昨日と同じ道を、同じ人と一緒に歩く。
「……」
 傘を翳すのは、美貌のクラスメイトにして、どうにも正体が読めない無表情の麗人。
「……」
 沈黙。沈黙。沈黙。昨日とは少し変わっている筈なのに、僕たちの間には、静寂だけが交わされる。
「……」
 昼食を偶然共にした時の会話が、まるで幻だったかのように、昨日を繰り返すかのように、僕たちはただ歩く。
「……」
 いいかげん、限界というモノが来た。
「……昨日は、悪かったね」



Rain Days ―後編―



 僕は、唐突とも言えるタイミングでそう告げる。 傘を翳す麗人は、僕の言葉を量りかねたように、疑問で返してきた。
「何の、事ですか?」
 とぼけている気配は無い。恐らく、本人はただ一瞬さえも、気にした事は無かったのであろう。だから、僕が自分で伝える。昨日の僕は、とても失礼だったのだと。
「全部だよ。傘を忘れた僕を送ってくれたクラスメイトに対して邪険な対応だったし、駅に着いたら着いたで、ありがとうの一言さえ言わないで、“同情か”なんて、訊く始末。普通の人ならまず、怒る」
 一息でそう言って、最後にもう一度、「悪かった」と付け足した。
 しばらくの無言。そして、その後に何かおかしそうに笑う気配。
「……結構、律儀なんですね。まさか、そんな事気にしていたとは、思ってもみませんでした」
 そう言って、また静かに笑う隣の麗人。それに対し、僕はむくれながら言葉を返した。
「普通は気にするんだよ。全く気にしない、キミの方が変なんだ」
 僕のその言葉にも、このクラスメイトはおかしそうに笑うだけ。それを見て、僕は一つの事実に気付く。
(そう言えば、相沢さんがこんなに笑ってるの、初めて見たな)
 それだけ僕の言葉が意外だった、という事だろう。僕が想定外の出来事を面白いと感じるように、相沢ユウも、意外な事象に対して、好意的な反応をしてしまう性質らしい。
(でもこの場合、僕が律儀だって事に驚いたって事で……全く、それまではどういう評価してたんだか)
 僕は想像してみたが、頭に思い浮かんだのは僕の行動通りの正当な評価ばかりで、恐らくこの麗人が、今ここでそれを正直に語って見せたとしても、僕は一言も反論できないに違いない。
(それだけ僕の態度が、褒められたものじゃないって事だよね)
 何となく、これから先は気をつけよう、と思う僕だった。
 そんな風にして、僕たちは言葉少なくも会話していたが、やがて通りの向こうに駅の光が見えると、その会話も消え去って、元の静寂へと戻っていった。
(この時間もこれで終わり、か)
 そう思い、不意に周囲の雨音に意識が逸れる。
(この雨も、恐らく今夜で終わる)
 雨は、嫌いだ。
 水に良い思い出など一つも無いし、濡れるのも好きではない。
 寒いのは嫌いだし、風邪を引くのは遠慮したい。
 ――それどころか、僕は、この雨音に、とても強い鎖で捕らわれている。
(けれど、もし雨が降らなくて、僕が傘を忘れなかったとしたら)
 雨は今夜で止む。根拠も無い確信がある。
 だから、このクラスメイトとこうして帰るのは、恐らく今日で最後だろう。 二度と、このタイミングを通過することはありえない。
 そう思うと、僕は今、目の前で「では、また明日」と言って踵を返した麗人を、無意識の内に呼び止めていた。

 ――待って。 

「相沢さん!」
 そう言えば、昨日もこんな風に呼び止めていたな、と僕は思う。同じ事を考えていたのだろう、この人特有の、何かに対処する場合に用いる無表情で振り返る、相沢ユウの静かな視線。
 内心身構えて僕の言葉を待っている、この美貌のクラスメイトに、僕は昨日とは違う、けれど、遙かに重大な言葉を告げた。
「僕の家に、来ない?」
 僅かに見開かれた目と、息を呑む気配。無表情が崩れている事から見ても、相当驚いている事が容易に察せられる。だから僕は、直ぐに言葉を繋げた。正気に戻り、何故こんな事を言ったのか、と後悔しながら。
「あ、いや、無理にとは言わないよ。ちょっと、気まぐれで言ってみただけだから……うん、今のはやっぱり、忘れて」
 そう早口で言って、僕はコンビニへと向かう為に踵を返す。
 一体何を考えているのだろう。ほんの少し話しただけでまだ殆ど知らない他人、それも異性からいきなり誘われて、応じる人間の方が珍しい。よほど軽い人間なら兎も角、誠実な人間なら尚更だ。そして、このクラスメイトが誠実な事くらい、少し考えれば解るのにと、自分の愚かさに、僕はこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
 だと言うのに、
「はい。……では、お邪魔させていただきます」
 まるで、玉子焼きを食べるみたいに軽々と、僕の予想を裏切った。

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「ここが、雪村さんの家……ですか」
 感慨深そうに呟くクラスメイトに、僕は頷く事で肯定する。
 目の前には、とてもとは言えないまでも、それなりに大きいとは表現できるサイズの家が建っている。
 けれど、その家にはまるで人が住んでいないかのように、気配という気配が無かった。まるで幽霊屋敷さながらのその家の扉に、僕は躊躇無く鍵を差し込み、捻る。
 すると、扉に掛かった鍵は抵抗無く開き、今ではたった一人となった、この家唯一の主人を迎え入れた。
「入って良いよ。何も、無いけどね」
 僕は、背後で固まっている麗人にそう言って、家の中へと踏み込む。
 続いて玄関に踏み込んだその人は、僅かに戸惑いを含んだ声音で呟いた。
「扉が」
 背後で息を呑む気配。当然の反応だろう。視界の先へと続く廊下、その左右にある扉の殆どが、交差した木の板を釘で打ち付けられ、軒並み塞がれているのだから。他と比べなくても、十分に異常な光景だ。
「父さんの部屋、兄さんの部屋、使わない客間。母さんの部屋は、塞ぐまでも無く、この家にはもう無かった」
 そう、母は僕が生まれた直後に死んだ。不運な事故だった。それに関しては、特に思うことは何も無い。記憶にも無い過去からまで、わざわざ悲しみを引っ張り出す趣味は、僕には無い。そんな事出来るわけも無い。
「二階は殆ど使ってなかったから、塞がないといけない部屋は無いんだ。客間に使えないこともないけど、案内するのは、一階のリビングと……何なら僕の部屋も」
 感情の混じらない言葉でそう言って、僕は廊下を進む。塞がれた部屋たちにもはや感慨は無い。そこは主無き部屋であり、主の所有物たちは大抵棄てた。無い物は無く、亡い者は亡い。ただそれだけの話だ。
 一階の廊下で唯一塞がれていない部屋。つまりは僕の部屋を通り越してドアを開け、無言のままで付いて来る相沢さんを招き入れる。そこには、他の部屋よりも広いつくりのリビングと、料理をしながらでも家族を見渡せる構造になっている、キッチンがあった。
この家で、僕の部屋とこのリビングだけが、微かな生活感を持っている。掃除もちゃんとするし、料理もここで作る。テレビもここあるのだから、当たり前だ。
 ……だというのに、他の部屋ほどではないにせよ、この場には静寂な気配が漂っている。
 振り返れば、やたらと複雑そうな表情をしている相沢さん。それを見て、今更ながらに僕は、苦笑いを浮かべた。
(まあ、当たり前か。これだけ暗い家だなんて、想像できないよね……普通は)
「うん、寂しくて悪いけど」
 一度だけ言葉を切って、後に続けた。
「雪村の家へ、ようこそ」

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 時計を見れば、午後6時を指そうとしていた。
 相沢さんに、普段家で食事する時間は何時だと聞くと、7時と答えられたので、僕は夕飯の支度をすることにした。相沢さんには、家に連絡を入れてもらう。
 当人には、リビングのソファーでくつろいでもらっているが、キョロキョロ周りを見渡している辺り、他人の家に招かれた経験が、あまりないらしい。なんとなく、あの人も普通の人生じゃなさそうだと思った。
 とりあえずテレビで時間を潰してもらっている内に、さっさと作る事にする。
 昼間、相沢さんに聞かれた通り、僕は料理が得意だ。自炊する必要があるのだから、それは当然の事。
 冷蔵庫を開けて、食材と取り出す。昨日買い物に行ったので、作ろうと思えば大抵のモノは作れるが、あまり待たせるのも悪いので、時間が掛からない無難なものに決めた。
 まずご飯を洗って、炊飯ジャーにセットし、スイッチを入れた。早炊きなので、1時間で食べられるようになるだろう。 個人的には邪道だと思うのだが、時に現実は主義主張より優先される。
 閑話休題。下らない思考に時間を割いている暇は無い。ご飯が炊けるまでの間に、全ての調理を終わらせなければならないのだ。
 タマゴと魚、味噌と豆腐、アサリ、野菜各種を取り出し、下拵えをして手早く並列作業。 特に描写の必要はないほど、何事もなく作業が進む。
 ご飯が炊き終わり、十分食べやすくなる頃には、全品見事に完成していた。
(意外と、やれば出来るヤツなのかなぁ……僕も)
 急いだ上に失敗は無かったから、結果としては上々だろう。味に関しても、心配はなさそうだ。僕は完成した料理各種をお盆に乗せて、暇を持て余しているであろうクラスメイトの元へと向かった。
「悪いね。僕が誘ったのに暇にさせて。頑張って作ったから許して」
「いえ。あまり人の家にお邪魔した事は無かったので、特に退屈はしませんでしたよ」
 そう言って、綺麗な笑みを浮かべるクラスメイト。
「それに……凄いですね。高校生でここまで料理ができる人、はじめて見ました」
 視線が向かう先には、僕が今作ったばかりの品々。メニューは、ご飯と味噌汁に、ハーブを刻んで混ぜたオムレツと、鮭とキノコのソテー、手製のクルトンを乗せたシーザーサラダだ。品数は多くないけど、ボリュームは十分だろう。
「まあ、人間必要に迫られると何でも出来るからね。僕のは、それに適正があった結果かな」
 料理をするのは必要性からだが、料理を楽しいと思う自分を否定はしない。
「和洋折衷で悪いけどね。洋食は好きなんだけど、パンとかスープは、あまり好みじゃないから」
(というか日本人なら、洋食でも何でも、ご飯と味噌汁は外せないよね)
 そんな固定観念を持っている僕だった。 いいじゃん、日本人だし。
 テーブルに夕食を並べて、お茶を用意し、箸を置く。準備万端だ。
「それじゃ、食べようか」
 僕は一瞬だけ手を合わせて、いただきます、と呟いて箸を伸ばす。
 が、しかし 。
「あれ、食べないの? ……もしかして、アレルギーとか、あった?」
 これは失敗だった。アレルギーの有無など、一番初めに気に掛けなければならなかったのに。
 僕の問い掛けに、しかし、目の前の麗人は静かに首を振った。
「いいえ。食べられないものはありません。ただ、アナタは」
「僕は?」
問い返す僕に、一瞬だけ躊躇った後、相沢さんは答えた。
「偉い人なのだな、と……思っていました」
「そう」
 それが、料理が上手だから偉い、などという単純な感想でない事は、鈍感な僕でも解る。何故ならその言葉は、昨日の僕の問いにも通じる、悼みの言葉なのだから。
「ありがとう。けど、別に気にしなくて良いよ」
 苦笑いを浮かべながら、僕は相沢さんを促す。そうして、相沢さんは僕と同じように手を合わせて、真剣に「いただきます」と呟いて、料理を食べ始めた。
 僕はそれを見て、もう一度心の中で、気にしなくて良い、と繰り返す。
(キミの言葉で、少しだけ救われたから)

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 僕の部屋が見てみたい、という相沢さんの希望を容れて、自室に招くことにした。リビングのドアを開けて、唯一塞がっていない扉を開く。
 整理整頓は何時でも欠かさず行っているから、片付ける時間も必要なかった。マメな自分を、ちょっとだけ褒めてやりたい。
「思っていたより」
 その僕の部屋を見渡して、相沢さんは言い淀む。
「より?」
「物が、少ないんですね」
 それは整理されている、と言う意味と共に、言葉通りの意味でもある。僕の部屋は、確かに物が少ないのだ。
 何も無い、という訳ではないが、それほどインテリアに興味が在る訳でも無いし、それほど多くの本を読むタイプでは無いから、本棚も小さいのが一つだけ。カーペットの敷かれた床にはクッションも無い。ベッドと背の低いテーブル、それから勉強用の机と、枕元の横に置かれた冷蔵庫が、この部屋の面積を消費する数少ない家具だ。
「うん、まあ、そうだね。クローゼットがあるから、箪笥も小さいので十分だし……テレビもビデオも、あっちにあるから」
 そう、何もここに置く必要は無い。家族でテレビのリモコンを取り合うことも無いのだ。物置は足りている。それを正確に察しているこのクラスメイトの聡明さには、今更ながらに驚きが湧くが、僕はそれを面に出さずに言葉を紡いだ。
「まあ、とりあえず座ってよ。……って、クッションも無いんだっけか」
 人が来る事など想定されていない部屋だ。カーペットがあるから、床に座ってもらっても問題は無いし、相沢さんも特に気にはしないのだろう。が、そんな事をされてはこの僕が気にするので、この案は却下する。
「うーんそうだね。そこのベッドに座って良いよ。僕は、こっちに座るから」
 そう言って、僕は勉強用の机の椅子に腰掛けた。
 他人のベッドに腰掛けるのは抵抗があるのだろう、相沢さんはしばし考える仕草。が、部屋の主の要請とあっては仕方が無いと諦めたか、おとなしくベッドの淵に腰を下ろした。
「あー……誘った僕が言うのも何だけど、やる事がないね」
 独り言のようにそう呟いて、僕は壁に掛かった時計に視線を向ける。
(もう直ぐ八時、か)
 何となくそう胸中で思ったが、そこで不意に名案が浮かんだ。
 ニヤリと、思わず浮かぶ笑み。僕は相沢さんにこう言った。
「ちょっと、質問があるんだけど」
 その笑顔に不吉な何かでも感じたのか。相沢さんは、例の無表情モードに移行して、僕の問いを待つ。が、不安なのが見え見えだ。
(そして、それはダイセイカイなのでした)
 胸中で意地悪気に呟いて、僕はその問いを口にした。
「相沢さんって、お酒……飲める方かな?」

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「父さんが酒付きでね。……ああ、酒好きというよりは、あの人はコレクターって言うのかな。珍しいヤツとか、良く買って来ては自慢してたよ。こっちはウィスキーとブランデーの違いも解らないのにさ。で、これもその内の一つ」
 僕はそう言いながら、良く解らない銘柄のウィスキーを、二つのコップに注ぐ。手元にある自分のコップをじーっと見つめる相沢さんに、僕は苦笑を浮かべながら言葉をかけた。
「流石にストレートはアレだけど、水割りだから大丈夫だよ。お酒、飲めるんだよね?」
 冷蔵庫からジュース各種と水差しを取り出しながら、僕は先の質問を繰り返した。
「はい。ですが……」
 こちらの真意を確かめるように、大丈夫なのか、と視線で問うて来る相沢さん。その意味が解らないほど、僕はお子様ではないけれど。
「大丈夫。キミが心配しているような間違いは、起こらないよ。僕が言うのもおかしいけど、安心して良い」
 その言葉に、そうですか、と返事をして、相沢さんはグラスに口をつけた。
「では、いただきます」
 ゴクゴクゴク……擬音が聞えそうなほどの良い飲みっぷりに、唖然と固まってしまった事に罪は無いだろう。
 もちろん、飲んだのは僕ではない。
(美形はお酒飲むのも様になるんだな……って、いや、突っ込むところはそこじゃないだろ、僕)
 以前何処かでしたような突っ込みを自分に入れている内に、目の前の麗人が持つグラスは空になっていた。
「ふう……おいしいですね、これ」
 確かにストレートではないし、氷は入っているから、見た目よりは少ない。が、それにしても…… 、
(いくら水割りだからって、それほど小さくも無いグラスを飲み干しますか……)
「うーん、凄いね」
 正直な感想だった。そして、目の前の麗人にビンを渡すと、かの人は自分で注ぎ始めた。意外に遠慮しない性質なのは、もう学習しているので驚かない。全く、本当に面白い新事実で、他のクラスメイトたちに見せてあげたいくらいではあるのだけれど。
 強敵だな、と呟いて、僕も自分のグラスに口をつけた。勿論、イッキなどはしない。
(さてさて、お酒も入ったし夜もこれから……お話をするにはもってこいのシュチエーションだね)
 僕は胸中でそう思いながら、意外に酒に強いらしい麗人の方を見る。あちらも同じ考えなのか、先ほどのようにイッキに飲み干すなどという事はしない。
「そうだね。こういう状況だし、質問とかしちゃっても良いかな?」
 誘った側の礼儀として、質問をするのはこちらから。僕はそう考えて、口を開いた。
「はい、良いですよ」
(この人、拒否したことがないな)
 そんな考えも頭を過ぎったが、僕が聞きたい事とは違うので、その疑問を消去する。
「何で、いつも敬語なの?」
 これは、当たり触りの無い問いにして、この麗人を前にすれば、一度は訊いてみたい問いである。その問いに、一瞬何か考えるような仕草をして、相沢さんは答えた。
「私の家、何をしているか知ってますか?」
 問いに対しての問い。けれど、それだけで僕は、相沢さんが何を言いたいのか、解った気がした。
「えっと……確か、教会だっけ」
 そう、実際に行った事は無いが、相沢さんの家は、僕が通っている高校の町にある、教会らしい。何処で聞いた話かは忘れたが、どうやら本当らしいとは聞いていた。
 そんな人物が酒を飲んで良いのか、と今更ながらに思った。僕がいえることじゃないが。
 だからこそ、昨日の雨のあの時間、相沢さんが駅に向かう道を選んだ時、僕は驚いたのである。
「教会だから、というのは理由にはなりませんが、私の父は職業上、とても厳格な人でした」
 語る言葉に躊躇いは無い。特に何か深い事情は隠されていないらしい。ならば、僕の質問後に一瞬見せたあの躊躇いは、こちらに対する気遣いだったのだろう。家族の話をして良いものか、と。誠実だからこそ、解り易いタイプなのだ、相沢ユウという人物は。
「言葉遣いについては、特別な事を言われた事はありませんが、常に誠実で在れ、世界に敬意を忘れるな、と言うのが父の口癖で、それに従ううちに自然に身に付きました」
 その言葉に、なるほどと僕は頷く。この人の精神に、多大な影響を与えた言葉なのだろう。本人を前にすれば良く解る。
 しかし、それにしても、
(世界に敬意を忘れるな、か。神さまじゃなくて世界って言う辺り、相当出来た人かもしれない。この子供にしてその親在り、ってやつかな? 何か違う気もするけど)
 僕が頷くと、相沢さんは「それだけですよ」と話を終わらせた。それを見て僕は、ジュースで割ったウイスキーを一口飲む。正直酒の味など解らないので、飲めないほどでなければなんでもいい。
「解った、答えてくれてありがとう。疑問とかあるとスッキリしない性質だから、助かったよ」
 そこで一旦区切って、また口にグラスを運ぶ。そして、何気ない口調でこう言った。
「相沢さんにばかり質問するのは、礼儀に悖るか。何か聞きたい事とかあれば、遠慮無く聞いてよ。何でも、答えるから」
 僕がそう言うと、相沢さんは殊更難しい顔をして黙ってしまった。それも当たり前だろう。この人は、誠実であり、聡明だ。遠慮をするべき所を見誤らないし、相手の望む行動を察する術に長けている。もはや才能レベルだと思われるが、それ故に、僕の言葉に迂闊に答えることは出来ない。
 何でも聞いて良い。それは、翻せば大切な傷さえ隠さないという、意思表示に他ならないのだから。
(今ここで、他ならぬキミがする問いに、大いに興味があるね)
 僕はそう思い、静かに答えを待った。
 そして――

「アナタを縛る鎖は、何ですか?」

 ――最高の質問が、来た。
「……事件の事じゃ、無いんだね?」
 内心大いに驚きながらも、僕はそう問い返す。ただの偶然など在り得ない。けれど、それでも問い返す。
「それを聞こうとも思いましたが……アナタの根底にあるのは、もっと別のモノ、事件そのものでは、無い気がしましたから」
 関係はあるのでしょうけどね、と最後に付け足して麗人は言葉を終えた。
 それに対し、僕は笑みを深める。
(お見事だ、相沢ユウ。面白いヤツどころじゃない。キミは間違いなく、天才だ)
 思わず胸中でそう呟いた。その質問の鋭さに、僕は心の底から拍手と、賞賛の言葉を送りたい。
 何故ならその質問は、雪村マコトという人物の、全てを問う言葉なのだから。
 大切な傷を開く許可を僕は与えた。そしてこの麗人は、これ以上無い鋭さでそれに応えた。
 ならば、もはや偽る意味はないだろう。
(この悲しみを、許されない罪をキミに託そう。それが僕の願いであり、キミは見事に応えたのだから)
 僕は、いつもの無表情ではない真剣な麗人の目を見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「良いよ。これ以上ない質問をありがとう。僕はね、懺悔したい事があるんだ」
 その言葉に、相沢さんは表情を険しくする。
 僕の言い回しに思うことがあるのだろう。家が教会なのだから、当然と言えば当然だ。
「懺悔……ですか?」
「そう、懺悔。事件の、僕の家族の事は、知ってるよね?」
 その問いに、悲しそうな目で、相沢ユウは頷いた。

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「あの日も雨が降ってたんだ」
 アルコールで微かに高揚した気分とは裏腹に、語る言葉はひたすらに一定。
 目の前にいる麗人は、相槌さえ打たずに、僕の言葉にただ耳を傾ける。
「僕は陸上部だったんだけどね」
 雨音を聞くと、何時でも頭を過ぎるその記憶。
「雨が降るとグラウンドは使えない」
 今日の放課後。セイジ言ったフレーズを思い出す。
「そういう日はストレッチとか、筋肉トレーニングに重点を置くんだよね」
 楽しかったあの時間。そう遠くない筈の過去。
「あの日は、ちょっとやり過ぎてさ。結構疲れてて。雨も降ってたから、部活の皆と喋ってたんだ」
 遣り直しは出来ない過去。
「それでも止まなかったから、結局帰った。傘は持ってなかったから、走って」
 そう、昨日もこの麗人に止められなければ、僕は同じ様にして帰ったのだろう。
「そしたらさ。時間結構経ってて」
 諦めはついている。
「帰ってみたらさ。父さんと兄さんが」
「雪村さん。それ以上は」
 言わなくて良いと静止の言葉をかけるクラスメイトの言葉を無視して、僕は告げた。
「――殺されてた」
「……っ」
 それは、もう終わった事。
「警察の人の話では、ただの強盗だったらしい」
「……確か、犯人は、捕まったんですよね」
 淡々と語る僕より、無表情に徹しきれない相沢さんの方が辛そうに見える。
 そのクラスメイトの問いに僕は、うん、と首肯した。
「報道の通りだよ。犯人は捕まったし、盗られた物は無かった。二人も殺して動転してたんだと思う」
「……はい」
 そう、犯人は何も盗る事無く逃げた。父さんと、兄さんをただ殺しただけ。 扉が開け放たれていたのは、犯人が慌てて逃げたから。恐らく、僕が帰る数分前の出来事だったのだろう。
「それだけの、事件」
 たった二人死んだだけで終わった事件。
 それを聞いて、話を初めて相沢さんが自分から口を開いた。
「アナタは」
 言い淀む言葉。迷いが、ある。これまでの躊躇いとは違う、不理解故の淀み。
「アナタは、犯人を……恨んでいますか?」
 僕は、その質問に驚く。
「なんで、そんな事訊くのかな?」
 そこまで到達できるのか、と思った。正直、予想外だった。
「どうにもアナタは、恨みどころか憎しみさえ、抱いていないように見えましたから」
 そこだけが理解できない、と麗人は言う。
 僕はふと笑みを零す。その鋭さには降参するしかないが、答えるには簡単過ぎる問いだ。
「そうだね。恨んではいないよ、きっと」
 あっさりと言い切った僕に、相沢さんはさらに問う。
「どうして?」
 この場合、何故家族を殺されたにも拘らず、犯人を恨まないのか、という事だろうか。
「解らない。けど、そう……それでも答えを返すなら、僕は恨まない人間なんだと思う」
「恨まない?」
 山彦のように返される疑問。僕の言葉が理解できないのだろう。、当然だ。恨みを持たない人間なんて、そうそういるものじゃないし、そんな人間はいて良い人間じゃない。
「例えばさ。昨日キミに、同情しているか、って聞いたよね。あの時キミは、えらくきっぱり肯定してくれたけど」
 そう言うと、相沢さんは申し訳無さそうに、「すみません」と謝罪する。
 僕はそれを、苦笑を交えて否定した。
「謝らなくて良いよ。僕はあれを聞いて、キミに興味を持ったんだから」
「はい……?」
 不可解といった様相で、首を僅かに傾げる相沢さん。
「うん。要するに、僕は他人に恨みや憎しみを抱くことが無い。本来怒りを感じる所でも、僕は他の感情を引っ張り出す。つまりは壊れた人間ってこと、かな」
 鬱陶しいと思うことはあっても、積極的に排除しようとは思わない。嫌いだと思っても、憎しみには到底足りない。悔しいと思っても、恨むには絶対的に、何かが欠ける。
「昨日キミに、いいかげん怒るよ、とか言ったけどさ。あれ、嘘だから」
「嘘、ですか?」
 苛立たしいとは、思った。鬱陶しいとは、思った。けど、結局流れるままに任せた。
「確かに、僕だってマイナスの感情くらいある。けれど、それを他人に向けるエネルギーが無い。自分の内だけで当てもなく湧き上がるくらいでしか、僕は、嫌だとも思えない。けど……――けどね」
 僕は、手元にあるグラスを手にとって、一瞬だけ見つめた後、一気にそれをあおった。殆ど満杯に近かったウイスキーは、それだけで全部消えた。
 それを確かめ、立ち上がる。
「けど、僕だって」
 ベッドに腰掛けた、クラスメイトの元へと歩く。
「そんな、壊れた僕だって」
「……」
 目の前に立つ僕を前に、あくまで耳を傾ける麗人。
「悲しいって、思うんだよ」
 僕は、座ったまま見上げる相沢さんを、ベッドに押し倒した。

-------------------------------------------------------

「アナタはまだ、核心を話していませんね」
 僕に倒されて、ベッドに仰向けに転んだ体勢で、しかし、そんな事には全く関係無いとでも言うように、相沢さんはそう口にした。
「何で、そう思うのかな?」
 僕は、この期に及んで発揮されるこの人の洞察力と、その強固な平常心に内心拍手喝采だったけど、それは隠して問い返す。
「アナタの感情が、常人とは違う事は解りました。けれど、それがアナタの本当に話したかった事とは思えない。更に言えば、今のアナタの話は、事件と直接関係が無い。それは在り得ない」
 僕は、僕の下にいる名探偵の口上に、ただ無言で耳を傾ける。
「アナタは、アナタの家族が殺されて、それでも犯人を恨めない自分を責めているんじゃない。そんな事、アナタには出来ない。他人に向けられないものを、自分に向けられる筈が無い。アナタは悲しむ事は出来ても、自分を恨む事も、憎む事も出来ない。それが感情の欠落を持つ、アナタの性質なのだというのなら」
全問正解。そう言いたくなる衝動をギリギリで押し留めて、相沢さんの言葉を待つ。
「人という対象にマイナス感情を持つことが出来ない。けれど自分を含めた、人に向ける性質ではない感情なら、悲しみや苦しみならアナタにも存在する。畢竟、アナタを縛る真の鎖はそこにある」
 もう一押し。もう正解に届いているけれど、それでもキミの言葉が聞きたい。
「だから私は知りたいし、問いたい。この答えを教えて欲しい」
「良いよ。言ってみせて。キミの問いを、僕に聞かせて」
 頷く名探偵は僕を追い詰める、最後の言葉を口にする。
 この人が何を言いたいのかは解っている。何故、その問いに辿り着く事が出来たのかは、僕には解らないけれど。
「アナタを縛る鎖は……」
 言葉を一瞬だけ区切り、けれど僕の瞳を強く見つめて、相沢ユウはただ問うた。
「アナタを、死に傾かせている感情は、何ですか?」

「後悔だよ」

 僕は、笑って、答えた。
「後悔……?」
 そこでこの単語が出てくるとは思わなかったのだろう。相沢さんは理解できない、という表情で問い返す。
 名探偵でも、一つくらい解けなかった謎があったと思うと、何かおかしくて笑みが零れた。
 だから、犯人である僕が教えてあげる。名探偵で正統なキミでは、たぶん発想する事も出来ない事だから。
「何で僕が生きてるのか、不思議に思わなかった? 偶然雨が降って、偶然傘を忘れて、助かった。たった数分の誤差が生死を分けた。こういうのも、キミの神様なら奇跡だって、言うんじゃないのかな?」
 僕は変わらぬ体勢のまま、ベッドに倒れた相沢さんに問いかけた。
 その問いに、その問いだけで、この名探偵は全てを察した。
「まさか、アナタは」
 まるで、気付いてはならない事実を知ってしまったかのような、そんな表情を浮かべる相沢ユウ。
「うん、僕はね」
「もう良い! もう良いから、それ以上先を口に」
 するな、という言葉を僕は唇を重ねて、黙らせる。
「――家族と一緒に、死にたかった」
 僕はやっと、それを言えた。
「あの時雨が降らなければ、傘を忘れていなければ、僕は間に合ったかもしれない。父さんと、兄さんと一緒に、愛する家族と一緒に、死ねたかもしれない」
「そんな、こと……」
 呆然とした表情で、僕を見つめる麗人。頼むからもう言わないでくれと、歪んだ瞳が告げている。
 ごめんと内心で僕は謝った。けど、今はこのまま話すのが先。
「うん、意味の無い事だっていうのは、解ってるんだ。それに、言ってはいけない事なのも」
 偶然、雨で帰りが遅れた。だから、僕は殺されずに済んだ。それは、天に感謝すべき事。
 だからこそ、この人にはワカラナイ。思いつきもしない、真逆の発想なのだから。
「だから、だからこれが……僕の懺悔。僕は死ねなかった事に、後悔してる」
 そう、僕がおかしい。生き延びた幸運を喜ぶのではなく、死ねなかった不幸を嘆くなんて。
「解ってるんだ。これは言ってはならない事。僕は、奇跡に助けられたのだから」
 そんな事は、解ってる。だから、これは子供のわがままと同じ。けど、それでも。
「けど、僕はそれでも、思ってしまうだ。僕は、……僕は生き残ったんじゃなくて――」
 ――死に損なっただけなんじゃないかって。
 そう言おうとした瞬間、世界が反転した。

------------------------------------------------------

「それ以上先を、言わないで下さい。私は、私では……アナタの傷を癒す事は、出来ない」
 僕は、何時の間にか、相沢さんが倒れていた筈のベッドに転ばされていた。
「とても悔しい。けれど、アナタの傷は、私では理解出来ない。私では届かない所にある」
 そして、その僕の手を押さえて、先ほどの僕と同じ位置にいる相沢さん。
「アナタの傷は……貴女の後悔は、貴女にしか癒せない」
「そうだね。そんな事、知っている」
 僕たちの形勢は、完全に逆になっていた。
「なのに……」
 いや、この状態こそが、正しい位置関係と言えるのかもしれない。
「何故、です」
 僕を見下ろして、麗人はそう言う。
「何故、ですか」
 主語の無い問い。けれど、僕はこの人が何を言いたいのか、不思議と理解できる。
「何故、貴女は……」
 三度目の問い。とても悲しい声で、この人は続ける。
 良い人だな、と僕は、いや……わたしは思う。わたしの言葉なんかで、こんなにも心を痛めている。
「なんで、だろうね。けど、たぶん……寂しかったんだと、思うよ。気弱になったの、かな。雨の夜は……泣きたくなるから」
 わたしは、正直に、そう答えた。
「貴女は、自棄になっているだけです」
 わたしの心を刻む言の刃。けれど、それを紡ぐこの人には、わたしの痛みをどれだけ積み上げれば、届くのだろう。
「……うん、そうだね。死にたいくせに、死ぬことも出来ない。そんな臆病者だから……こうやって、君に迷惑かけるだけのわがままを通してる」
 肯定を返すわたし。それが、この人を傷つけると解っていても、わたしはそうするしかない。
「誰もいない家に不用意に招き入れて、お酒なんか振舞って、こんな体勢に持ち込んで……挙句の果てに、一番大事な弱みまで、見せて……」
 身を裂かれるように呟いて、相沢さんは言う。
「私は、如何すれば良いのですか」
 真剣な問い。彼は、一体自分に何を求めているのか、と答えを求めている。
 昨日初めてまともに話したような他人の事を、ここまで強く想えるなんて、わたしには想像さえ出来ない事。
 けれど、そんな人だから……こんな人だからこそ、これほどまでに、いとおしい。
(だからわたしは、君に)
 腕を伸ばし、彼の首に回して、二度目の口付け。それは、一瞬の出来事だった。
「相沢悠君。死にたがりなわたしは、君に――」
――慰めて欲しいと、そう言った。
「……君の時間を、わたしに分けてほしい。私を戒める雨音の鎖を、今だけで良い……忘れさせて」
 それが、わたしの望みだよ。
 涙で潤む、視界の先にいる麗人。彼は一瞬だけ辛そうな顔をして、応えた。
「抗う気が起きない。……貴女は、魔性だ」
 返事をする前に、彼の唇で黙らされた。

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「気にしなくて良い」
 僕は、顔を合わせた瞬間謝ろうとするクラスメイトに、先手を打った。
「……っ、しかし」
 機先を制されて、それでも尚口を開こうとする相沢さんに、僕は制止の意味で首を振る。
「これは僕が望んだ事。君は、それに応えてくれただけだよ。だから、間違いなんかじゃない。君が責任を感じる必要は、無い」
「……」
「君は、お酒を口にする前に僕に確認した。僕ははっきりと、心配無いと答えた。この家の主であり、女性である僕がそう言った以上、君がお酒に口を付けた事に対する落ち度は無い」
 僕の言葉に隙は無い。もしどちらかが非を問われるとするならば、それは間違いなく僕にあり、僕の意思の下で起こった結果に、彼が謝罪する余地は存在しない。だから、例え彼が謝りたくても彼は謝ってはいけない。なにより、僕がこうなるように仕向けたのだから。
「それに、君はギリギリになっても僕に確認と取ったよね。正直、男と言う人種を見直したよ。僕が望まなければ例えどれだけお酒が入っていても君は、絶対に僕に手を出しはしなかっただろうから……他の友人の話では、結構本能に生きてる感じだったんだけどね?」
 そう言って僕は、クスクスと笑う。陥落させる事自体は簡単だと思っていたのに、相沢さんは本当の紳士だったらしい。最後は、紳士故に僕の要求を呑まざるを得なかっただけの話だろうか。僕としては、完敗としか言い様の無い状況だろう。全く、色んな意味で苦い事実だ。
「そんな事ありませんよ。貴女を前にして、私がどれだけ参っていた事か……今更言うのも何ですが、貴女はとても綺麗ですし……何より、危うい」
 僕は、その言葉に浮かべていた笑みを苦笑と変える。確かに僕は、この麗人には及ばないまでも、整った外見をしている自覚はあるから、全く気にならなかった、何て言われてはこちらの立つ瀬が無い。危うい、と言うのはたぶん、雨のせいなのだろうけど。
「ああ……なるほど。何故君に死にたがってるがばれたのか、いまいち解らなかったけど……もしかして、単純にそう見えた、っていう問題だった?」
 そう、その点が解らなかった。確かに僕は死にたがっていたけど、それを仄めかす様な事は言わなかったし、それに関しては言動にもかなり気を配っていた。けど、雰囲気……というより、表情に微かに表れるサインだけは、たぶん隠し様が無かったのだろう。
 案の定、相沢さんは、「はい。今にも自殺しそうな顔をしている人を、放って置く事は出来ませんから」何てのたまう始末。そんなに悲壮な顔していたのだろうか? あまり自覚は無いな。
「ふうん。それで、昨日いきなり声をかけてきた訳か。正直いきなりの展開で驚いたよ。君に邪気は見出せなかったから、警戒はしなかったけど……やっぱり、君は男だしね」
 そう言って、僕はコップに水を入れて一口飲み、言葉を続けた。
「まあ、そんな事は如何でも良い。とりあえず、お風呂入ってきてね。僕はその間に、君の着替えを調達してくるから」
 僕の言葉に、相沢さんは首を傾げて問い返す。
「調達……ですか?」
 何故そんな事をするのか解らない、と言った口調に、僕は首を振って答えた。
「招いた側の責任だね。時間も時間だし、君はもう泊まるしかない。なら着替えがいるでしょ」
 それを言った途端、相沢さんは申し訳無さそうな表情をしながら、「別に、明日帰ってから着替えますから」と遠慮の言葉を口にする。予想していた反応だ。
「それはダメ。客人にそんな事はさせられない。服はともかく、下着くらいは替えないとね。……大丈夫、こんな時間でもコンビニは開いているし、近くのコンビニは、男性用の衣類も置いてあるんだから。その為に、僕が先にシャワー浴びて来たんだからね。まあ安物で悪いけど、それは後日、改めてお詫びする事にするってことで」
 さあ、とりあえず君はお風呂に入りな、と僕は再び口を開こうとした相沢さんを、お風呂場へと追い立てた。
 時計を見れば、2時近い。この家にあった男性用の衣類なんて、全て棄ててしまったから、今言った通りにコンビニで調達しなければならない。セイジに頼るという手もあるが、常識以前の問題で却下だろう。 いや、それはそれでアイツの反応に若干の興味がないわけでもないのだが。
「よし、とりあえず、着替えないと」
 下着に、シャツ一枚という格好な僕だった。

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「さて、お話しをしようか」
 お風呂を上がって、僕が調達した衣類を身に付けた相沢さんが姿を現したところで、僕はそう切り出した。
「まず最初に、僕は君に謝らなければならない」
 時刻は2時を過ぎている。が、まだ話すべき事が残っている以上、僕達は眠りにつく訳にも行かない。
「私に……ですか」
 相沢さんは、恐らく僕が言おうとしている事くらいは解っているのだろう。けれどこういう事は、口に出さなければ意味が無い。
「うん。言ってしまえば、僕は君を嵌めた訳だからね。僕達の性別が逆だったら、僕は間違いなく犯罪者だし。それに、僕がした事は、実際犯罪と言えなくも無い。君の自由意志は何処にも無かったから」
 全部僕の都合だ。だから僕は、ごめんなさいと頭を下げた。
「いえ、私は気にしていませんから……見方によっては、私が貴女の弱みに付け込んだ、とも言える訳ですし、お互いの非を相殺という事にしませんか?」
 上手いやり方だ思う。
 僕の言葉は実際その通りだから、僕は自分の非を帳消しにする訳にもいかないし、けれど、人の良い相沢さんからすれば、僕が謝る事自体が心苦しいのだろう。だから、お互いに気にしなくて良い結果を導き出した。
 彼の気遣いに僕は内心で感謝しながら、「そうだね。そう言うことにしておこうか」と可愛くない言葉を返す。
「けど、本当に良かったのですか?」
 唐突に、彼は言った。
「えっと、……何が?」
 いまいち、質問の意図が解らない。さっきの事を指しているのではあるのだろうが。
「いえ、ただ貴女は、黒川さんと付き合っているものと、思っていましたから」
「……は?」
 予想外の言葉だった。目が点になるという言葉があるが、今の僕の目は、正しく点になっている事だろう。
「いえ、別に確かな根拠とかが在る訳ではないんです。ただ、貴女が一番親しそうにしている男子は、黒川さんに見えたもので……」
「あー、なるほど」
 言われてみれば、納得は行く。確かに、僕とセイジは仲が良い。学校の生徒を、男女全てひっくるめて比べても、僕と最も親しいのは間違いなく、セイジだろう。
 けれど、それは事実であると同時に、全くの誤解でしかなかった。
「僕達は幼馴染だよ。確かにセイジは親友だと思うけど……それ故に、僕はセイジだけは好きになれない」
 親友だから、恋人にはなれない。信頼しているからこそ、愛情は向けられない。セイジは僕の中で、親友と言う不動の位置に固定されているのだから。
 まず間違いなくあいつもそうだろうし、もしかしたら女とさえ見ていないかもしれない。いや、十割の確率でそうだろう。賭けてもいい。
「アイツとは、アイツとだけはそういう関係にはならない。ついでに言うと、僕は現在誰とも付き合っていない。だから、君が心配するような事は一つも無いよ」
 相沢さんは、僕の返事に安心したように頷いて、再度一つ質問をしてきた。
「解りました。不義理な事では無かったというだけでも、安心できます。それで、……こちらは興味本位の質問で申し訳ないのですが」
 そこで、一度言葉を切る相沢さん。僕は、どうぞ、と先を促す。
「何故、貴女は自分の事を、そんな風に呼ぶのですか?」
 そんな風、とはどんな意味だろうか、と僕は一瞬考えて、次の瞬間に、ああこれの事かと納得した。
 確かに、僕を見て、誰もが真っ先に思う疑問はそれだろう。 その点では、目前の麗人とほぼ同じ特徴と言えた。
(そう言えば、さっきは僕じゃなくて、わたしって言ったしね。それで、今更のように疑問に思ったのかな?)
 僕は内心でそう分析しながらも、彼の問いに対する答えを探す。
「んー、普段それを聞かれた時は、ただの癖だって言って終わらせるんだけど……」
 僕はそこで言葉を区切る。何と言えば良いか、と判断に迷ったのだ。しかし、
「ああ、すみません……不躾な問いでした」
 と、何故か謝る相沢さん。
「ん? ああ、違うよ。確かに進んで話すような事ではないけど、別に重い話じゃないから。……そうだね、君になら、聞いてもらいたいな。これは、今となってはセイジだけが知ってる事だけど」
 そう言って、僕は遠い過去を思い出す。それは、まだ僕が、自分の事をわたしと言っていた頃の話。
「さっき、僕は陸上部だったって、言ったよね。まあ、今は時間が無くて、止めてしまったけど」
 僕の言葉に、相沢さんは首肯する。そして、表情に暗い影が落ちた。
(さっきの話、思い出しちゃったかな……僕の過去なんて背負わせて、ごめん)
 心の中でそう謝るも、僕はそれを言わずに話を続けた。
「僕は、走るのが大好きだった。友達と遊ぶ時はいつも鬼ごっことかだったし、思い出にあるのは、おままごとじゃなくて風を切って走る心地良さ……そしてあの当時、同年代で僕より速い奴なんて、いなかった」
 思い出す。前にあるのはいつも一等賞のゴールで、振り返れば、後ろから必死に追いかけてくるセイジの姿。
「僕は誰よりも速かった。男の子も女の子も、平等に僕の後ろを走ってた。僕が一番だったし他の子は二番だった。それが当然だと思ってたし、僕にはそう思うだけの速さがあった。……けれど」
 それは、他愛も無い、挫折とも呼べないような当然の結末。男の子でも女の子でも関係無しに、誰でも似たような事は経験する……それは、アタリマエノデキゴト。
「小学校の、4年生くらいの時だったかな……初めて、クラスの男子に負けた」
 そう、そのアタリマエが僕に訪れるのが少し遅くて、それが僕の肩を叩くまで、全く気付かなかっただけの話。
「名前も覚えてないような、ヤツだったよ」
 絶対勝てると思ってた。けど、僕は女で、彼は男だった。身体能力で、勝ち続ける事など出来る筈が、無かった。
「負けて、初めて自分の性別を意識したのかもしれない。女では男には勝てない。僕は本当に、負けるまで、そんな当たり前の事実に気付かなかった」
 思い出す。あの悔しさを。あの喪失感を。自分が凄い人間だと思ってたのに、僕はただの女の子だった。
「必死で頑張った。女の子の中では間違いなく一番だった。僕を負かしたヤツにも、僕は再び勝てた。本当に努力して、僕は一番に戻った……けれど」
 小学4年生。子供だった体が、大きく成長し始める時期。
「半年で、また抜かれた。それも、一人じゃない。何人にも、何人にも……最後には、人生で初めて、セイジに負けた」
 あれは、運動会の事だったか。
 男女混合リレーという種目がある。名前の通り男女混合でチームを組んでリレーをする種目で、その当時はまだ、上から数えた方が早かった僕は、当然の如くアンカーだった。
「リレーの、3メートルリード。残り50メートル地点の勝負。圧倒的有利だった筈の僕は……ゴールギリギリで追い抜かれた」
 他愛も無い話だ。普通なら、ちょっと悔しくて泣いても、数日で立ち直れるような話。
(でも、僕は)
「僕は、たぶん人生で初めて、最初で最後に天と、自分を恨んだ。うん、あれは間違いなく恨みだろうね」
 何故自分の体は女なのか。何故あいつらは、ただ男と言うだけで、自分を追い越して行くのか。
「今思えば、子供の癇癪としか言いようの無い事だよ。……けど、それでも――」
 子供の心には、その現実はどうしようもなく、理不尽で。
「――許せる筈が、無かった」
 神を、呪った。
「……もう、解るよね」
 僕は、古傷を語り終えて、目の前で押し黙るクラスメイトに言う。
「何故僕が、自分の事を僕って呼ぶのか。何故僕は、こんな男みたいな話し方をするのか」
 古い傷は、ただの痕。今はただ、名残が少し見えるだけ。僕の言葉を聞き終えて、相沢さんはぽつりと、言った。
「……貴女は、男の子に、なりたかったのですか?」
 その問いに、僕は苦笑を浮かべながら首を振る。
「いや? そんな事は考えた事無いね。確かに悔しかったけど、それで自分を曲げようとは思わなかった。だってそれは」
 ……ただ男というだけで、自分を苦も無く追い抜いていった彼らに、ただ並ぶだけなのだから。
「それに、僕はやっぱり速いからね。人生でただの一度も、女の子に負けた事は無いよ。陸上部の大会でも、僕は誰かの背中を見た事は無い」
 それは誇りだ。性別などというハンデが無ければ、僕は誰にも負けない。
「要するに、ただ現実を認められなかった子供の頃の僕が、せめて形だけでも抵抗しようとしたのが始まりだよ。意味が無いって解っていても、負けず嫌いな僕は何かをしなければならなかった。それが、今になっても、形だけは残ってただけの」
 それだけの、他愛も無い話しだよ。と、僕は昔話を終えた。
「ありがとう、ございました。……貴女の話を聞けて良かった」
 それまで殆ど黙っていた相沢さんは、何かやたらとシンミリとした口調で、そう言った。
「昔の話だよ。忘れろとまでは言わないけど、他の人にバレると恥ずかしいから、内緒だよ?」
僕がそう言うと、相沢さんは真剣な表情で「はい」と言った。どうにも、墓まで持って行きそうな感じの返事だった。
(この人、実は滅茶苦茶情にもろいな……ちょっと心配かも)
 内心で僕は、苦笑を交えてそう呟く。
「まあ、けど……それももう、終わりかな」
 ポツリと呟いた僕の言葉に、相沢さんは「え?」と疑問詞で問い返す。それに、僕は何でもないように答えた。
「だってさ。僕はもう、陸上部じゃないんだ。どれだけ悔しかったといっても、所詮は子供の頃の事。諦めも納得も終わってるし、今じゃ走る機会なんてそれほど無い。拘っていても無意味だし、何より」
 僕は、たぶん僕の大切な人になるであろう麗人を、笑みを交えながら見つめて、言った。
「君のおかげで、僕はもう完璧に、女の子になった訳だし?」
「え……? あ! ……えっと、その……それは」
 完全な不意打ちを正面からまともに喰らって、相沢さんは滅多に崩れないその表情を、赤く染めて取り乱す。
(可愛いなぁ……可愛過ぎるよ、この人)
 男にしておくのが勿体無いと小さく呟きながら、日頃培ってきた鉄の心で表情を元に戻そうとしている麗人を見る。
(じゃあ、そろそろ止めと参りましょう)
 胸中でだけ彼にそう告げて、僕はにやりと笑って、言った。
「さて……お父様には、いつ挨拶に行けばいいかな?」

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