのかは分からなかった。
一人で食事どころか、トレイさえもてない女なのだ。
出会いはそんな他愛ないものだが、ぼくらはそれから毎日のようにその店で会った。
いいや、本当に毎日なのかどうか、実はぼくには分からない。最近、アキと会っている時の記憶以外、ぼくの記憶は不鮮明なのだ。
自分の服装から、どうやらそこでバイトをしているらしい事は分かっている。
バイトをしているはずの自分が、どうして自由にアキと話しているのか。
そこに疑問はあったけれど、ぼくはそれほど深く考えなかった。
アキと楽しく話す事の方が、ぼくには重要だったからだ。
尤も、楽しいと感じているのはぼくだけで、彼女はそれほど表情を変えなかったし、時折酷く悲しげに顔を伏せることもあった。
アキは美しい子だった。華やかなではないが、シンシンと降る雪のような静かさがあった。
ぼくはいつも知らない間に店にいて、毎日程なくして彼女が店に訪れる。
いつも彼女は黒いロングコートを着ていて、黒いカバンを肩に提げていた。
革製らしき手袋も黒一色。しかし、彼女の髪はそれら以上に黒く、腰に届くほど長い。
ぼくはその髪が好きだった。煩雑な店の音を寄せ付けない、鈴のような遠い声も好きだった。
つまるところ、ぼくは彼女の全てが好きだった。アキはそれほど魅力的な女の子なのだ。
毎日会う内に、その感情は次第に強くなる。当然のように、彼女に対する好奇心も芽生えていった。
ある日もアキはやってきた。
ぼくは彼女に声をかけられ、ハっとなった。また記憶が曖昧になっていた。
彼女はその日もロングコートだ。実は出逢った時から不思議に思っていた。
何故なら、人の声をシェイクしたような喧騒漂う店内は、火事のようにいつもいつも熱かったからだ。
「アキは、どうしていつもコートを着ているんだ?」
寒そうに体を抱いて立つ彼女に問いかけた。アキは何故か、決して店内で座ろうとしない。
「プレゼントなの。大切な想い出よ」
アキは言った。そして、大切そうに体を包むコートを撫で、悲しそうな瞳でぼくを見た。
ぼくは少しだけその言葉に悔しく思った。
そして、何故か曖昧な記憶が揺らいだ気がした。
またある日もアキはやってきた。ぼくは彼女に声をかけられ、ハっとなった。また記憶が曖昧になっていた。
けれど、少しだけ前よりはカタチが整っていた。いずれ思い出せそうだ。
彼女はその日も座らなかった。何も注文をしないのかと訊くと、自分の腕は何も掴めないのだと語った。
そしていつものように寒そうに腕を組んでいた。
ぼくは知らないうちに注文していたハンバーガーを一つ差し出した。
何も持てないのなら、食べさせてあげようかと訊くと、彼女は首を振った。
「まだ手をつけてはないけど?」
「ダイエットしているの」
そういうものか、とぼくは笑った。寂しそうな瞳で彼女も笑った。
笑える自分を褒めたいと思った。
またまたある日もアキはやってきた。ぼくは彼女に声をかけられ、ハっとなった。また記憶が曖昧になっていた。
前よりもさらに霧は晴れていたが、まだ上手く組み立てる事ができない。
彼女は今日もロングコートで、火事のような店内で寒そうに立っていたし、当然のようにトレイも持たずに、ぼくの前でただ微笑みを浮かべている。
アキの事が好きになっていたぼくは、日に日に彼女に対して疑問が募っていた。
だから、何も注文しないで毎日店を訪れる彼女に、客どころか店員が何も言わない不思議も既に知っているし、彼女と話していると自分だけに、奇異の視線が向けられているのも気付いている。
自分の事は未だに良く分からないが、彼女については薄々勘付いている。
だって、ぼく以外の誰も彼女に視線を向ける人間はいない。
それをはっきりさせるのは怖かったが、引き伸ばす訳にはいかないと思った。
何より、アキに対する好奇心を抑える事ができなかった。
「コートは、店の中は熱くないかい?」
「ここはとても寒いわ」
「そのカバンを、君はどうやって肩にかけているんだ?」
「自分の手でかけているのよ」
「……ここで昔起きた事件を知ってる?」
「放火だそうね。あの時の事は良く覚えているわ」
そういって、彼女は何も持てない筈の手を使って、自分の手袋を取る。
酷く爛れた、アキには似つかわしくない醜い手だった。
ぼくは、アキにあってはじめて彼女に触ろうと思った。
長く綺麗な髪も、白くきめ細やかな頬にも触ろうとは思わなかったのに、その醜い手を握りたいと思ったのだ。けれど、
「……ああ」
触れようとして失敗したぼくの手を見ながら、彼女はいつものように寂しそうに微笑んでいる。
ぼくの手はアキの手に埋まっていた。いいや、実際のところ何に触れる事も出来なかった。
彼女に触れる事など不可能だ。
ぼくは自分の行動を呪った。試すまでもなく、そんなことは承知している。最初から、そうではないかと思っていたのだから。
「ごめん」
「いいのよ」
いつもの笑みを浮かべて、今日は帰るわ、とアキは言った。
ぼくは表情を繕ってじゃあねと言う。
乾いた笑みに見えなければ良いと思った。
「また、明日も来るわ」
去り際、振り返らずに彼女はそう言った。
火事のように熱いはずの店内は、何故かミゾレが降っているかのように寒かった。
それで気付く、もしかしたら、と。
だからぼくは、
「さようなら、アキ」
知らず、誰もいない店内で呟いた。何故か涙は出なかった。
亜紀は、約束通りその店へ向かった。
いつものロングコート。肩にバッグを提げ、火傷を隠す革の手袋にも慣れた。
いつも通りの服装で、いつも通りとなった道を通る。
身を切る風に、髪がたなびく。彼が好きだと言っていた自慢の黒髪が、泣いたように震えた。
のどが渇いたので、自販機で暖かい珈琲を買う。
あの場所以外では、こうしてタブだって開けられる。手袋は少し扱い難いけれど、練習すれば取り戻せるものでしかない。
何もかも、大抵のものはこうして戻ってくる。けれど、と世界で唯一触れないモノを思いだして、涙がこみ上げた。
開けて一度も口をつけていない缶を、ゴミ箱に落とす。先を急ごう。
見えるのは空き地。
人気のない空間を前に、一人ぽつねんと立ち尽くした。
「明日も来るって言ったのに。……いつも勝手に行ってしまうんだから」
何故か、自然と笑みが浮かんだ。バッグの中から焼けて穴の空いた包みを取り出す。
「そんな格好じゃ、寒いでしょう。少しだけ遅れたけど、誕生日おめでとう」
呟きながら、雨と煤で汚れた空き地に静かに置いた。
すぐに立ち上がって、もと来た道を引き返す。空を仰ぐと、昨日と変わらないミゾレが頬を濡らす。
塩の味がするのは気のせいだろう。いい加減枯れ果てて良い頃だ。
最後に一度だけ、二度と訪れる事のない場所を振り返る。もう終わった店で、今も彼は働いているだろうか。
それともまだ、死んだ自分を見つけられずにいるのだろうか。
それなら、それでも良いと思う。彼でなく自分が死んでいたらと、今でも私自身が思うのだから。
「お疲れ様、稔」
良い夢を、と心の中で告げて、今度こそ店を後にした。
Fin