「景兄さんは、神様っていると思う?」
「いない」
「どうして、そう思うの?」
「そんなもの認めたら、俺達は運命だか何だかに踊らされていることになる。百害あって一利無しだ」
「なるほど、景兄さんらしいね」
「お前はどう思うんだよ」
「私?」
「ああ」
「私は、もし神様がいたとしたら」
「したら?」
「殺して、やりたい」
NOIR No.6
「おはよ。昨日、どうだった?」
次の日、教室の扉を開いた私に向かって、京子がにやけながら言った第一声がそれだった。
そういえば……と、昨日のそもそもの発端が目の前のにやけ顔であることに今更ながら私は気付き、急に頭痛を感じてため息を吐く。
「ええ、……お陰で、色々あったわ」
「え? ほんとに何かあったの?」
「後で教えてあげる。それよりも」
意外そうに、そして少し不安そうに聞いてきた京子の問いには答えず、私は言葉を続ける。
「頼みたいことがあるの。今日の放課後、空いてるかしら」
そう、やらなければならない事がある。
彼女と話しながら浮かべた私の笑みは、きっと罪人が浮かべるものだっただろう。
目の前の彼女を、傷つけなければならない。
木枯らしが吹く。
もう本格的な冬に入ろうとしているこの時期は、制服姿だけではとても寒い。
私は本来校内では着てはいけないことになっているコートを身に纏い、長いマフラーをつけている。
コートの色は深紅。膝を隠す程度の長さで、両肩から背中の半ばまで降りているマフラーは漆黒だ。
紅と黒というのは派手な取り合わせかもしれない。できるだけ落ち着きを装ってはいるのだが。
そんな格好で校舎の壁に寄り掛かりながら、何もつけていない白い手に、息を吹きかける。そして、かじかみそうな両手をこすり合わせた。
そうしてこの場で待ち続けて五分くらい経ったところで、待ち人が校舎の角から現れた。
「ごめん、少し遅くなったよ」
その待ち人――夏野佳人は、上がった呼吸を整えながら言った。どうやら走ってきたらしい。
今日一日、夏野とは一言も言葉を交わさなかった。ここに呼び出すときは書置きを彼の机に残した。
『放課後。南棟の校舎裏』
そう、たった一行書かれただけの名前さえない簡素な手紙。
けれど、見ようによっては告白をする為に出したラブレターにも見える書置きだったけれど。
無論、そんな訳がないのだった。
「もちろん、昨日のこと……だよね」
夏野の問いに、無言でコクリと頷く。
そして、夏野の前までゆっくりと歩いて、
――パンッ。
左手で、思いっきり平手打ちをしてやった。
叩いた手がジンと痛む。思ったより強い力が出たことに、私は軽く驚いた。
(結構戻ってきてるのね)
左目と同様にガラスによって引き裂かれた神経は、繋がりはしたもののほぼ全ての握力を失ってしまった。
ずっとリハビリは続けているので、事故当時に比べれば驚くほど回復していた左腕。
けれど認識以上に力は戻ってきているらしい。自分自身で気付けなかったのは、無意識のうちに庇っていたからかもしれないけど。
でも、かつての利き腕の回復にも大した感慨はない。必要ないのだ。
回復の兆し。もしかしたら再び追えるかもしれない昔日の夢に対しても、思う事は何も無い。
――もう、筆は執らない。なら、右手だけでも十分やっていける。
それが、本心。私自身の、嘘偽りのない本当の答えだ。
そんなことを考えながら、秋葉は目の前に立つ夏野を見て、言った。
「昨日の事は、これでチャラにしてあげる」
その言葉に、夏野は驚いたようにこちらを見つめる。
「良いの? 僕は思いっきり罵倒されると思ってきたんだけど……」
その言葉には首を振った。こうなってしまった以上、原因など瑣末な事なのだから。
「そのことはもう良いの。今日呼び出したのは、もう一つ言うことがあったから。そして、こっちの方が本題」
「……ああ、わかった」
こちらの言葉に、夏野は緊張した面持ちで姿勢を正す。
深呼吸をして鼓動を落ち着ける。実のところ、緊張しているのは今から相当酷い事を言わねばならない私の方だ。
だが、覚悟を決める。そうしてもう一度深呼吸をして。
「ごめんなさい。私は、貴方と付き合うことは、できません」
そう言って、勢い良く頭を下げる。
たっぷり三秒間下を向いた後頭を上げて、夏野を見る。
すると、夏野は苦笑しながら秋葉の方を悲しげに、そして優しげに見つめていた。
「うん……解ってるよ。いきなりあんなことして、訴えられたって文句言えないんだ。栩野さんが心を痛める必要は無いよ。謝るのは、僕の方なんだから」
そう言って、夏野は頭を下げた。
けれど、その言葉に私は。
「違う、夏野君。昨日のことは、許した。だから、私が頷けない理由はそれじゃない。それは、違うの」
私は言葉を止める。
ここからが本当に覚悟が必要な時間だ。
夏野は勘違いしている。自分の行為が招いた結果だと思って、仕方が無いと自分に言い聞かせているのだ
けれど、その理由は理由にはならない。違うのだ。夏野を拒否した理由は他にある。
それを言うことは残酷な事だ。けれど、私は、栩野秋葉はそれを口に出さねばならない。
気付いていながらこれまで欺き通したツケを、ここで払わなければ、私はここから進めない。
そんな自分勝手な理由で、彼の彼の心に剣を向ける。
「夏野君、理由が違う。私は、私には……」
だからせめて、彼の瞳から目を逸らさず、告げた。
「私には、好きな人がいるの」
「……それ、ほんと?」
夏野は唖然とした表情を浮かべながら聞いてきた。その問いに、コクリと首を振ることで肯定する。
当然だと思う。こんな漫画の一場面のようなシュチエーションで、漫画のセリフのような振られ方をしているのだ。疑いたくて、当たり前だろう。
けれどこれは真実だ。
夏野を振るために用意した嘘でもなければ、悪趣味な冗談でもない。
誰にも……親友である皆にも悟られないように隠してきた事実。
京子は薄々気付いているかもしれない。けれど、彼は間違いなく気付いていない。
「誰か聞いても良いかな?」
「夏野君も、知ってる人よ」
そして、私その人物の名を告げた。
「私が好きな人の名前は、栩野景史。戸籍上、私の兄に当たる人よ」
私のそのありえない告白に、夏野は大きくよろめく。
右手で額を押さえて、信じられないといった表情でこちらを見つめている。
「え、それ、ほんとに?」
先ほどと似たセリフ。
ただし、その言葉に込められた意味合いは全く違う。
「本当よ。一片の嘘偽りもないわ」
これは予想していたのか、夏野は大きくかぶりを振って次の質問をしてきた。
そう、彼にとってはそれらは重要なことではない。
夏野が本当に問わねばならない事、それは、
「いつから?」
「私が、眼鏡をかけ始めたときから……かな」
私の答えに夏野は大きくため息を吐いた。
そう、眼鏡。いや、正確に言えば眼鏡ではない。
左目が失明して義眼を入れた。精巧に作られてはいるものの、それでも良く見れば偽物であることが容易に判断できる。
イヤだった。他人に見られたくなかった。だから、度の入っていない眼鏡を使って誤魔化してきたのだ。
そして、それをはじめたのは事故のすぐ後……夏野と出会ったころ。
今はもう遠い昔の思い出になってしまったけれど、夏野と出会った切欠が、それだった。
それは、つまり。
「最初からじゃないか。……そうか、僕は、ずっと一人で踊ってたんだ」
自嘲的な夏野の言葉にも、私は何も言わない。いや、言えない。
彼の思いがいつ始まったのかはわからない。けれど、私はそれ以前から景史しか見ていなかった。
叶うはずの無い恋。それが自分が演じていた役割だと認識した夏野の心境は、まさしく悪夢に違いない。
だから、私には何も言えない。真実を否定することはできない。
けれど、諸悪の根源である自分に、夏野に慰めの言葉をかける資格は無い。
自分が彼にしてきた仕打ちを考えれば、昨日の事がどれほどのものだというのか。
「話はもう、終わりかな……? 正直、これ以上衝撃は受けたくないんだけど」
心底疲れたような夏野の声に、罪悪感で押し潰されそう。それでもそれを表す事だけはしなかった。
「うん、もう何もないわ。ゴメンね……嫌な話ばっかりで」
「いや、栩野さんは悪くないよ。正直に言ってくれてありがとう。じゃあ、僕はもう……行くから」
そう言って、夏野は立ち去った。重い足取りだった。
誰もいない校舎裏の校庭で、一人壁に寄りかかりため息を吐く。あぁ、まだ終わらないのと、小さく呟いて。
すると、それが聞こえたかのようなタイミングで、校舎の陰から人影が現れた。それは、
「ちょっと……これ、どういうこと? 説明してよ、秋葉」
そこには、竹刀を入れた袋を右手に持った、川澄京子の姿があった。
ここに京子がいるのには、理由がある。
今朝、私は京子に頼み事をしたのだ。
『放課後、人と会う約束がある。相手は男だけど心配は無いと思う。けど念の為に近くにいて欲しい』
それは要約すると、そんな意味の頼み事だった。
「そん、な……」
そして今、京子には、全て話した。
私の失明は交通事故が原因で、私という存在を全て奪った事。
義眼を入れたのは三年前だということ。
自分は画家を目指していて、天才と呼ばれていた事。
栩野というのは本名ではなく、本は樋坂という苗字で、両親は事故で他界したために栩野の家に引き取られたこと。
そして――私は栩野景史のことが好きだということ。それは、家族愛などではないということ。
それらを話してから、一昨日、急に公園から立ち去った理由と、昨日の夏野との口論。
最後に、先ほどまでここで話していた内容。
口づけされたことまで全部話した。
その結果がこの反応だ。当たり前だと思う。
こんな経験を持っている人間は少ない。
探せばいるかもしれないが、どう考えてもマイノリティだ。
それが友人の中にいて、それを突然聞かされては驚く以外に他はない。
「樋坂、秋葉。昔テレビで見かけたことがあるわ。けど……けど! それが、よりによってアンタだなんて!」
取り乱す京子を見、私の裡にまたもや罪悪感が沸いた。
今の話の、どれ一つ目の前の親友には話していなかった。
私はプライベートを人に晒す事を極端に嫌う。
京子はそれを知っていた。が、それでも親友として、話して貰えない辛さくらいは予測がつく。
「それに何? いきなり告白されてキスされた? 何平然と言ってんのよ! 自分が言ってることの意味、本当に解ってんのッ!?」
「解ってる。けどもう許したから、良いのよ」
激昂している京子を宥めるように、努めて静かに言う。
すると、京子は目に険を浮かばせて私の胸倉を掴んだ。強い視線に身が竦むのを感じる。
これが彼女の――本気の眼か。
「許した? そんな簡単に許して良い訳がないでしょうが! あんた今までにキスしたことあんの!? ファーストキスだったんじゃないの? 本命が、好きな人が近くにいたんでしょう!?」
おもむろに京子は袋から竹刀を抜き放つ。
「秋葉が何もやらないなら、わたしがやってやる。親友がこんな目に遭わされて黙ってられるかッ……!」
吐き捨てて、京子は夏野が立ち去った方向を睨む。
走り出そうとした瞬間、私はすんでのところで京子の前に立ち塞がった。
「……止めて、京子。貴女にそんなことさせたくて、ここに呼んだんじゃないの。それに、まだ話は終わってない」
「まだ……何かあるの?」
何か不吉な予測が働いたのか、不安そうな声音でその足を止めた。
「今度の事で、私と夏野君の関係は壊れたわ。――それは、私たち四人の関係も終わったという事でしょう? だから」
ゆっくりと、噛んで含めるようにそこまで言うと、心の中で整理をする。
(そう……私たちは壊れた。たった四人のグループでそのうち二人は修復不可能。それだけでも致命的なのに、これは京子も無関係じゃない。そう、何故なら京子は)
「京子……だからね。もう、私に気を使う必要は無いの。私と夏野君はもう無関係だから……もう、京子は好きにして、いいのよ」
その、主語が見当たらない、一見抽象的な言葉を聞いた瞬間、京子の表情が凍りついた。
「あ、あんたどこまで知って……」
搾り出すような声で、彼女はそんな言葉を漏らした。
震える手が大事な竹刀を取り落としたことにさえ気付かないほどの動揺。混乱した瞳。先ほど怒りとともに走り出そうとした同じ目とは思えないほど弱々しい、その光。
哀れなほどに狼狽している彼女の様子を見なくても、自分が口にしていることの残酷さを理解している。
けれど、これは言わなければならない事。夏野も京子も大切な親友だ。だから、例え後に憎まれても、もうこれ以上彼らを欺くことは、できない。それはしてはいけない事だ。
「全部、知ってたわ。……京子が好きなのは、夏野君だったんでしょう?」
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