『あの子は天才だよ。史上にも稀な天才だ。十年、いや五年でこの世界を変える逸材になる』
『まだ小さいのに上手だね〜、お姉さんびっくりしちゃった。紙の中に、本物の猫さんがいるみたい。将来は画家さんだね』
『美術のセンセイが何か叫んでたよ? あの子は天才だーとか言って大狂乱してたんだから』
『これが俺か……凄いな。君、何年生? え、五年? 小学生だよな、やっぱり……隣に引っ越してきたのは天才少女か。――まあ、これから宜しく、***ちゃん。また似顔絵頼むよ』



NOIR No.2



「ちょっと秋葉、どうしたの?」
 我に返った。
 呆然として周りを見渡す。
 ここは私が通っている高校の教室で二年A組。
 声を掛けてきたのは二年なってから知り合った友達。
 名前は川澄京子。剣道部所属でこの年で段位を持っている。今、現在としては私と一番親しい友人。
 当たり前の事実を私は反芻しながら、胸の鼓動を落ち着けた。
 決して過去の情景ではない。この教室も彼女も、そして自分自身も。だから答えた。
「ううん、大したことじゃないわ。ちょっと考え事していただけだから」
 そう、大したことではない。少し昔を思い出していただけだ。今更、どうこういう気も無いくらい昔の話。
 全く、今日の私は少しどうかしているらしい。今朝見た、あの夢のせいだろうか?
 けれど、あの夢が何だというのだろう。自分でも解らない。それなら、何故解らないのに関連付けようとするのか……。
(そう言えば、運転手が喋ったのって、はじめてだったかも)
 何となく、そんな些細な事が酷く気になった。
(お前が飽きるまでって……どういうことなんだろう)
 そんな私の思考を他所に、京子が口を開く。
 彼女の言葉に意識を向けた瞬間、頭の中で渦巻いていた些細な疑問は跡形も無く消え去ってしまった。
「なら良いけどね。それにしてもさ。これから美術の授業なんだけど、私、全然進んでないんだよね」
 だからさ、秋葉。ちょっと、手伝ってくれない? と京子は言った。
 その一言に反応した。一瞬、体が硬直しそうになるのを意識的に止める。動揺を平静で装って返した。
「え? う、うん。わかった。自分の分が終わったらね。まだ仕上げが残ってるから、それが終わったら……」
 私がそう言ったところに教師の声が響く。会話を中断し、そちらへと意識を向けた。
 教壇の方に視線を向ける。そこには美術の教師がいた。
 教師はまだ若い。背が低くほっそりとした可愛らしい女性で、愛嬌のある性格をしている。生徒達にも人気があるらしかった。
「えー、これから皆さんの作品を返します。名前を呼びますので、呼ばれた人は前に取りに来てください。出来上がった人は友達の手伝いでもしてあげてください。あ、でも、全部はダメですよ? では、まず赤坂さん」
 その教師が生徒の名前を呼び始める。赤坂、井上、石田、大塚……五十音順に一人ずつ、少しずつ私に近づいてくる。
 比例するようにイヤな感覚が私の中に広がっていった。そして、
「栩野さん」
 私の名が呼ばれた。「はい」と返事をしてからため息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
 新米に近いこの教師の口が軽いことは知っている。私は何を言われても動揺しないように、気分を落ち着かせながら教壇に近づく。
「はい栩野さん。貴女はもうすぐ完成ですので頑張ってくださいね。――それにしても凄いですね。まだ完成していないのに満点以外に評価のつけようがありません。流石、天才と言われたあの――」
「先生」
 大きさは抑えて、しかしやや強い口調で目の前で嬉しそうに語る教師の言葉を遮る。
 そして、できるだけ平坦な口調で、言った。
「後ろがつかえています。何か御話があるなら、また後で」
 教師の顔を見る。死んだ左目と視線が交わった気がした。
 すると教師は怯えたように口を噤み、慌てて次の生徒の名を呼んだ。私はそれを見取ってから、一瞥を教師に向けて自分の席に戻る。
 教師が怯えた理由はなんとなく分かる。普通の視線ではない事など、自分が一番知っている。
 彼女は己の言葉の意味を言ってから理解したのだろう。饒舌は愚かな事、とは良く言ったものである。
 私は歩きながら自分の作品を見た。
 大きな鳥が枝から飛び立つ瞬間が描かれている。鳥は鷹だった。鋭い眼も、大きな翼もリアルに近い正確さで描かれている。何故その絵かというと、今回の主題が動物だったからだ。
 確かあの教師が言うとおり、これを見て最高評価以外をつける教師はいないだろう。当然だ、美術教師とて誰よりも技術が高いとは限らない。彼女自身がソレを超えられないなら、相手が生徒だとしても満点をつけるしかない。
 この程度、私にとっては児戯に等しいけれど。
(もう、私が描けるのはこの程度)
 そう心の中で呟いて、眼を瞑る。リストバンドを強く押さえた。左半身が疼く。絵を描くのは苦痛だった。
 筆を握ると昔を思い出す。それは輝かしい過去の情景で、今の私からは想像もつかない光だった。
 若干十歳にして、片っ端から賞を掻っ攫い、絵画の世界に彗星の如く登場した一人の少女。
 歴史を塗り替えるとさえ言われた、天才。それが栩野……いや樋坂秋葉という少女だった。
 しかし、栄枯必衰という言葉がある。栄光は長くは続かないものだ。それに習うように十三歳の時、私は一度死んで――。
 と、またもや思考の世界に潜っていた私を、誰かの声が呼び戻した。
「おーい、栩野さーん。かえってこーい。川澄さんが困ってるぞー」
 はっとして前を見る。いつの間にか自分の席に戻っていた私の前に、男子生徒の顔があった。
「夏野君」
 夏野圭人。クラスメートの男子。結構整った顔立ちをしていて、その上気さくでおおらかな性格なので男女共に人気のある。
 クラスのリーダー的存在で頼りになる上に役職は生徒会長。男子の中では、たぶん一番親しい友人。いや、――二番か。性能的には、漫画的な出来すぎ人間だ。
「ちょっと考え事してて。……ごめん、京子」
「良いけどねー。でも、今日のアンタちょっと変だよ。もしかして何かあった?」
 京子のその問いに、またもや硬直しそうになる。そこで夏野が助け舟を出してくれた。
「大丈夫だよ、川澄さん。栩野さんは低血圧だから朝はずっとこの調子なんだ。でも、直ぐに元に戻るから心配しないで良いよ」
「まあ、そう言われれば秋葉はいつもこんな感じだったかも。……でも、何でそんなこと夏野君が知ってるのかな?」
 獲物を見つけた猛獣のような鋭い眼をする京子。
 剣道有段者の鋭い眼力を野次馬根性に発揮するのが、この川澄京子という良き友人の悪癖である。
 その、好奇心の牙のような視線を受けながらも、夏野圭人は冷静に返した。
「僕と栩野さんは同じ中学だったからね。三年の頃は同じクラスだったし……朝は良くぼーとしてたよ。栩野さんは」
 そう、彼の言うとおり私と夏野は同じ中学の出身だ。
 友達を作ろうとしない私に何故か良く話しかけてきて、しばらくして打ち解けてからは、色々と世話を焼いてもらった。
 だから彼は私のことを良く知っている。当然あの事も。そして同じ高校に入ってからはその事で良く今みたいにフォローしてくれている。
 感謝の言葉もない。
「なーんだ。そういう事かー……期待して損しちゃった」
 悪びれもせずシレっと言う京子に、すかさず私はつっこみを入れた。
「一体何に期待してたのよ?」
「一体何に期待したんだか」
 奇しくも、同じタイミングで夏野が全く同じつっこみを入れてしまった。
 私達は思わず顔を見合わせて、次の瞬間全く同時に吹き出した。それを見て京子が呆れたように言う。目が冷たい。
「期待的中でしょうが……御暑い事で」
「何言ってるんだよ。川澄さんは彼氏がちゃんといるだろ?」
 京子の呟きに夏野が言う。私もそれに追随して口を開いた。
「そうよ。御暑いのは京子と遠藤君でしょう? それに私と夏野君はただの友達よ。京子が思ってるような関係じゃないわ」
 それは照れ隠しではなかった。夏野は嫌いではないし、感謝もしている。
 が、だからと言ってそれ以上の感情がある訳もない。
 好きの種類も幾通り、といったところだ。大体、私では夏野に釣り合う訳もないのだし。
 私の心の声に返すように京子が言った。
「そうでしょうねぇ。何たって秋葉の憧れの君は、文武両道、頭脳明晰、眉目秀麗で容姿端麗の四文字熟語が何より似合う、完全無欠のお兄様ですからねぇ」

 不意打ちだった。

「な、何馬鹿な事言ってるのよ! どうして私がそん……「馬鹿も何も」」
 慌てて抗議すると、京子が言葉を被せて遮った。
「全部アンタが言ったことなんだけどねぇ。……流石に全部一度に並べたことはなかったけど。まあ、秋葉のブラコンぶりは置いといて、明日みんなでテスト勉強しない? もう直ぐテストだから不安なんだよねー、わたし」
 巧妙に話題を変えられて、私は反論の機会を逃した。
 だから、と言うわけではないが、憮然とした表情になってしまうのも無理は無いと思う。
「不安なのは、普段からちゃんとしてないからでしょうが」
「まあそう言わずに。良いんじゃないか? テスト勉強。遠藤も呼ぶんだろう?」
 京子の言葉にふくれている私をやんわりと抑えて夏野が言った。調停は彼の行動原理だ。
「当然。この三人で集まっても私が寂しいじゃない。二対二。男女二人ずつ。これこそ平等ってもんでしょう?」
 やや、聞き捨てならない言葉を吐く京子を無視し、ここで遠藤という人物の紹介をしておく事にしよう。
 京子の彼氏である遠藤真一は、ぱっと見は軽く見えるが気配りができて気の良い青年だ。
 柔らかな態度で接する夏野と違い、ストレートな態度と感情表現が人を惹きつける、場を明るくするムードメーカー。
 尤も成績の方はちょっと低くて、その代わり体育が得意な元気っ子。ちなみに関西人である。
 京子も同じで勉強より体育が得意なタイプなので、つまりは同じタイプのカップルかも、しれない。
 勉強会が必要なのはこの二人であって私ではない。一応、これでも私は女子の学年三位なのだ。それは、オールラウンダーの夏野佳人も同様。
 ま、私達より上の幾人は、それこそ常軌を逸している天才どもなのだが。正直、あの辺りになると人間の領域だとは思えない。
 基本的に今ここに居る私たち三人に、遠藤真一を加えた四人が私たちのグループである。
 人数の少ない集まりではあるが、私たちはそれぞれが色んな意味で有名である。
 だから私達は学年どころか学校全体でも割かし有名だ。代名詞で「あいつら」と言えばこの学校では私たちのことになるだろう。確か、そんな言葉を誰かから聞いたし。
 「アイツ」と表現すると私達以外の数人に分かれて、正確に伝わらない点がミソなのだけど。要するに、中堅的な集まりとでも言えば良いのかもしれない。掛け値なしの天才って、馴れ合わないモノだから。
 閑話休題。
 筆頭は、私の目の前に居る川澄京子。
 京子は先に述べたとおり、全国レベルの実力を誇るこの女子剣道部の上位の有段者。
 並みの男が十人いても竹刀を持った京子には敵わない。実際撃退されている馬鹿どもも大勢いる。
 段位を持った女性でも男の腕力には敵わないときくが、京子に限って言うならそれは外れ。
 本当に、物理的に強いのだ。
 次に、その彼氏の遠藤真一。
 彼は特にクラブに所属している訳ではないが、その身体能力の高さで引っ切り無しに勧誘がくる。
 サッカー、バスケ、野球にテニス。球技ならお手のもの。動体視力と反射神経が並ではないのだ。ちなみに、何故か私の事をお嬢と呼ぶ。何故だか知らないが、本音を言うとやめてほしい。
 さらに言わずもがなの夏野圭人。
 穏やかな態度と、非のない成績で高い人望を得た生徒会長。運動も勉強も何でもこなす秀才君。
 前者二人の突き抜け様とは違い、アベレージが高くて逆に特徴らしい特徴は無い、という微妙な特徴を持っている。
 ほんと、なんでこれで中堅なのだか。なまじ天才と言われ人間のレベルを知っていた時期があっただけに、この学校の特異さが良く分かるのだった。
 ああ、それから最後に私、栩野秋葉。
 ある意味この中では私が一番有名である。しかし、その有名さは彼らの様にポジティブなものではない。
 一応、彼らのように誇れそうなものもあるにはあるが、私にはもはや関係のない話だ。
 昔の栄光に縋るほど愚かにもなれない。そして、私が有名なのはそれと関連があるが少し違う。
 私が有名な理由は、過去の栄光にピリオドを打った事件そのもの。俗な言い方をするなら、悲劇の主人公。
 何せ私は。
 思い浮かべた瞬間、半身に痺れが走った。
 反射的に左目を抑える。弾かれた眼鏡が机に転がる。
 吐き気を催すような不快感を覚えながら、その一言を思い浮かべた。
 私は、事故で左目を失明しているのだ。



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