「幸福って何だと思う?」
「幻」
「それを即答するか? ……お前って、結構捻くれてるよな」
「仕方が無いでしょう。こんな性格なんだから。それより、景兄さんは何だと思うの?」
「俺?」
「うん」
「砂の城」
「それを即答? それじゃ、人のこと言えないわね」
「ほっとけ」



NOIR No.8



「おかえり」
 玄関のドアをくぐり、靴を脱いでリビングまで行くと、景史が今朝と同じように珈琲を飲んでいた。
 ちらりとこちらを向いてそう言った後、手に持っていた紙束に目を落とす。
 私が知っている限り、彼がここにいる時は必ず珈琲を飲んでいる。紅茶党としてはちょっと理解できない。尤も、それは向こうも全く同じなのだろうけど。
 一体何を読んでいるのかと近づいて見てみると、それは私には理解出来そうもない、高度な論文だった。いや、そもそも高度どうかも、自分では判断できないことではある。が、
「珈琲啜りながら読むものなの? それ」
 そう言って、ジト目で兄の顔を見る。
「珈琲を飲みながら何を読もうと俺の勝手。だいたいお前、それは一種の偏見だぞ」
「一般論よ」
 その言葉に、私は即座に切り返した。
 言葉の内に、暗に貴方は普通じゃないのよ、というニュアンスを込めて。
「それ自体が偏見だって言ってるんだよ」
 鼻で笑って再び手に持つ論文に視線を落とす。
 景史の言葉はかなり腹立たしかったが、反論できる要素がないので私は台所へ撤退した。
 コンロの上には直前まで暖めていたのか、まだ蒸気が漂っている料理鍋。
 その鍋に近づき、蓋を取る。そのまま蓋を台において淵の中を覗き込んだ。
 中には食欲をそそる香りを放つカレー。恐らく、母の作だろう。兄はこういうのはあまり作らないから。ちなみに、私は作るならシチュー派だ。
 空腹だったので棚から皿を取り出し、炊飯器からご飯をよそう。
 片方にご飯を寄せ、余った半分の空白にカレーを入れるのが、私がカレーを食べる時の流儀だ。
 私の流儀には妙に些細なものが割と多いらしい。けれど、改めるつもりは一切ない。
 カレーを入れた皿を片手に持ち、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出す。
 それらを持ってリビングに戻り、テーブルに並べ、中央の箸立てに無造作にさしてあるスプーンを取る。
 少し寂しいと思った。冷蔵庫の中から野菜を幾つか取り出し、皿に適当な大きさに切って盛り付ける。これで、即席サラダの完成だ。
 ドレッシングも同時に持ってテーブルに戻る。
 向かいに座る兄を見てみると、その前には奇麗に平らげたカレーの皿があった。どうやら既に夕食は済ましているらしい。
(何で、こんなところで珈琲飲んでるのかしら?)
 景史はいつも食事が終わると直ぐに自室に戻る。
 そして、何か用があるとき以外下には降りて来ない。つまり彼は、大抵の場合において外か自室かのどちらかにいる事だ。
 だから、ここでゆっくりしてる彼が妙に不思議だった。
「何で、こんなところで珈琲なんか飲んでるの?」
 つい思ったことを口に出し、言って直ぐに後悔した。こんな質問をしても、どうせ『どこで珈琲を飲もうが俺の勝手だ』とか言うに決まってる。
 私は、こんな下らない質問で彼が自分を見損なうのが嫌だった。
 が、帰ってきたのは、こちらの予想とは大きく外れた答え。
「お前を待ってたんだ。遅い」
「え?」
 そのあまりに予想外な返答に驚き、手に持っていたスプーンを取り落とした。が、今はそんなものに意識を割いている余裕はない。
「ど、どういう意味?」
 私は、その言葉の意味を測りかねて問い返す。心拍数が上昇するのを、一体誰が止められるだろう。
「お前、俺に話すことがあるだろ? それも色々と」
 思い掛けないその言葉に、一瞬動揺してしまった。
 それでも表面上は何とか取り繕って答える。
「何も無いよ。今日の景兄さん、変なこと言うのね」
 本当は話さなければならないことは山ほどあるのだが、どうしても踏ん切りがつかない。
 京子たちにははっきり言えたことを、何故兄には言えないのか判らない。けれど、この場はやり過ごすことにした。まだ、心の準備は出来ていない。遠藤の言葉が頭を過ぎったが、それでも今は無理だと思った。
 けれど、景史はそう簡単には、秋葉を逃がしてはくれなかった。
「単刀直入に言わないと、解らないか」
 小さく呟いて、珈琲を一口飲む。
 そして、私の目を見て、言った。
「お前、いつまで引き摺るつもりだ」
「――ッ」
 その、単刀直入過ぎる言葉に、私は痺れたように硬直する。それでも、答えられないものは答えられないのだ。頑として口を閉ざす私を見て、彼はため息をついた。
「はぁ。……おい、秋葉」
「何……」
 小さく最低限の言葉で答える。
 さながら今の私は警戒する小動物だろう。そんな私に頓着せず、彼は突拍子も無いことを言い出した。

「花火するぞ、今から」
「は?」

 私は、兄の頭を疑う前に、自分の耳を疑った。
(はなび……ハナビ……花火)
 はなびという音を何度も変換し、この状況に沿った単語を探そうとする。
 しかしはなびという音から変換できるのは、花火という単語だけである。最新の広辞苑がどうだかはしらないが、少なくとも私の脳内データベースには、それしか該当項目は存在しない。
 だから、今なんて言った? と、私が問い返したのは当たり前の反応だっただろう。
 すると景史はもう一度花火だと言った。
「お前は花火を知らないのか?」
 自分の耳を疑う訳にはいかない。だから問う。何故花火なのか。
 ついでに言えば、花火がなんであるかくらいは知っている。
「お前には花火をしてはならない戒律でもあるのか?」
 ふざけた物言いだ。
「今は冬です。花火をする時期じゃありません」
「いつ花火をしようと自由だ。季節など関係ない」
 私が口にしたのは道理のはずだ。なのに、彼は可哀想な子を見るように言う。
 ええい、その目で私を見るな。
「お前は偏見を持ち過ぎだ。脳が硬いぞ」
 流石に頭にきた。それで納得がいくわけもない。私は反撃に移る。
「大体、花火なんてどこにあるのよ。今から買いに行くとか言ったら、酷いわよ?」
 本気で酷い事をするつもりだった。けれど、彼はいきなり席を立ち、直ぐに戻ってきてその手には花火が握られていた。目が、これで満足か? と嘲うように曲がっている。
 告白しよう。殺意が沸いた。このやろうめと、乙女にあるまじき呟きが心に浮かぶ。
 いくら好きな相手だといっても、声に混ざる不機嫌さは隠し通せるものではない。
「何故私が行かなければならないの」
「ん、行かないのか?」
 私が頷くと思っていたのか、その目は本当に不思議そうで。
 だから、私は――。



 鋭い風がコートの隙を駆け抜ける。
 冷気が肌を撫で、その冷たさに身震いして手を擦り合わせた。
(寒い……)
 もはや本格的な冬になろうとしているこの時期。
 昼間でも冷たい北風が吹き、身を縮ませるこの季節。
 時間は午後九時を既に回っている。辺りはとっくに闇の帳が降り、その中で吹く風は一段と鋭利だ。
 コートとマフラーで武装しても、なおその上から染み渡る寒さに私は身を震わせる。
「行かないなんて言ってない」
 反射的に、そう答えていた。
(なんで、あんなこと言ったのかしら。……私って、やっぱり馬鹿かも)
 どんな詭弁を重ねようと、花火は冬にやるものではないし、また、それを考える事自体がおかしい。
 それなのに、解りきっていて自明の理にもほどがあるというのに――何故、自分はここにいるのだろう。
 隣を見ると、黒コートに身を包み、片手に季節外れの花火を持ちながら、寒さなど関係ありませんと言いた気な風情で、飄々と歩いている男の姿が目に映った。
(理不尽、だわ)
 一体何が理不尽なのかさえわからずに、それでも私は心の中でそう呟く。
 本当はわかっている。
 嬉しかったのだ。誘われたこと自体が。
 例えそれが季節外れの花火という暴挙であっても、反射的に同行を許してしまうほどに嬉しかった。
 その証拠に、これほど寒いにも関わらず、私の足取りはとても軽い。それこそまるで、小さな子供が花火を行くときにはしゃぐようなものだ。自分でも、単純過ぎると思う。それを理解してもなお、先を急く足を止められない。
 そして、また軽い足取りで次の一歩を踏み出して――。
「――ッ」
 転んだ。
 危うく道路に思いっきり転倒してしまうところだったが、寸前に景史が手を差し伸べたことによって難を逃れる。
 それが、自分の部屋で起きた夏野とのあの出来事と重なって、連鎖的にその後の展開までもが頭の中で再生された。
 つかまれた強く手を意識してしまい、顔が一気に赤く染まったのを知覚。
 瞬間的な事態に、私は慌てて体勢を整え、彼の手を振り払う。
 そうやってあたふたとしている私を、冷たい視線が見つめ、ボソリと言った。
「お前……さっきから、何馬鹿やってんだよ」
 その一言で、今度は反対にかちりと固まってしまう私であった。
(……調子が、狂う)
 空回りする私を、苦笑を浮かべながら見つめる視線には気付かないフリをした。



「やっと、着いた……」
「やっととか思ってるのはお前だけだ……」
 言葉のわりに疲れた声で入れられた突っ込みを無視し、ポケットからライターとろうそくを取り出す。
「じゃあさっさとやって帰ろうよ」
「何わざと嫌そうに言ってんだよ。口が笑ってるぞ」
「なんでもないわ。細かいことは気にしないの」
「お前、来る前滅茶苦茶細かかったじゃないか」
「黙りなさい」
「お前に指図を聞き入れる理由は無いな」
「あーもう! 景兄さんは男のクセに細か過ぎるのよ!」
「お前、それ偏見だぞ。立派な男女差別だ」
「女は男より偉いの!」
「何でそんなにテンション高いんだよ」
「うるさいわね。なんでもないの」
「『なんでもない』ってお前の口癖なのな……」
 いつまでも続く漫才のようなやりとりに業を煮やして、私は景史の手から強引に花火を奪い取る。
 そして、袋を開けると――、
「って、花火って線香花火なの?」
 そう、そこには線香花火がギッシリと詰まっていた。やけっぱちとも言える量である。
「ああ、そうだ。問題あるか?」
 いかにもこれが普通だろ? みたいな感じで答える景史。
 口を開いた私の目は、たぶん呆れ果てたものだっただろう。
「やっぱり、景兄さんはどこかズレてるのね……まあ、良いわ。私はこういうちまちました花火、嫌いじゃないしね」
 できるだけさらりと彼を貶しながら、袋の中から線香花火を取り出す。
 さらにろうそくに火をつけ地面に立てようとするが、一陣の風がろうそくの炎を一瞬にして吹き消してしまった。
 数度のトライを試みるが、狙い撃った様にことごとく吹きすさぶ風を前に、ろうそくを使うことを断念し、ライターで直接火をつけれる。多少扱う手が乱暴なのは、きっと風の妖精が悪戯をしているからに違いない。
 パチパチという音と共に眩く光り出す線香花火を眺める。
 数秒で、その線香花火の寿命は潰え、私は新たな線香花火を取り出した。
 同じ動作を繰り返すこと四度。綺麗ではあるが、どうにも面白くない。それは、自分一人でやっているからであることに気付き、線香花火の半分を後ろでぼうっと立っている景史に手渡した。
 なのに、彼は、
「ん、何で俺に渡すんだ?」
 心底不思議そうに言ってこちらを見つめる。
「何でって……一人でやっても面白くないわ。景兄さんも早くやろうよ」
「嫌だよ。何で二十歳も過ぎた良い大人が冬の寒空の下で、線香花火なんぞやらないといけないんだ。それはお前がやるんだよ。俺は後ろで見てるから」
 その、あまりの言い草に私は絶句する。
 いきなり誘っておいて自分はやらないとはどういうことだ。しかも冬の寒空でも花火を肯定したのはそっちじゃないのか。そもそも、良い大人は花火なんてやらないというのは立派な偏見である。
(さっきは、私に偏見ヘンケンって口うるさく言ってたくせに)
 内心で怒りと共につっこむが、実際に口に出すとまた言い包められるだけなので、結局私は一人で線香花火を続けることにした。袋から線香花火を一本とりだして火をつける。あまりに長く続くようなら一片に燃やしてやると、心に決めて。
 またパチパチと言う音と共に、線香花火は発行を始める。
 儚く燃えるその灯火を眺めてるうちに、妙に虚しくなって私はため息をついた。
(何で、こんなことしてるのかしら)
 線香花火は答えない。ただ淡く命を散らすのみ。




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