滴り落ちる紅。
 規則正しく落ちる雫。
 紅く染まる左手首。
 断続して痛む傷。
 鼓動と共に遠くなる意識。
 翳る視界と破滅に向かう快楽。
 トク……トク……トク……トク。
 カウントダウンにも聞こえる、自らの鼓動を感じながら眼を閉じる。
 力が抜け落ち、体が床に倒れた。
 大きな音。しかしそれは壁を隔てたような曖昧さ。
 痛みもなく、私は他人事のようにその音を聞いていた。
 闇の中。その心地良い感覚に、自ら意識の手綱を放す。
 昏い海の底に沈む瞬間、誰かが、自分の名を呼んだ気が、した。



NOIR No.4



「……きろ……きは。……おい、秋葉」
 その声に眼が覚めた。
 反射的に上半身を起こし、左手を見る。
 春夏秋冬昼夜問わず、入浴時以外常に身に着けている、白いリストバンドが眼に留まる。
 その白が、紅く染まっていないことを確認して、私は安堵のため息を吐いた。
 痛みは無い。鼓動の響きも、聞こえない。
「妙な夢でも見たか?」
「景兄さん……」
 低血圧で朦朧としていた中、そう問いかけられてはじめて、私はそこに兄がいたことを認識した。
「何でもない……いつもの、夢だから」
「ああ、あれか。前に言ってたな」
 いつもの夢。それはいつからか定期的に再生される、荒野を走る機関車の夢だ。
 昨日も見た夢。何故か兄が運転手をしていて、自分以外に乗客のいない奇妙な旅路。
 京子も夏野も、そして遠藤さえいない最果ての荒野。
 けれど、
(また……私、兄さんに嘘をついた)
 妙な夢を見るのは本当だ。けれど、今し方見た夢は荒野の情景ではなかった。
 私が見ていたモノは、そんな穏やかな孤独ではなかった。
 再度、左手首のリストバンドが眼に留まる。その下にあるモノが、先ほど見た悪夢の象徴だった。
 何故、兄に嘘を吐いたのかは判らない。
 最近、良く昔を思い出す。だから、過去に通じる言葉を口に出したくなかったのかもしれない。
 けれど彼は私の嘘に気付いていると思う。
 何故なら、『いつもの夢』は奇妙ではあるけれど、決して恐怖を伴う悪夢ではない。
 だからうなされる筈が無い。ならば、夢の内容を知っている兄が不審に思わないはずは無い。
 けれど兄は何も言わなかった。
 気付いていないのではなく、気付かない振りをしているのだろう。
 理由は考えるまでも無い。昨日の喫茶店での出来事。曖昧なまま誤魔化した、私。
 今も、同じだ。だから無理に聞き出そうとはしないのだろう。
 気遣われている。考えて、深く息を吐いた。
(私、何をやってるんだろう)
 その独白に、目の前にいる人は答えてはくれない。
 当たり前の事実が、今はどうしても悲しかった。




「――遅い」
「そうね」
 何度目かの夏野の呟きに、同じように何度目かの変わらない言葉を返し、私はベッドの脇にある置時計を眇めた。
 シンプルな細工を施された黒い長針と短針が、それぞれの居場所を指し示し、現在という概念を淡々と主張している。
 短針はVという文字に届かぬ手を伸ばし、長い影は少しだけズレながらも、それに覆い被さるようにVとWの間に歩を進める。
 そんな回りくどい表現を頭の中に思い浮かべながら、現在の時刻を読み上げた。
「三時十七分。で、集合時間って何時だった?」
「一時半。ざっと百七分前」
 この遣り取りも実のところこれで四度目。
 三度目は九十分前で、二回目は七十分前。一回目は三十分前……徐々にではあるが繰り返す間隔が短くなってきた気がする。
「全く……アイツら一体何やってるんだ?」
「大方、二人でデートでもしてるんでしょう」
 気の抜けたような声で答えて、二人で揃ってため息を吐きながら、おもむろにシャーペンを走らせる。
 彼の動作にやる気というものは、欠片も読み取ることは出来ない。アチラからしても同じだろう。
 ただの惰性だけで構築されるその音は、単調を通り越して陰鬱だ。
 何故そうまでして身の入らない勉強などしているかというと、それにはきちんとした理由があった。
『明日みんなで勉強会しない?』
 そう、昨日京子が言い出したこの言葉に従い、今、私たちはここにいる。
 こことは私の自室である。部屋の中央に置かれた背の低いテーブルに対面で座りながら、二人は暇を持て余していた。
 クッションが珍しく仕事をしているというのに、学生の本分たる勉強を私たちは惰性に任せている。
 それでもまだ、私達はマシと言えるだろう。二人で退屈に悶えながらもシャーペンを動かしているのに、発案をした肝心の京子が姿を見せないのはどういう訳だ。
 それを彼女に問い質せば、どういう回答が返ってくるかはなんとなく予測できた。
『ん? 気を利かせただけだけど?』
 その時に浮かべる表情の細部まで正確に思い描けそうな予感に、またもやため息を吐く。
(最近、ため息を吐く機会が多いわね……)
 その事実だけでも、ため息が吐きたくなる。
 もし、一つため息を吐くと一つ幸せが逃げる、という迷信が真実なら、私の幸せは既に底をついてるに違いない。
 そんな想像を思い浮かべて、それがあながち間違っていないことに気付いた。
(幸せなんて、もうずいぶん前に先払いしちゃったっけ)
 なら、いくらでもため息を吐いても良いだろう。帳尻は合っている。
 支払った分を取り返して何が悪いというのだ。
 半ば開き直りの様にそう思った。人が聞けば、それは自虐だと呆れるだろう。
 ――けどどうせ……失うものなど、もうありはしないのだし。
 その時、思考の世界に埋没していた秋葉の意識を、唐突に呼び戻す声が響いた。
「え? 夏野君、何か言った?」
 慌てて聞き返すと、夏野は何故か苦笑いを浮かべた。
「うん、言ったよ。聞いてなかった? 栩野さん」
 そう、悪戯っぽく笑い夏野は言葉を続ける。
「栩野さんってあれだよね。前から思ってたけど、一度何かに熱中したり、考え事しだしたりすると周りが見えなくなるタイプ。夜に本とか読んでると、知らない間に夜が明けてるってことない?」
 そう言って、部屋の隅に置いてある重厚な本棚にちらりと眼を向ける。
「うっ……」
 ずばり見事に当てられて、私は小さく身を竦める。心なしか顔も赤くなっている気がした。
「はは、まあ良いけどね。その方が栩野さんらしいし」
 先ほど、無気力にシャーペンを走らせていた時とは違い、夏野はこころなしか楽しそうだ。
 こちらの反応が面白かったのだろうか。まだ、少し口元が笑っている。
 その反応がコチラには面白くなくて、私は話を強引に戻すことにした。
「で、さっきなんて言ったの? 聞いてなかったのは謝るから、もう一度言ってよ」
 また微妙に表情に出ていたのだろうか。怒っていると勘違いしたのか、夏野は慌てて口元を引き締めた。
「うん……栩野さんに聞きたいことがあってね」
 言い出し難い事なのか、夏野にしては歯切れが悪い。
 その態度だけで、彼が何を言おうとしているかを理解した。
「昨日、どうしていきなり帰ったの?」
(やっぱり、こうなりますか)
 私は、またもため息を吐く破目になるのだった。




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