Rain Days

―序章―

(これ、今日は止みそうも無いかも)
 降りきしる雨を駆けながら、僕は胸中でそう呟いた。
(何でこんな日に雨なのかなー。天気予報は晴れだった筈なのに)
 冷たい感触。身を打つ雨粒は、容赦無く僕の体温を奪って行く。 この季節に雨に濡れながら走るのは、かなり辛い。運動で温まるより先に、水と風で体は冷える。
(っ……ちょっと寒過ぎるな。風邪、ひかなければ良いけど)
 速いペースで走り続けて約五分。息がそろそろ乱れてきた。
「あー、」
(……やっぱり、筋トレはやり過ぎると辛いなぁ)
 両足、特に大腿部がかなり疲労している。グラウンドが使えないからといって、無闇にトレーニングを続けた結果だ。
(トレーニングは計画的に、か)
 体の疲労を無関係な思考で誤魔化して、僕はひたすら家を目指す。 疲れているとはいえ、このまま雨に打たれ続ければ結果的にそちらの方が害だろう。
 そうして走り続けて、更に五分が経過した。 見覚えのある建物が視界に映り、目指す場所が近い事を確認する。
(あ……そういえば今日は、父さん達、早めに帰ってるんだっけ)
 終着点に近づいた為か、思考はその先へと逸れていく。 そして、家が視界に入る位置にまで到達したところで、僕は妙なモノを見た。
「……あれ?」
 開いている。
 遠目だからはっきりとはよくわからないが、間違いなくアレは僕の家だろう。その家の扉が、もう窓だって開け放つことなどないこの季節に、堂々と開いていた。
 今時、片田舎の民家だって開けっ放しなんてありえないし、都会に至っては在宅中でも鍵をかけない方が稀である。にもかかわらず開かれたまま閉ざされる様子のない扉が、周囲の雨音と相俟って否応もなく不吉なイメージを喚起した。
(い、一体何が?)
 良く解らないが、良く解らないからこそ普通ではない気配が読み取れる。無意識のうちに足を速めていた僕は、数秒でその場所へと到着した。
(やっぱり)
 見間違えようもない、それは僕が住む家だ。表札にもきちんと苗字が彫られている。自分でも理解できない焦燥に突き動かされて、僕は玄関に飛び込んだ。
 ガチャン、背後で乱暴に響いた音に一抹の安心感を覚えながら、靴を脱いで居間へと向かう。
「ただいまー」
 その言葉を、あえて普段より大きく告げた。いつもなら、もうすぐそこに迫った居間の扉が独りでに開き、その裏にいた父か兄が暢気な声音でおかえりと返事をしてくれるはずで。
 けれど、そもそも誰かが開かねばならないはずの扉は、先ほどの玄関と同じように閉ざされていなかった。
 だから、当然、その先にあるものも、見える。
「……え?」
 ソレが何なのか、僕はその時理解できなかった。
 理解できたのは色。赤い、ともすれば朱と表現するほうが似つかわしい艶を含んだ赤が、半ばとまった意識の中、僕の網膜を貫いてその先の魂まで貫いた。
 理性より先に本能が慄く、肌の粟立つ感覚に身震いしながら、僕はまるで泥をかぶったように動かない体を動かしてその場所へと立った。
 ――そう、それが悲劇。何故逃げなかったのだろう、その行動が僕にとって最大の悲劇であり、僕が犯した救いようも無い愚行だった。
「あ、」
 その色を見たとき、本当は理解していたはずだ。常識や知識に因るまでもなく、生き物としての性としてソレが何なのか解っていたはずだったし、一方で視力の良い僕は、その量や形もキチンと把握していた。
 事実として、ソレはもう動かせないものなのだと。意識が理解するよりも早く、ただ一目見たその瞬間、体の一番深いところで、もうどうしようもないのことなのだと覚悟していなければならなかったのに……!
「ああ、あああ」
 力が抜けて、膝をつく。その場に落ちていたなにかがあたって、僕の足を傷つけた。大切な足、僕にとっては世界で三番目くらいに大切なもの。痛みによって機械的にその場所を映し出す瞳の先で、目前に広がるソレラと同じものが流れ出ている。
 それは赤。朱と言うべき、ソレ。目の前のソレと、流れ出すソレ。
 どちらも全く同じものであり、唯一違う点があるとすれば、それは。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ……!!」
 誰が見たって、あっちはもう手遅れなのだという、そんな当たり前の一点でしかなく。
 そう、その血溜りの中に、良く知っていたはずの、二人の誰かが沈んでいた。

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