「栩野さんって、どんな色好きなの? やっぱり白とか?」
 高校一年生になって暫くして、そんな質問をされたことがある。
 それなりに話すようになった友人の言葉に私はこう答えた
「まあ、シンプルなのは好きよ。一番ではないけれど」
「へえ、一番は?」
 途中で止めると、その少女は身を乗り出して続きを促す。
 興味深そうな顔を見て、自分でも意地が悪いと思える笑いを浮かべながら言った。
「血の色」



NOIR No.5




『なんで昨日、声もかけずに帰ったのよ』
 今朝、京子が教室に入ってから荷物も置かずに私の席に来て、最初に口にした第一声がそれだった。
 かなりお怒りのご様子らしく、腰に手を当てて、椅子に座る私を見下ろす京子には、剣道有段者に恥じぬ強烈な迫力があった。
 しかし、だからといって本当の事を言うことを話すのは気が進まなかったし、京子に嘘を吐くつもりは無かったので、素直に京子にその旨を伝えると京子は渋々ながらも強行に聞き出そうとはしなかった。
『大丈夫か? お嬢、顔色悪いで?』
 二時間目の休み時間には遠藤が来た。
 意外な事に遠藤は昨日の事を聞いてこなかった。
 ただ、妙に気遣っていたので、こちらを心配していることは確かなようだ。
 何も聞かないのが、彼なりの配慮だったのだろう。
 ストレートに物事を伝えるのが特徴の遠藤にしては意外な気遣いであるが、正直、有難いと思った。
 それから、放課後まで二人は私に問い詰めるようなことは無かった。
 そして、夏野はいつもの様子と全く同じだった。気にならない筈は無いが、それを悟らせない彼の平常心は大したものだと思う。
 けれど、私はこのまま夏野がなかったことにする気は無い事を予想していた。
 大方、誰もいない時にでも二人で話すつもりだったのだろう。
 もしそういう機会がなかったとしても、その時は私を遊びにでも誘えば良いだけのことだ。
 そして、その機会が突然出来たのだ。
 夏野がこの話題を出すのは、当然を通り越して必然だろう。
「あの……栩野さん?」
 そんな風に思考を巡らしていると、夏野が突然声をかけてきた。
 どうやら、またも周りを置いて行ってしまったらしい。
 夏野が行った通りだ。自分は深く考えながら会話する事ができない。不器用だと思う。
 夏野の声には不安の響きがあった。自分の沈黙に何か不吉な要素でも感じ取ったのだろうか。
 もしかしたら、夏野がした質問で、私が気分を害したとでも思ったのかもしれない。
(そんなこと無いのに)
 そう、心の中で呟きながら苦笑を浮かべる。杞憂を取り除くべく、私は口を開いた。
「ううん、なんでもない。それより、昨日の話だったわね」
「うん」
 短い相槌と共に、夏野は姿勢を正す。それを見ながら私は言葉を続けた。
「なるほど……ね」
 一通り、昨日の顛末を話し終えた後、夏野は一言そう漏らした。
 その一言を境に、沈黙が部屋に満ちる。
 昨日の事は殆ど話した。話さなかった事と言えば、喫茶店での会話くらいだ。
 それは秋葉自身のプライベートなことで、夏野には関係はない。だから話す必要は無く、故に、私にはこれ以上話すことが無い。
 その為こちらからは口を開かず、夏野は何か考え事をしているのか、言葉を発しようとしない。
 沈黙は数十秒間続き、そして、突然口を開いた夏野の言葉によって破られた。
「もう、絵は描かないの?」
「……え?」
 その突然の問いは、正しく不意打ちだった。鏡をみればキョトンとした表情を浮かべているであろう。
(何を考えていたのかと思えば……)
 予想外と言えば予想外だ。
 確かに過去と完全に切れてはいないが、それでも希望を抱けるほど現実を知らない訳では無い。
 まだ未練があったとしても、再び始めようと思う筈も無い。
 夏野は、私が絵に対する夢を、棄てるかどうかを悩んでいるとでも思ったのか。
 けれど、彼の思考は外れている。そんな迷いは、あの時跡形もなく焼却されたのだから。
 それ以来そんな迷いなど一度たりとも抱いたことは無かったし、思いつきもしなかった。
 今の私に残っているのは、炎と痛みの記憶だけ。だから、私は夏野の問いに冗談のように気軽に、そして端的に答えた。
「ええそうね。あの子は死んだ訳だし、ここにいるのは全くの別人だから」
 言って、なるべく明るく、そして少し自嘲的に私は笑う。
 そう笑い飛ばして、この話題を打ち切るつもりだった。
 が、夏野は予想外の行動に出た。
「それは、違うんじゃないかな」
 口調は、飽くまで静かなものだっただろう。けれど、普段の彼からは想像できないほど強い声音だった。
 どちらかの手が触れたのか、シャーペンがテーブルの外に落ちる。
 何故かその小さな音に私は驚き、慌てて彼に視線を向けた。
 視線が交差する。夏野の瞳に宿る感情の断片を垣間見る。
 それは、たぶん純粋な怒りと悲しみ……心の底から他人を想う真摯な瞳だ。
 何故なら、夏野がそんな目を自分に向ける理由を、たぶん私は知っている。
 だから、慌てた。
 彼がこの先、何を告げようとしているか分かってしまったから。
 それは言わせてはいけない。いくら彼が親しい友人だったとしても、自分は許可しない越境を決して許せないだろう。
 けれど、きっともう、何もかもが遅すぎたのだ。止められなかったのは間に合わなかったからじゃなくて、大切な事を後回しにし過ぎた私自身の責任で。
 結局、彼は善意と他の何かによって、その国境を越えてしまった。
「授業で栩野さんの絵を見たよ。凄かった。あれで死んでるなんて言わせない。君に弱音は似合わないよ」
 その言葉は、真摯な感情と共に吐露された夏野の本心だっただろう。
 真摯な感情が、私の心の中に染み渡る。
 が、その言葉が触れた場所は私の――逆鱗だった。
 視界が暗くなる。静かな感情が脳裏に行き渡り、体の熱が冷えて消えるような感覚が全身に広がる。
 激怒している自分を自覚した。ある意味まっさらの滑らかな思考で、言葉を剣にしようと決めた。
「ずいぶん、勝手な事言うのね。……似合わないって何? なんで夏野君にそんなこと言われなくちゃいけないの? 貴方にそんな権利が? 貴方に私の何が解るの? 無関係に、勝手に人の事を決め付けるのは楽で良いわね。けど下らない妄言はほどほどにしてくれる?」
 自分でも酷いと思えるその言葉に、夏野は驚いたような表情で硬直する。
 それもそうだろう。相手のことを想って言った言葉なのだ。その言葉が相手の逆鱗に触れた事になど気付く筈が無い。
 今まで読んできた幾多の小説でなら、このシーンで主人公は泣き崩れる。溜め込んでいた感情が彼の言葉で一気にあふれ出して、大声で泣き出す。
 もしかしたらその感情を彼にぶつけるかもしれない。そして、逆に諭されて再び失った夢に向かって踏み出すのだ。
 最後は夏野と結ばれてハッピーエンドだろうか。
「本当に、下らない」
 あまりにも気分の悪い想像だ。そう、吐き気がするほどに。所詮、現実とフィクションでは差がありすぎる。現実感が無さ過ぎて想像さえ難しい。
 夏野からすれば理不尽に逆上されたようにしか思えないだろうが、こちらとしては、それは正当な怒り。
 彼は私の事を理解していない。当然だ。夏野は夏野であって私ではない。
 他人である夏野にこちらの心の裡が解る筈も無く、他人である夏野が簡単に触れて良い筈が無い。
 ましてや、勝手な思い込みを自分に当て嵌められるなど論外だ。
 夢物語に出てくるような単純な思考など、現実の人間は持ち合わせてはいない。
 夏野は逆鱗に触れた。だから私は激昂して彼を糾弾し、なじった。
 売り言葉に買い言葉というやつだろう。どちらも冷静でない事など十分すぎるほど解っていた。
 ――だから、夏野がこう言ったのは必然だったのかもしれない。何故なら、その言葉は彼の本心だから。
「関係あるよ」
 呟くように言った夏野に対し、私は冷然とも思える口調で言う。
「何の関係? 私は思いつかないわ。言えるものなら言ってみなさい」
「言ってみろ? 君は、知っていると思ってたけどね。そんなに僕の口から聞きたいなら言ってやるよ」
 その言葉に不吉な予感がした。……正確には、不吉な予測が働いて、私は慌てて立ち上がる。
「ちょ、ちょっと……こんなところでいきなり何を言うつもり――」
 夏野の言葉を遮ろうと私は口を開きながら近づくが、夏野は構わず続きを言い放った。

「僕は君のことが――栩野秋葉のことが、好きなんだよ」

「何、言ってるの」
「何を言ってるように聞こえる?」
 手が震える。
 己の浅慮さに眩暈。バランスを崩した。
 ああ、この展開だけは、一生避けなければならなかったのに。
「――っ」
 危うく床に倒れそうになった私の身体を、素早く夏野が抱き止めて難を逃れた。
 思わず安堵のため息を吐くが、今の自分達の状況を思い浮かべて、さらに眩暈が強くなる気がした。
「離して」
「今離したら、倒れるんじゃないの?」
 拒絶の言葉を放つが、夏野には全く効果が無い。
 それに、夏野の言うとおり、血の気の引いた身体は思うように動かなかった
 小さい頃から丈夫な方ではなかった。直ぐに貧血を起こす低血圧だったが、よりによってあんな言葉に反応して眩暈を起こす身体を呪いたくなる。
 が、それでも男女二人が抱き合っているような状態はまずい。
 大声を出そうとも思った。今、兄はこの家にいる。声を上げれば即座に駆けつけてくれるだろう。
 けれど、それを実行することは出来なかった。正確に言えば、それだけは嫌だった。
 形だけにせよ、男と抱き合っている様なこの状況。そんなもの兄には見せられない。想像するだけで気分が悪い。
 そんなのは、イヤだ。
 結局、床に倒れてでも、彼を振り払うことにした。目線を上げると、目と鼻の先に夏野の瞳。
 互いの目と目が合う。夏野の吐息が僅かに聞こえ、真剣なその眼光に抵抗の力が抜けていくのが解る。
「本気で、言ってるの?」
「嘘を言ってるように見える?」
 全く迷いの無いその回答に、私は俯きながら唇を噛む。
「離して」
 もう一度、今度は夏野の眼を見て、先ほどよりも強い口調で言う。
すると、夏野はこともなげにこう答えた。
「嫌だね」
 身勝手な口調で理不尽なことを言われているのに、何故か抵抗する気が消えた。
 それは、夏野の目のせいだ。強い意志が満ちたその目からは邪な感情など一片も見当たらない。
 夏野はただ真摯な思いで私を見つめているだけだ。
「栩野さん。答えてくれないかな」
「……」
 一体何のこと? と、答えることが出来ればどれだけ楽だろうか。
 彼が何を言っているのかは理解している。が、この問いに答えることは、今までの全ての関係が崩れることだ。
 夏野のことが嫌いな訳では断じてない。しかし、ここで本心を答える事は彼を拒絶することだ。受け入れることは出来ない。
 ただの喧嘩なら良い。関係の修復は可能だし、最悪、修復不可能になってもそれは互いが己を貫き通した結果だろう。
 けれど、これは違う。
 望まない形で親友と決別する事になるからだ。そして、その別れには何の意味も無い。ただの成り行きだ。だから、私は答える事が出来なかった。
 それに修復不可能になるのは、私と彼だけではない。それだけならば、諦める事も出来ただろう。
 けれど、現実は違う。京子の泣き顔が頭を過ぎり、私は言葉を奪われた。
「完全に拒絶できないなら、守れないなら、後は奪われるだけだよ。……こんな風に」
 そう言うと夏野はゆっくりと私の顔に近づける。
「ちょっと、何を……!」
 私は避けようと身を動かすが、バランスを崩した体勢で抑えられている状態では思うように動けない。
 抗議の言葉を口にしたが、言い切る前に彼の唇がこちらに届いた。
 柔らかい感触が唇広がる。それとは逆に痺れるような痛みが胸に走り、とたんに息苦しくなる。
 しかし、驚くべき事に嫌悪感は、ない。
 それどころか、淡い恍惚感のような感覚が身を包み、息苦しささえも心地よい。
 けれど、その瞬間脳裏に映ったのは、人は目の前にいる彼では無くて――。
「止めて!」
 全ての感覚を振り払って、私は夏野を突き飛ばす。
 震えて力の入らない体は、バランスを保つことが出来ず後方に倒れた。
 幸いというべきか、突き飛ばした反動によって柔らかなベットにぶつかり、怪我をする事はなかったけれど。
「っ……痛いね」
 目の前には尻餅を着きながら腰を押さえている夏野。
 私は唇を手の甲で拭った後、目の前にいる人を感情に任せて睨みつけた。
 すると、彼は突然困ったような表情を浮かべ、一言、告げた。
「ごめん……」
 何故いきなり態度が変わったのかと思ったが、謝る夏野の顔が歪んで見えて、自分がどうなっているのかを悟る。
(わたしが、泣いてる?)
 涙なんて、とうの昔に枯れたと思っていた。
 たかがキスされたくらいで泣いてしまうなんて、思っても見なかった。
(弱って、いる)
 ここ数日、自分は大きく揺らいでいる。だからこそ、こんな事態になっているのだ。
 けれど、そんな事はこの際どうでも良い。
 私は、目の前で手を差し伸ばしてきた夏野を再び睨み、静かに言った。
「帰って」
「でも……」
 拒絶の言葉に、射し伸ばした手を止め、夏野は何かを言おうとしたが、そこで後ろから唐突に声が響いた。
「――それくらいにしとけよ」
 驚いて夏野は振り返る。
 私も視線をずらし、部屋のドアに向ける。
 そこには、私の兄……栩野景史の姿があった。
「妙に騒がしいと思って様子を見に来れば……人の家族に何をしている?」
 冷静に、しかし敵意を隠さないその口調に夏野は怯む。
 私でさえも寒気がするほどに、兄の口調はひたすら冷たかった。
 これなら、南極の極寒の海の方がまだましと言えるほどに冷淡な表情をしながら、ゆっくりと夏野に近寄る。
 一歩下がりながら、私の方を見る夏野。
 その夏野に私ももう一度言った。
「今すぐ、帰って」
 たぶん、今の私の声は兄の声に良く似ていたと思う。
 今度は完璧な拒絶に、夏野は頭を振り荷物を纏める。
 彼は無言のままドアまで行ったところで、振り向かずに一言、ごめんと言って出て行った。
 夏野が消え、自分と兄だけが残った部屋に、気まずい沈黙の帳が下りる。
 最近こういう状況が多いな。と、私は内心苦笑しながら、ドアの脇にいる兄を見て、言った。
「ありがと、景兄さん」
 もう涙は止まっている。感謝の言葉も震えずに言うことが出来た。
 けれど。
「何があった?」
 昨日と全く同じ兄の言葉。
 普段の私なら、その問いには答えないだろう。自分の内心を話すのは好きではない。
 関係がないと判断したなら、例え親友でも話さないのだ。
 今の出来事は私と夏野の問題で、兄は直接的には関係がない。
 しかし、もう流石の私も、限界だった。
「キスされちゃった。意外と、気持ち良いものなのね」
 あはは、と自嘲的な声が勝手に漏れた。
 正直、予想外だった。無理やりの口づけ。それに嫌悪を感じなかった事で気がついた。
 私は本当に夏野が好きだった。そして当然のように、それは恋ではなかった。
 だから、こんなカタチで私たち全員の関係を白紙に戻さなければならないのが、悲しかった。
(ごめん、京子……)
 私はもう薄氷を踏み抜いてしまった。砕いたモノの尊さに胸が疼く。
 あの子は泣くかもしれない。けれど、私にはもう道が残されていないのだ。
 やらなければならない事を、本当にやりたくないと思ったのは生まれてはじめてだった。
「アイツのこと、どう思う」
 曖昧な言い方のその問いに、私も自らの気持ちを曖昧に、そして事実として答える。
「嫌いじゃないよ」
「そうか」
 彼はそれ以上、何も言わなかった。


Back   Menu   Next

inserted by FC2 system