何もかも唐突だった。
大きな衝撃を感じて、その一瞬後に甲高い音。
たぶん、高い音はガラスが割れる音だったのだろう。
ガラス越しに窓の外を見ていた。それが、粉々に砕け散ったのだから。
透明な窓ガラスが鋭い破片となって中を舞っていた。
唐突に左目と左腕に激痛が走って、次の瞬間、世界が紅に染まった。
きれいだと……痛みに壊れた頭の何処かで、そう思ったのを覚えている。
それが左目で見た、この世で最後の映像だった。
NOIR No.1
「――、……きろ」
(……え?)
何処からとも無く声が届いた。
「――起きろっつってんだろこのやろう」
世界を破る声が聴こえる。
夢を、見ていた。
私は先ほどまで機関車に乗っていて、おまけに現代では絶対に見かけないような、クラシカルなドレスを身に纏っていた。
自分以外に乗客がいない機関車で、私は永延と続く荒野をぼうっとして眺めている。
何の変化も無くて、何処まで続き、何時までも終わらない退屈な風景。
人がいない為にすることの無い私は飽き飽きしながら、それでもずっと眺めている。そんな夢だ。
それでも、何の見栄えも無ければ変化も無い茶色い荒野など、見ていてもやはり退屈が紛れる筈も無く、私は無駄だと解っていながらも、声を掛けるのだった。
乗客もいないのに誰に? と疑問。けれど、もう一人だけ人はいる。もちろん、自分に話しかけるなんて虚しい事は、いくら夢の中だとしてもしない。ちゃんとした私以外の人間で、つまりは他人だ。断じて私のもう一人の人格どという、ベタな設定ではなかった。
「この荒野は、一体何処まで続くの?」
私が話しかけた人間。それはこの機関車の運転手である。
「さあね、お前が飽きるまでだろうさ」
驚いた。この運転手は何度話しかけても、今まで一度も返事をしたことはなかったのに。
だからだろうか。たった一言返しただけの、しかし、お前呼ばわりをした、その運転手の顔を凝視してしまったのは。
中々きれいな声でこちらに顔を向けたのは、それほど印象的ではないけれど、線が細く色白で、整った眉の高い鼻。
きれいな形の唇の、つまりは結構な美形の青年だった。
そして、その運転手は私の……、
「おい、秋葉……もうそろそろ観念しろ。あんまり愚図ってると遅刻するぞ」
目蓋を開く。
(いつもの……夢)
「やっと起きたか……早く準備しないと遅刻するぞ」
ぼやけた焦点が整う。最初に目に映ったのは、見飽きた天井の白さでも、昨日変えたばかりの真新しいシーツでもなくて、それほど印象的ではないけれど、線が細く色白で、整った眉の高い鼻。きれいな形の唇の、つまりは結構な美形の青年だった。
運転手と言うフレーズが思い浮かぶけど、もっとしっくりとくるフレーズを知っている。
「おはよう……景兄さん」
そう、兄だ。
夢に登場する架空の運転手などではなく、例えどんな事情があろうとも、とりあえずはそう呼ぶに相応しい。
確かに、その人は私の兄である人だった。
一階へ向かう。
この家の階段は一段がやや高い。強い角度の段差を、私――栩野秋葉は、滑り落ちないようにゆっくりと降りた。
まだ半分眠っているこの頭では、少々危険なのである。まあそれも、毎日の事となってからは特に問題にはならなくなったのだが。
一分ほどかかって三階にある部屋から、一階のリビングに辿り着いた。、誰もいないテーブルの椅子を引く。
中央に置かれた籠にはクロワッサンがいくつか盛られている。一つだけとって齧りつつ、喉が渇いていたので冷蔵庫から牛乳をとってきた。既に用意されていた、少し冷めているらしい朝食と共に口に運ぶ。
それなりに美味しい筈の朝食。
少しだけ経った時間と、低血圧が原因による無気力のせいで、製作者の意図は失われていた。
それでも口に運ぶのはお腹が空いているというより、ただの義務であり習慣である為だろう。
機械的に朝食を片付けて、私は壁に掛けられた時計に目を向けた。
何かの動物が可愛くデフォルメされた、個性的な時計。
幸せを象徴するようなこの時計はこの家に相応しく、己には相応しくない。
(どっちかというと私は、プラスチック製の無愛想な置時計って感じよね)
自分の部屋に置いてある時計を思い浮かべて、私はそんな意味の無い連想をした。
時計一つでこんな無駄な思考ができる自虐的な自分に呆れながらも時間を確認すると、時計の針は六時十分を示していた。
まだまだ早い時刻である。
が、この家から自分が通う高校へは一時間はかかるから、これくらいの時間には起きなければならない。
寝る事が趣味な怠惰な私にとっては、嘆かわしい事実であった。
といっても流石に今から家を出る必要は無いので、私はいつも通りお風呂場へと向かう事にした。
まだ、半分くらい寝ている思考を叩き起こす為だ。今の私は人間としての機能をほぼ忘れているゆえに。
お風呂場に辿り着くと、着ていたパジャマを脱いだ。
黒地に紅のストライプ。お世辞にも可愛いとはいえないような、普通の女の子は着ないような柄だ。
が、だからといって着てはいけないわけもない。
見る者など限られるパジャマの柄に、他人の好みを考慮しても仕方が無いだろう。と言っても別に深い拘りなどありはしないから、どうでもいいことなのだが。
はて、それならば何故こんなものを自分は選んだのだろうか。好きな色を選んだだけにしては、少々悪趣味な柄だと自分自身でも分かるのに。
思考は絶えず横道に逸れるが、行動まで逸れることは無い。
まあ、当たり前のことなのだが、この当たり前を苦手としている人間も中々に多いようである。
若干名の友人を思い出し、私は内心で苦笑した。こんな事を考えていると彼女らが知ったら、きっと憤る事だろう。
そうしてる間にも下着に手をかけ、身に着けていた衣類を全て脱ぎ去ると、かけていた眼鏡を外した。
最後に、常につけているリストバンドを外してお風呂場に入る。新しい下着は用意済みだ。
シャワーのレバーに手を掛けようとして、不意に壁にかけられた鏡が目に入った。
正確には鏡に映った私の顔だ。別にナルシストの気がある訳ではないのに、なんとなく見つめてみる。
線が細く色白で、整った眉と高めの鼻、小さな唇……と表現すると、なんとなく兄に似ているが、この程度の描写で正確なイメージは伝わる筈は無い。
肌の色も眉の形も鼻の高さも唇も全て違う。
似ているのは線の細さくらいであるが、たったその程度の類似でも見ず知らずの他人は私と兄は似ているという。
(……そんな筈、無いのにね)
兄妹。このフレーズだけで、人は自分達に類似を見つけるのだ。例えそれが幻想であっても。
(ああもう、馬鹿みたい)
嘲笑とも自嘲ともつかない哂いを心の中で浮かべながら、私は今度こそシャワーのレバーに手をかけた。
勢い良く冷水が流れる。身を切る水の冷たさに、一気に意識の明度が上がった。
そのあと冷水が温水に代わり、心地よい暖かさが私を包み込む。
私はこの瞬間がわりと好きだ。
数少ない好きなモノの一つが、冷水を浴びる事なのだから、我ながら変な性格をしているとは思う。まぁ、人の感性など、皆実はかけ離れているものだ。その振幅が多少違うからといって気にするほど可愛い性格でもないし。
温水は緩やかに温度を増しながら、私の体を打つ。
心地よい温度と振動に包まれながら、不意に、左腕にある大きな傷が視界に映る。
僅かに鼓動が乱れた。全く、と未だ抜け切れない自分にため息を吐く。
(ああもう、全部流れてしまえば良いのに)
レバーを上げる。
降り注ぐ温水の雨が止み、耳元で鳴り響いていた水音が消えた。
そのままタオルで身体を拭き、下着を穿いて、オーバーサイズのTシャツだけ着てお風呂場から出る。
不覚にも、下着とタオルしか用意してなかったのだ。
おざなりに拭いただけの髪から水滴が落ちるのに気付いて、タオルを一緒に持っていくことにした。
「ふぅ……って、何かおばさんくさいわね」
くだらない独り言を呟いていると、喉の渇きに気付いた。
部屋に戻るのは後回しにして進路を変更。先ほどいたリビングに向かった。
そのままタオルで頭を拭きながらキッチンへと移動。冷蔵庫を開き、ドアの内側にある牛乳に手を伸ばした。が、少し躊躇したあとその脇にある麦茶を手に取った。今は、麦茶の気分。
棚から大き目のコップを取って麦茶を注ぎ、座って飲もうとテーブルに近づくと……そこに、兄がいた。
朝、私を起こして直ぐに自分の部屋に戻った兄。どうやら自分がシャワーを浴びてる間にリビングに降りてきたらしい。
急に、私は自分の格好が気になった。
オーバーサイズのTシャツに、濡れた頭をタオルで拭いている真っ最中。
シャツが大きいから見えはしないが、その下は下着だけ。ズボンもスカートも穿いていない。おまけに裸足。
あとは、眼鏡とリストバンドだけ。
だらしない事この上ない格好だ。ついでにあられもなくて、はしたない。
年頃の女子高生がやって良い格好でもないだろう。
そんな自分の姿に硬直するが、もうどうしようもないと開き直った。目前でコーヒーを啜っている兄に挨拶。
「おはよう、景兄さん」
「あぁ、おはよう。眠くてコーヒー飲んでたけど、滅多に見れないもの見せられて目が冴えたよ」
それが自分の格好のことだと気付いて文句を言おうとしたが、彼が始めにちらりと自分を見たきり、それ以降一度も見ていないことに気付く。
彼の台詞はただの冗談で、全くと言って良いほど本気ではない。ただの、戯れ言。
そのことに気付いた瞬間、別の事で頭に血が上った。
(確かに自分達は兄妹だけど、だからといってその全くなんでもないような態度は何? 私はそれでも――)
理不尽としか言いようの無い言葉が心の中で溢れ返る寸前、慌ててその意味に気付き自制をかけた。
(――待った。それでも、も何も無いでしょう。私達は兄妹。それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもない。少なくとも今は。だから兄さんの態度は正しく、私がそんなことで取り乱すこともありえない)
論理武装完了。心の中でそう唱えてから口を開く。もう既に普段の落ち着きは取り戻していた。
元々私が取り乱すなんてことは、あさりに真珠が入っているのと同じくらい稀なのだ。
いや、自分でも意味は解らないが。
「ふぅん……、妹にそういう事言うんだ? やっぱり、男は誰でも野獣なの?」
内心の葛藤を抑えて、私は軽口を叩く。そう、これが正しい兄妹のやり取りだ。たぶん。
「ああ、そうだ。そんな野獣の前に妹を置くのは心配だから、さっさと部屋に戻って着替えて来い」
「はいはい。わかりましたよ――と」
そう投げやりに返事をして、手に持った麦茶を半分ほど飲み干した。
そのままコップはテーブルに置いて階段に向かう。
リビングを出る瞬間、兄の方とちらりと振り返る。
彼はそんな私に気付かず、何を考えているか分からない、いつものポーカーフェイスでコーヒーを啜っていた。
兄と自分は、いつもあんな感じだ。
私が何を言っても兄は取り乱さないし、からかおうとしても結局負ける。
彼は舌が良く回る頭の良い人間だ。
冷静で冷然で賢明。微妙に嫌味な口調も彼の特徴と言って良いだろう。ただ、見掛けの態度ほど冷たい中身という訳でもない。それは兄なりの持ち味であって、嫌うべきポイントではない。だから、私は彼の事が嫌いでは、ない。
ちなみに、私が嫌いではない人間は多くない。積極的に嫌っている人間もまた少ないが。
……消極的にはどうだ、と訊かれれば、私は人類の九割は嫌っていると答えるだろう。
結局嫌いなんじゃない、と以前京子が呆れたのを思い出した。
彼はその中の一割にランクインしているのだから、少しは感謝して欲しいくらいだ。まあ、どうでも良い事だが。
ちなみに、頭が良いといっても学校の成績などは知らない。
年が五つ離れているので同じ高校に入学しても兄はいなかったし、それ以前は同じ家にすら――。
「馬鹿ね」
頭を振って、その思考を脳の隅に追いやる。
これ以上思い出す必要は無い。兄は賢く、私では敵わない。それが認識できればそれで良いではないか。
思考を切り替えて部屋を目指す。お風呂に入ったことで少し時間を使った。
結構手早く済ます方なのでそれほど時間は経ってはいないだろうが、そろそろ準備が必要な時間ではあるだろう。
部屋に着いた。
扉には、黒いプレートにそれだけではどんな人間が書いたか想像のつかないような、無個性極まりない字で私の名前が書いてある。おかげで意味も無く無愛想に見えてしまう、哀れな扉のノブに手をかけた。
シンプルというより、無味乾燥という表現が似合う部屋だった。
やや広い部屋の床には、白と黒の単調な柄のカーペットが敷かれ、壁の隅にはベッドがあり、その横に小さめの箪笥とクローゼット。中央には背の低いテーブルが置かれていている。
これもやはり白と黒を基調とする、単調なディテールだ。その左右には申し訳程度にクッションがあるのだが、これが外見通りの機能を果たす事は稀である。
そのテーブルを挟んでベッドの正面に位置する壁の隅には、大きな本棚が置かれていた。重厚で背が高く、幅も広い。
奥行きも本を二冊並べられるほどで、その大きな本棚には様々な本がギッシリと納めれられていた。
漫画などもあるが、しかしそれは極少数で全体の大部分を占めるのは小説の類である。
推理小説、恋愛小説、SF小説、純文学、ライトノベルなどの順に規則正しく並べられている。数も左が多数、右に行くほど少数だ。
本を読む方ではあるだろう。が、知的という訳でもない娯楽小説が殆どだった。要するに、根暗な趣味なのである。
その本棚の脇には勉強机が置かれているが、椅子とセットのこの机は黒一色である。何の擬態かという様相だが、まぁ好みだから仕方がない。その黒机の上にはMDコンポが置かれていた。専ら吐き出すのはラジオである。
この部屋にはそれ以上何も無かった。
可愛いぬいぐるみやアイドルのポスターもなければ、ゲーム機どころかテレビも無い。
この部屋にある機械類といえば机の上のMDコンポとエアコン、あとはベッドの横にある小さな台に置かれた、電気スタンドだけである。これを機械といって良いのか疑問だが。
現代人が生活する環境としては珍しいかもしれないが、これ以外に物が足りなくて不自由をした事はない。
自分の性格をそのまま現したような自室の、電気スタンドと共に並べられた置時計に視線を向けた。
現在時刻、午前六時四十五分。
シャワーを浴びる前に見たの六時十分だったので、それから三十五分ほど経っていた。
と言っても兄と話したりしていたので、実際にお風呂に入っていた時間は二十五分ほどであろう。
急いだ訳ではないが、なんでも速く済ましてしまう性質らしかった。
まだまだ時間に余裕があることを確認してから、私はクローゼットに近づく。
木製の扉に手をかけ、手前に引いて扉を開ける。中に手を伸ばし、制服を取り出す。
クローゼットの中には制服の他にも私服がかけられていたが、それほど量は多くない。
この部屋と同じように私の性格がダイレクトに反映されているので、やはり黒や白などが多く、柄物は少なかった。
その中で目を惹くのは紅いワンピースである。
ワインレッドで染められた、シックな装いのワンピースにも装飾は少ない。
しかし、それは単調ではなく上品という言葉が似合うワンピースだった。
他にもワンピースでこそ無いが、紅い色をした衣類がそれほど多くないにも拘らず、単調な衣類の中では良く目立つ。
紅。赤ではなく、紅。
それが、私が唯一、白と黒以外で好む色合いだった。
何故なら、それは。
「……ッ」
左目に、唐突な激痛。
鋭い痛み。何か、小さく鋭利な欠片が勢い良く突き刺さったような、不快感を伴う痛みだ。
(違う……痛くない。そんな筈無い。だって、あれから3年も経った。――もうとっくに完治してる。だからこの痛みは私の弱さが生んだ、ただの幻)
辛抱強く己に言い聞かせていると、次第に幻痛は消えていった。私は抑えていた手を放し、深く嘆息する。
「ほんっとに……相変わらず壊れてるわね、私は」
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