目の前で燃える大きな炎。
 油を多量に含むソレは、ほんの小さな火種だったにも関わらず、瞬く間に大きな炎となった。
 少女は目の前で燃え盛るソレを呆然と見つめる。
 その隣には少女よりそれなりに年上に見える青年。
 どちらも音を立てて燃え盛るソレを、ずっと見つめていた。
 炎が消えるまで、ずっと、見つめていた。



NOIR No.9



 花火を始めてから数十分が経った。
 消えては火をつけ、ともはや惰性のような繰り返しをしながら、それでも私は線香花火に火を灯し続けていた。
 しかし、私はもう線香花火を見てはいない。
 線香の火に重なって見える、過去の景色を見つめていた。
(そう、あれは確か――)



 交通事故だった。
 秋葉がコンクールの賞を取ったお祝いに、家族三人でディナーに行った帰り道。
 覚えている。都会にしては澄んだ空の高さとか、冷たい冬の匂いとか。
 下弦の月が美しく輝く夜だった。

 前方からよろよろと不安定な運転で一台の乗用車が走ってきた。
 窓ガラスの外をぼうっと見ていた秋葉は、危ないな、と思ったが特に警戒することは無かった。
 ふらふらとした車が横を通り過ぎる。ただ、それだけのものだと思っていた。
 けれど、現実は子供の予想を裏切る。
 不安定な運転のその車は交差する瞬間大きくバランスを崩し、秋葉達の車の斜め前方から激突した。
 強烈な衝撃と共に窓ガラスが砕け、光のシャワーのように秋葉に降り注いだ。
 一際大きな欠片が秋葉の利き腕――左腕を半ば、骨に達するまで切断し、砕けてとても小さくなった無数の破片群が、左目を襲った。
 視界が一瞬で遮断され、激痛によって意識を失うその瞬間、秋葉は確かに見た。
 紅に、自らの鮮血に染まったその景色を。


 次に目を覚ましたときには、病院のベットの上だった。
 秋葉が目覚めたことを聞きつけた医師が、沈痛は面持ちで部屋に入ってきた。
 そこで、両親の死を聞かされた。遺体は損傷が激しくて、幼い秋葉には見せては貰えなかった。
 結局、両親とはまともに別れる事すら出来なかった。


 自分の状態を聞かされたのはいつの頃だっただろうか。
 長い間取れない左目の包帯と、どれだけ力をいれても殆ど動かない腕から、何となく予想はしていた。
 怪我がある程度癒えて、目に巻かれた包帯が取れた頃には、面会に人がたくさん来た。
 最初は自分を心配してくれる人々の存在がたまらなく嬉しくて、自分が生きていることは彼らがいるお陰だとさえ思った。
 その支えが怪しく見え始めたのは、それから少し経った頃。
 病院は退院して、通院を続けながらも日常生活を送ることが可能になった頃だと思う。
 はじめて合う人、顔見知り、学校の友人、両親の葬式で出会った人々。会う人会う人が秋葉に哀れみの目を向けた。
 妙なわだかまりが、心の中で育っていった。


 そんな視線に、不信感を持ったある日ことだ。
 家にとある人物が来訪した。
 その人物はエッセイなどで人気を集めている作家で、秋葉の取材をしたいと言い出した。
 秋葉には良く理解できなかったが、とりあえず引き受けた。幾つか質問をさせて欲しいだけだと言われたし、妙に強引で断り切れなかったからだ。
 悪意があるようには、見えなかった。


 けれど――その人物との会話のひと時は、秋葉の人生でも最悪な時間の一つとなった。
 あの事故は突風のように訪れ、秋葉の全てを葬り去って行ったが、その会談は緩慢に纏わり付くヘドロのような時間だった。
 その人物はあからさまな哀れみの言葉を投げかけ、秋葉を徹底的に不幸に仕立て上げようとした。質問一つ一つから、その意図が透いて見えた。
 当人である秋葉が、ソレは言いすぎなのでは、と思うほどの曲解を見せた。
 両親の死。潰えた夢。動かない左手。見えない左目――。
 ありとあらゆるトラウマを、可哀想だねと言いながら秋葉から聞き出そうとした。
 その人物は他人の不幸をネタに、自分の利益を図ろうとしたのだ。
 あまりの醜悪さに吐き気を覚えた。そして何より秋葉を絶望させたのは、その人物は本気で哀れんでいたことだった。
 それまで出会った人々と同じ表情、同じ目で話し、同じセリフを使う。
 或いは、あの曲解は職業意識が現われただけだったのかもしれない。
 真実、本心から同情していたのかもしれない。
 それは、つまりは今まで秋葉が心の支えにしてきた人々と、目の前の醜悪な心の持ち主が本質的に同義な存在であることに他ならなかった。
 誰もが秋葉を見ては可哀想と言う。その裏に、不幸な者への優越感を隠していたのだとしたら。
 人間の根本的な醜悪さ。純粋なる善意という名の悪意。欺瞞と優越が人間の本質だとしたら。
 それは、絶望と評しても差し支えない。人を生かしていたモノを砕くのに、それ以上は必要無い。
 道を絶たれた秋葉を待っていたのは、救いではなく、救いようも無い深淵への追い討ちだった。


 その夜、秋葉は自らの命を絶つことを思いついた。
 希望は既に潰え、周りには絶望しか存在せず、それは半永久的に自分を蝕むことは、当時の秋葉でも容易に予想がついたのだから。
 秋葉は既に終っていた。ゲームで例えるなら問答無用のゲームオーバーだろう。
 しかし、ここまで致命的に失敗してしまった秋葉にさえ、未来は存在した。
 時間は、最低的に平等で、悪意的なまでに慈悲深かった。
 人生がゲームでないのは、リセットボタンが無いからではなく、ゲームオーバーでも先に続くからだ。
 そんな思いの中で生きて行きたくは無かったし、それより何より、両親も夢も失った秋葉には生きる意味が欠けていた。
 無為なる未来など見たくなかった。


 カッターナイフで左手首を切り裂く。
 秋葉はそれで死ねるとは思っていなかった。ただ、何となく自分で自分を傷つけてみたかっただけだ。それくらいの自由は許されてもいいと、自棄になった心境で思った。
 思った通りそれで死ぬことは無かった。生来低血圧で弱々しい自分だ。出血で倒れて肝心の行動を実行できなかったこともある。が、それだけではなかった。両親の死により引き取られた栩野家。義理の兄となった栩野景史が秋葉を助けてしまったからだ。
 死ねなかったことに、特に感慨は無かった。改めて死ぬくらいの時間は、自分には十分に残されているのだから。


 その後しばらくして、景史は秋葉をつれて、誰もいない広場に連れてきた。
 景史は手に一枚の絵を持っていた。それは秋葉が最後に完成させた人物画だった。
 モデルは――景史。
「ここなら十分か」
 意味の判らないことを小さな声で呟いて、おもむろに手に持ったその絵を無造作に地面に放り投げると、マッチをすり、絵の上に落とした。
 描かれた絵を構成している油分が、瞬く間に炎を大きく燃え上がらせた。
 秋葉はその時初めて大声を出した。事故以来、普通に話すことさえも苦痛だったのに。
 もはや自分は、緩慢に死んでいくだけの人形だと思っていたのに。
 自分自身の行動に内心で驚きながらも、秋葉は大声で泣いた。やめて、火を止めて、と。
 結局、炎は絵の全てを焼き尽くし、秋葉はその場に泣き崩れた。
 まだ失うものがあったという事実が、まるで自分が笑劇の道化であるような錯覚をもたらした。
 もはや、自分自身を哂うことしか出来ることはなかった。
 その秋葉に向かって、景史は言った。
「樋坂秋葉はもう死んだ。交通事故で死んで、病院のベッドで両親と共に死んで、自分の部屋で手首を切って死んだ。そして、今ここで焼かれて死んだ」
 言葉を理解しようとはしなかった。そんな余裕はなかった。秋葉はただ泣くだけ、彼女が生きてきた最後の証が灰になるのを、泣いて見ているだけ。
 それでも、言おうとした。殺してくださいと。そんなに何度も死んでいると言うのなら、もう楽にしてくれたって良いじゃないかと。
 けれど、秋葉がそう言う前に、景史はもう一度口を開いたのだ。
「……もう、十分だろう。今ここで泣いているお前は栩野秋葉という名前で、俺の義理の妹だ。夢も絶望も思い出も未練も、全部死人にくれてやれ。生きる意味が欲しいなら俺のために生きろ。今お前に死なれたら目覚めが悪い。それをお前の理由にしろ」
 傲慢とも残酷とも表現できるような、そんな言葉だった。少なくとも、絶望した子供に言うべき言葉ではなかった。
 しかし当時の秋葉はそれに救われたのだ。
 事故に遭って以来、初めて心が安息を感じた瞬間だった。
 誰もが哀れむばかりだった秋葉を、しかし景史は哀れまなかった。
 はじめて、同情以外の言葉を聞いた気がした。そして、秋葉にとってはそんな理由でも十分だった。
 生きろ、そう命じてくれるのが心地良かった。自分で自分の為に生きるなど、当時の秋葉には不可能なことだったから。
 きっとその時、私という存在は初めてこの世に、生を享けたのだ。


 一瞬の回想の後、私は現実に戻る。
 目の前で儚い光を発しているのは当時の油絵ではない。
 ただ、当時と変わらないものがあった。後ろで腕を組みながら線香花火の炎を静かに見つめている、命の恩人。そして、この場所。
 振り返らずに、しかし振り返らなくても容易にその顔を想像できる彼に話しかけた。
「奇麗な色よね……まるで、あの時の炎みたい」
 私に、この場に来たときの元気はない。けれど、とても涼やかな感情があった。
「お前が何で赤い色を好むのか不思議だった。だから試してみたんだ。本当に血が好きなのか、本当は火が忘れられないのか」
 私の変化に気付いているだろうに、景史は相変わらずな声音で言う。
 気付いてみればこの場所は、あの時大声で泣いたあの場所だった。
 己の行動に意味があったのか、それが知りたかったと彼は言った。
「うん。もう、人が悪いよね……景兄さんは。まあ、心の整理をするのにこれ以上相応しい場所は、私には無いけれど」
 立ち上がる。ゆっくりと身体を反転し、景史の方に視線を向けた。
 唯一残るその右目から、一筋だけ涙が伝っていった。ソレが最後のひとかけらだ。決して忘れまい、ソレは樋坂秋葉という女の子が、流した最後の涙だ。
 心の中で本当の別れを告げて、栩野秋葉は彼に向き合った。
 景史は動かない。その場にじっと佇んだまま、何も言わない。
 それを見て、待っていると、感じた。
 彼は、気付いていたのだろう。
 ずっと以前から、もしかしたら私自身が気付くその前から。
(この人は、頭がとても良いから)
 けれど、私だって気付いていた。
 二人で偽りの兄妹として時を過ごす内に、彼の中にある感情が自分と同種のものに移り変わっていくのを。
 私には他人の心が良く見える。無くなった左目が見せてくれるのかもしれない。遠藤の、夏野の、京子の、皆の心をずっと見ていた。
 錯覚などではない、確実に存在するの第六感のような、ソレ。
 きっと天才だった彼女ではなく自分にしかない、左の目。
 ゆっくりと歩く。短い距離を刻んで、彼の前にたどり着いた。
 手に持った線香花火がぽつりと落ちる。ありがとう、と素直に思えた。
 一つ息を吸って、吐く。
 遠藤の台詞が不意に耳の裏側でこだました。
(反応がない事と、届いていない事は違う。その通りだった、遠藤君)
 景史の気持ちは何となく感じていた。
 けれど、それは本当に些細な勘のようなもので、それ以外に結論に直結するような事実を、私は一つも持っていなかった。
 それでも、ここに来てやはり、と思う。遠藤が言ったことは、寸分の狂いも無い真実だった。
 彼の助言は、秋葉にとっては正しく、賢者の言葉だった。
 鼓動を、高揚を感じ取りながら、心中の友人に一つだけ礼を告げて、目の前の彼の目を見つめた。
 告げる。

「私は、貴方が好きです」

 短い台詞が夜の空に消えても、私は目を逸らさない。じっと彼の瞳を見つめる。彼も逸らさなかった。
 最後の問題はクリアした。自分と向き合い、積年の想いを伝える事ができた。サイは振られ、後は目が出るのを待つばかりだ。どんな結末になっても、私は自分を赦す事が出来るだろう。
 それまで微塵も動かなかった視線が不意にずれる。景史は笑った。
「あーあ……俺って、ポーカフェイスで売ってるんだけどな。気付かれなければ、黙っておくつもりだったんだが」
 彼はそう言って深く嘆息し、笑みを苦笑に変える。私は、彼の言葉に射止められて、動く事なんて出来ない。
「全く、はじめて逢ったときから思ってたけど……お前には敵わないよ、秋葉」
 前髪が払われる。良いのか、と視線で問うた。返礼のつもりか、苦笑を止めずに景史は私の目蓋を下ろす。
 私は、もう抵抗なんてせずにゆっくりと目を閉じた。




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