走った。 ひたすら走った。 怖かった。 あの眼が怖かった。 純粋な眼。 憧憬の眼だ。 『感動しました』 幻聴が聴こえる。 さっき偶然出逢った少女。 初対面の少女。 初めて聴いた声。 なのに耳から離れない。 『何故辞められたのですか?』 残念そうに。 失ってはならないモノのように。 他人なのに。 私は名前も知らないのに。 それでも尊敬の眼差しで。 『また、絵を描いてください』 純粋に。 信じて。 疑う事をしらないかのように。 『待ってます』 やめて。 『信じてます』 お願いだから。 『また、私たちをを感動させてください』 赦して。 『貴方ならできます』 勝手に決めないで。 『帰ってきてください』 無理だ。 『私たちの世界へ』 其処は私の場所じゃない。 『絵の世界へ』 壊れた私は、其処へは行けない。 『貴女の世界へ』 もう違う。 『絶対に信じてますから』 勝手に期待しないで。 『だから還ってきて下さい』 勝手なこと言わないで。 『樋坂、秋葉さん』 その名で、今の私を呼ばないで。 『もう一度、私を感動させてください』 もう、無理だよ――。 NOIR No.3 街のざわめきが聴こえる。 様々な喧騒がその場を埋め尽くし、独立している筈の音達は、それが何の音か判別することなど困難な程に混然されていた。まるで一つの生き物のように、雑音という鳴き声を上げているよう。 他の繁華街がどんな場所かは知らないが、少なくともこの場所そのように表現できるほど煩く、生き物のように活き活きとしていた。 時刻を見る。午後二時半を示していた。 この時間帯は普通は学生などいない筈であるが、各学校は試験前週にテスト期間というものを実施する。 試験に向かって生徒達が自主的に勉強する為の期間で、授業が早く、午前中には終了してしまうのである。 ゆえに今は放課後ということになり、学生達の姿が良く目立った。 同じ学校の生徒ではない。ブレザーや学ラン、セーラなどのそれぞれが違う制服を身に纏っている。 が、彼らに見つけることのできる相違はそれだけだろう。 皆一様に楽しそうな表情を浮かべながら友人達を会話し、ゲームで遊び、ショッピングを楽しんでいる。 それぞれがそれぞれの悩みを持つであろう事は想像できるが、そんなものは存在しないような振る舞いで存分に学生の自由を謳歌していた。 当然試験勉強など考えてもいない。 そして、ここにもそんな学生のグループが一つ。 「ねぇ、あの服可愛くない?」 私たちは放課後になって近くの繁華街を訪れていた。 ここにいるのは京子と遠藤と夏野、そして私……つまりはいつものメンバーである。 終学活が終わった直後に、京子がある提案をしたのが始まりだった。 『今から四人で遊びに行かない?』 その言葉に、私は『明日は皆で勉強会を行う予定なのだから、皆で集まるなら今日やろうか』という主旨の提案をしたのだが、その冷静な提案は京子の、 『何言ってるのよ? 今日から勉強なんて始めたら、折角部活が休みなのに意味ないじゃない』 という、不真面目極まる理由で却下され、その結果、流されるままこの場にいた。良いのか、私。 そんな回想をしながら、私は目の前でいちゃつくバカップル……もとい、川澄京子と遠藤真一を見やった。 (御暑いことで) ため息を吐きながら私は内心でそう呟く。ついでに砂も吐きたい思いだった。 実際、私は心底ウンザリしていたが、それは無理からぬ事だろう。 「ああ可愛いな。おまえによう似合うと思うで?」 腕を組み、密着しながらそんな会話をする京子達。 しかもさっきから頻繁にである。何度も「可愛い」という単語が耳に入る。 見ている方は既に満腹である。『ゴチソウサマ』と口に出したくなる欲求を、私は強靭な精神力で捻じ伏せた。 再びため息。全く……私の幸せが逃げたらどうしてくれるのだろうか。 私は自分達の世界を創っている目の前の二人から目を逸らし、自分と同じように京子たちからは少し遅れて歩いている夏野を見遣った。 すると、ちょうど同じタイミングでため息をついていた夏野と目が合った。同時に顔を見合わせた状態になって夏野はクスクスと笑い出す。 今朝の出来事を思い出したのだろう。私も同じように笑ってしまった。 夏野とはこういった事が良くある。 おそらく、私たちは似ているのだろう。偶然なのに示し合わせたように行動が似通う。 今も内心京子たちに対して私と同じような感想を浮かべているのだろう。 似たもの同士。案外その単純な理由が、私が夏野と親しい一番の理由なのかもしれなかった。 「大変だよね。カップルのデートに付き合わされると」 「同感。もうさっきから暑くて仕方が無いわ」 そうやって、二人して笑いながら愚痴っていると、唐突にジトっとした声が響いた。 「さっきから言わせて置けば好き勝手に言いよって……誰のせいで大変やって?」 「なーにが同感よ。御暑くて悪かったわね」 知らない間にこちらの世界に戻ってきていた二人が、冷たい視線を向けながら言った。 二人してジト目で言ってくる様は、見ようによっては不気味な迫力さえ醸し出している。 が、成績優秀な生徒会長と女子の学年三位の頭脳明晰ペアには、そんな怪しい迫力は通用しない。 事も無げに二人でそれぞれの反撃に転じた。 「ああ、俺が大変なのは怪しい関西弁を操る彼女にぞっこんの厄介な友人のせいだよ」 「開き直ってもダメよ。悪いと思うなら密着しながら歩くのは止めなさい。こっちが恥ずかしいんだから」 「「うっ……」」 容赦という文字など、欠片も存在しない物言いで反撃された二人は、奇妙な声を上げたきり黙り込む。 『ぐうの音もでない』という感じである。いや、一応ぐうの音くらいは出ているのだけれど。 しかし、沈黙に耐えかねたのか、やがて二人は肩を落としながらため息をつき、言った。 「ちっ、わかったわ……もーやらへんから、今回は許せ」 「うぅ……スミマセンデシタ」 その京子たちの言葉に私たちは頷いて、 「「よし」」 同じように言った。 「あー、楽しかったー!」 紅い夕日の光が背景を彩る。辺りには先ほどのざわめきは無く、時折子供たちの嬌声とその母親達の話し声が聞こえる。 繁華街から少し離れた街の公園。私達は既に帰宅の途にあった。 「それはそうでしょうよ。一人であれだけ歌えば……貴女遠慮ってモノ知らないの?」 容赦の無いツッコミを私は入れる。が、 「何言ってんのよ? 秋葉が歌いたがらないから、私が代わりに歌ってあげたんでしょうが」 こちらのツッコミに珍しく、京子が的確に反撃してきた。 「むっ……ちゃんと、歌ったわよ」 直ぐに言葉を返すが、私にしては妙に歯切れが悪いと、自分でも思った。 その反応を見取ると、京子は意地悪げに、にやりと笑った。イヤらしいほど可愛い笑みである。 「そうねぇ。最初に歌った曲が100点中43点……見事に外してたのに、その後二回も歌ったんだから大した根性よねぇ」 「あう……」 全くと言って良いほど反論できなかった。私は――カラオケが、苦手なのである。 最初に思いっきり外してから、数時間の間にたったの二回。それも激しく抵抗しての二回だった。 それでも歌った後は赤面して部屋の隅でいじけていたのだ(その二曲の点数は想像にお任せしよう)。 とどのつまりワタクシ、クヌギノアキハという女は音痴なのである。 普段、冷静沈着に見せている私の弱点に京子をはじめ、夏野でさえも爆笑したのだった。 ゆえに今私は機嫌が悪い。羞恥と怒りで手が微妙に震えてさえいるのだ。我慢するだけで精一杯なのである。 そんな私を京子は面白可笑しくからかってくるのだ。どうやら昼間の仕返しのつもりらしい。 穏やかな表情でじゃれ合う動物を生暖かく見守っているような男子二人組みだったが、私がこめかみを引き攣らせ、今にも叫び出そうとしているのを見取るや否や、互いに顔を見合わせ止めに入ってきたのだった。 「ちょっとストップそれ以上言うな! お嬢がキレよる!」 「はーい栩野さん! 落ち着こうねー。深呼吸して……そう。吸ってー吐いてー……オーケー、いつもの栩野さんの出来上がり」 互いに、得意とする方に近寄り、それぞれに声を掛ける。 そして、京子は少しつまらなそうに顔を振り、私ははっと我に還って深呼吸をした。 どうにか落ち着いた二人の様子に、遠藤と夏野は同時に安堵のため息を吐いた。 「それにしてもあれやな。お嬢があんな音痴やったとは知らんかったわ」 「ああ、そうだな。意外な一面を見て正直感激してる」 一騒動あったので四人は近くの公園で休憩していた。 話題のネタは当然一つしかない。 「もう許してよ、遠藤君。それとお嬢は止めてって言ってるでしょ? ……夏野君も、あんまりイジワルしないで」 声には力が篭らない。 昼間注意されたのが相当悔しかったのか、結局はおもちゃにされている私を京子はニヤニヤしながら眺めていた。 状況に脱力しながら、何と無しに周囲を見渡す。この面白くない現実から逃避したかったのかもしれない。 そんな私の目に妙な光景が映る。 公園の中央付近に一本の木があった。 もう季節は冬。木々達の枝には生い茂る葉などなく、たった数枚の落ち損ねた枯葉が、その枝にしがみ付いているだけである。 その木の手前のベンチに、私たちと同年代かそれより少し年下に見える少女が一人。 これだけなら気にすることは何もない。私の目に留まったのは少女自身ではなく、少女が手に持っている一冊のスケッチブックだった。 瑞々しい葉など一枚も無い、殺風景なその木を、まるでとても美しい大樹を見るような眼差しで見つめている。 そして、そのスケッチブックにペンを走らせる。 丁寧に、力強く、それでいて繊細に。殺風景な木から美しさを写し取る。 その姿は――。 刹那、使い物にならなくなった半身が疼いた。 私は思わず腕を抑えそうになるのを堪える。いい加減、少なくとも表層だけはコントロールできるようにしなければ。 名も知らぬ少女のその姿が、昔の自分と重なった。 希望を信じ、栄光を疑わず、幸せに満ちていた過去の自分。 それは画家という名の自分だった。 少女は疲れたのか、スケッチブックを閉じ伸びをする。 気持ちよさそうな表情が、何故か胸に刺さった気がした。 そして、不意に何気ない動作でこちらを――。 少女から慌てて眼を逸らす。 驚くことではない。昔の自分も、良く街へ出ては様々なものを描いていた。 良く見掛る、というほどのものではないが、絵のモデルを街の何処かに求める人間は多い。 私自身、古びた木を題材に選んだ事はある。 確かに、あの木にはある種の強さがあるだろう。単純な外観の美など真実の側面でしかない。 むしろ一見では分からないその真実を、万人に示すという事が芸術という行動の尊さなのだ。 誰が見ても美しい物を、ただ美しく描くだけでは完璧ではない。或いは、美しさを伝えるというコンセプトが既に間違っている。 綺麗でなくても良い。醜くても単調でも良い。隠れた真実を自分なりの感性で伝え、見た者の心に届ける。その時鑑賞者が強い情動を覚えた時、その事実こそが一流に値する名画となる。 だから見ず知らずの少女が、何をモデルにしていてもおかしくはない。 あの少女も画家を目指しているのか、それともただ絵が好きなだけなのか。まあ、どちらにせよ、変わりは無い。以上に、自分にはもはや無関係な話だ。 そう自分に言い聞かせて、友人達の方を見る。 男の子二人組みは互いにおしゃべりをしているので、こちらの変化には気付いていない。 京子は横から眺めていた為か、微妙に気付いている様子だ。少しだけ首を傾げながらこちらの方を見ている。 けれど何が原因かまでは解らないだろう。ならば上手く誤魔化して、早々にここを離れれば良い。 私は一部の間では有名だ。それも全国的に。絵が好きな少女なら、面が割れててもおかしくない。 テレビや雑誌にも何度か出た事があるからだ。見つかるのはなんとしても避けたい。 そう思い、三人に声を掛けようとして。 「あの」 後ろから、唐突に声を掛けられた。 途方もなく嫌な予感がしたが、ゆっくりと後ろを振り返る。 すると……、 「樋坂秋葉さん……ですよね?」 先ほどの少女が、そこに、いた。 「待ってください!」 名も知らぬ少女の声が背中に響く。 その声には構わずに私はその場を逃げ出した。 走り出す瞬間、京子達が驚きの視線でこちらを見つめていたが、その視線からも眼を逸らし走り出す。 背後に追ってくる気配は無い。それに心の底から安堵しながら、街の奥へと駆けた。 時折通行人にぶつかり、その度に慌てて謝ってはまた駆け出す。 方向も定めずにただ直感だけで角を曲がる。そうして、どれだけ走っただろうか。 辺りには見覚えこそあるが自分が住む場所ではない。 が、今の私にはそんなことはどうでも良い事だった。 心臓が暴れ出す音で、幻聴は聞こえない。 背後を見ても、先ほどの少女の姿など影も形も無い。 激しい運動のためか思考が纏まらない。 それら全てが私に安堵を与えた。 少し待っている間に鼓動が平常を取り戻す。時間経過に伴い思考がクリアになり、先ほどまでこの身を支配していた恐慌が徐々に鎮まる。 そこまで落ち着いてはじめて、私は自分がした少女との会話を思い出した。 少女は画家を目指していること。 自分を尊敬していること。 そして……秋葉が絵を辞めたことをとても悲しんでいること。 彼女に対し、自身が応えた言葉は断片的なノイズの様に曖昧で、内容を思い出すことは出来ない。 恐らく、考えて言葉を発することすら出来ないほどに動揺していたのだろう。 今でも思い出すだけで、手が震えだす。 あの、一片の曇りも無いような純粋な眼。 昔の自分が持っていたであろうその眼の光は、失った者にとって恐怖でしかない。 過去を振り切る事は出来た。そう思っていた。 もはや今の自分は絵などに未練はないし、必要もない。 しかし、決してそれは忘れた事と同義ではないのだ。 振り切って、それから眼を逸らすことは出来ても、眼の前に突き付けられれば否応無しに思い出す。 そして……思い出せば、傷は疼き、痛み出す。 乾いた筈の傷口から、鮮血が滴り落ちるだろう。 これはもしかしたら、振り切れたとは言えないのかもしれない。 ただ過去から逃げて、背を向けるだけで、振り切ったつもりになっているだけなのかもしれない。 しかし、仮にそうだったとしても、今の私にはどうしようもない。 心の奥に刻み込まれたトラウマは条件反射のように現れ、そして古傷は涙を流す。 「下らない……一体、いつまで引き摺るつもりなのよ」 そう呟いて、暗澹たる気分でこの場を離れようとした私に、不意に背後から声が掛けられた。 「おい」 その、聞き覚えのありすぎる声音に反射的に振り返る。 「お前何してるんだ? こんなところで」 そこには、キョトンとした表情の兄がいた。 「で、お前こんなところまで来て何してたんだ?」 偶然会って直ぐ、こちらの異変に気づいた兄に近くの喫茶店へと手を引かれた。 自分はコーヒーを、私のは何故かオレンジジュースを注文した。 (ここはコーヒーか紅茶でしょうに) 注文が来ても私は沈黙を守り、彼も何一つ言葉を発しはしなかった。 場を満たすどうにも居心地の悪い沈黙に、時折どちらかが飲み物を啜る音がわざとらしく響く。 そこに居ることさえ苦痛な場の雰囲気に、内心私は鬱屈を蓄積させたけど、自分から口を開く気にはなれなかった。 手持ち無沙汰でやることもなく、妙に甘ったるいオレンジジュースを少しずつ口に運ぶ。 そして、結局兄が先の言葉を言ったのは互いがそれぞれの注文を飲み終えた後だった。 「別に……なんでもない。ちょっと、道に迷っただけよ」 明らかな嘘に兄は顔を顰める。それで騙せると思ったわけではない。ただ単に、他に何と言っていいか分からなかっただけで。 「ほう……迷ったねぇ。まあ良いけど。じゃあ、俺が通りかからなかったら、どうするつもりだったんだ?」 「人に道を聞けば帰れるわ」 兄の問いに、私はそう即答した。本当にそうしようと思っていたからだ。 「へえ……道を聞くね。お前って、知ってる場所で迷うような方向音痴だっけ?」 思わぬ言葉に、私はとっさに顔を上げてしまった。その行動さえも誤りと気付きながら。 そこには、にやりと笑う兄の顔。 「お前がいたあの道な。俺の大学の通り道。駅から大学への直線通路だ。通行人なんかに聞かなくても回りを見渡せば駅が見える訳だが……気付かなかったのか?」 間違いなく、動揺が顔に現れたと思う。何故なら彼が言うとおり、全く気付かなかったからだ。 見たことのある風景だとは思ったが、まさかそんな場所だったとは。 「で、お前はこんなところで何してたんだ? 俺に会いに来た訳じゃない。だが、お前の用なんて俺しかないよな? しかも、お前は自分が居た場所さえ理解していなかった。頭の良いお前が、あんな見えすいた嘘を並べる理由は?」 そう捲くし立てた後、兄はため息を吐いた。 そして再び口を開く。 「確かにお前は頭が良いけど、今は頭が良いとか悪いとか、そういう問題じゃない。何たって目の前に駅があるのに通行人に道を聞こうとしたくらいだからな。全然らしくないだろ。何かあったな?」 先ほどのような勢いはなく、ゆっくりと諭すような口調で兄は言った。 私は先ほどの少女とのやりとりを思い出す。 (――樋坂、秋葉) 再び手が震えだし、幻痛が走り出す。その名前は、私にとって悪夢の具現だ。 助けて欲しかった。けれど、言える筈もなかった。 「景兄さんには、関係ないわ」 そう、答えた。 「ハァ……」 そのため息にビクリと体が震える。 失望されたと、思う。 当然だろう。自分の妹がこんな様子では、心配するのは当たり前だ。 普段、見せ掛けにせよ十全の冷静さを装っているのだ。それが崩れたなら、心配の度合いだって大きい。 けれど、私はその親切心から差し伸ばされた手を、無下に払い除けた。 関係ない、の一言で。 だから……この反応は当然。気を悪くして、当然。そんなことは小学生でも分かるし、もちろん、私は理解していた筈だった。 なのに、彼に失望されるのを恐れている。救いの手を払い除けておきながら、救いがあることを期待している。 (嫌な女) そんな自分に嫌悪を覚えて、唇をかみながら俯く。 膝の上に置かれた、力を入れすぎて白くなった手が目に入った。 目前で気配が変わる。兄が何か言おうとした瞬間、電子音が響いた。 『プルルルル……プルルルル……プル』 数コールが過ぎて、慌てて自分の携帯を取り出す。 そして、そのまま通話ボタンを押した。 「もしもし? 栩野さん? ――ああ、良かった。いきなり走ってどっか行っちゃうもんだから、心配したよ。何度電話しても出ないし……今、何処にいるの?」 こちらが出るなりそう捲くし立てた人物は、口調から察するに夏野のようだ。電話がかかってきた記憶などないが、一心不乱に走っていたのだから気付かなかっただけかもしれない。 そして、今更ながらに公園に残してきた三人の顔が頭に過ぎった。 自分の勝手な都合で飛び出し、そして電話がかかってくるまで完璧に彼らの存在を忘れていた自分に、憎しみに近いくらい更なる自己嫌悪が募る。 吐き気さえする。自らの行動の浅はかさと最低さにウンザリしながらも、電話の向こうにいる夏野の問いに答えた。 「今、兄さんと喫茶店にいるわ。偶然会って……うん……大丈夫。大したことじゃないから……ごめんね、夏野君。京子達にも心配しないように言っておいて……うん、ありがと……じゃあね」 そう言って電話を切る。夏野達は私の行動にも怒ってはいないようだ。 京子は機嫌が悪かったらしいが、夏野はそれも心配しているからだと言ってくれた。これほど良い友人に、自分がかけている迷惑を想像すると気が滅入る。 思わず、ため息が出た。 「大したことじゃない、か」 いきなりの言葉に、私は思わ身を竦ませる。その態度に構わず兄は言葉を続けた。 「友達にさえ言わない、か。何がお前をそうさせるんだろうな」 問うというより、純粋な疑問のような言葉。その言葉に私が何か言う前に、兄はおもむろに立ち上がる。 「さて、このまま居座っちゃあ店に迷惑だし、もう居座る意味も無い」 言葉を切り、再度口を開く。 「帰るか」 「……うん」 それだけは、どうにか答えることができた。 Back Menu Next |