さて、唐突だが――古の偉人に曰く、
『愛されないということは不運であり、愛さないということは不幸である』そうな。
 また、『恋愛論を得意気に語る奴には、恋人がいない』ともいう。
 言葉を繕うだけで踏み出さぬ者には、所詮言葉しか残らない。
 真実を知りたければ実戦でこそ学べ――至極道理である。
 論より証拠、というやつだ。
 真に耳が痛いが、なるほど。野次馬な私――氷室鐘には恋人がいない。
 そのような態度が私自身の恋愛を妨げるというのなら、確かにと納得するに他は無い。
 過去と現代という隔たりがある以上、そして個々の事情と状況が絡む以上は確実に当て嵌まるとは謂い難いが、後者の言葉は私の現状を端的に表していると言えよう。
 また、そのような人格ゆえに愛されないというのなら、確かに不運と頷いて良いかもしれぬ。
 やはり時代は違えど人の世か。愛しや恋しの秘め事は遍く全てに平等で、大きく外れる事が無い。
 無論、私もその内の一人である。
 ならば、
「やはり、愛す者がいない私は不幸だと思うかね?」
 少年、と続けて隣の男子生徒に問いかけた。
「知らないっスよ」
 さて、と続けて聴かせた身の上話への返答はこれ。
 仮にも上級生が話しかけているというのに、ぞんざいな一言で済ます一年生。
 細めた視線で横目に見れば、何が落ち着かないのか気もそぞろに前方を睨んでいる少年の顔がひとつ。
 僅かに彼の顔が赤いのはもはや私といる時の常態だが、状況が状況ゆえか硬直具合はニ割り増しだ。
 しかしぞんざいに扱われて喜ぶ趣味は特に無いので、私は少しだけからかってやることにした。
「間桐嬢の後をつけるのがそんなに楽しいかね。ふむ、中々どうして君も――」
 あえて言葉を区切る。思わせぶりな言動は得意である。まあ、自慢になるとは微塵も思えないが。
「……っ! ち、違うッスよ!」
 案の定、少年――美綴実典は慌てて反論を返してきた。振り返った顔は切羽が詰まって真っ赤である。
 外見はクールでも根は純朴。背徳感を煽るような言葉を聞かせればムキになって否定する。
 その様は正しく善良で、あまりの微笑ましさに、慣れていてもつい頬が緩むというものだ。
「なに、少年らしいな、と言おうとしたまでだ。君くらいの思春期の男子なら、その程度の変態性はあって然るべきだぞ」
 そういってニヤリと口端を吊り上げる。さぞや意地の悪い笑みが出来上がっている事だろう。
「へん……っ!」
 変態という言葉に動揺したのだろう。
 必死に否定しようと言葉を探しているようだが、有効な反論が思いつかないようだ。
 それもそのはず、現状を鑑みればあながち間違っているとも言えないのだから、否定できようはずも無い。
「……それを言うなら、氷室先輩も同じっスよ」
 半ば諦めた声で言う。私に振り回されて早や一月半、それなりに慣れてきた……というよりはただ学習しただけだろうが、こちらがどう返すか予想している声音だった。
 ふむ、と口元に手を添えて考える素振り。
 普段は間などおかずに言葉を返すのだが、たまにはもったいぶってみるべきだろう。
「然り。振り返れば私の言動はあまり一般的な物ではないな。その私と共にいる君には同情を禁じえないが――悪い魔女に捕まった、と諦めてくれたまえ」
 何度目かのフレーズに続け、なに、いずれ君もこの楽しさが分かる時が来る、と付け加える。
「断固として拒否しますよ――あ、動いた」
 醒めた態度から一転、目敏くターゲットの動向をチェックしている美綴弟。
(中々どうして、素質はあるようだが)
 私もあちらの動向が気になるので、内心の言は口に出さずに視線を向ける。
 場所は新都。ヴェルデという大型デパートのとある一角。婦人用服飾品コーナーである。
 視線の先には、服を選びながら楽しそうに微笑んでいる一組の男女の姿。
 男の名は、我らが学園の三年生にして、我が親愛なる馬鹿野郎に生徒会長のオプション装備とまで呼ばれる変わり者。
 言わずと知れた穂群原のブラウニー、衛宮士郎である。
 彼がここにいることには驚かない。何処にでもいるようで何処にもいないと評したのは誰だったか。いつも誰かの手伝いをしている衛宮士郎は、それゆえ見かける場所を問う事は無い。
 が、遠巻きながらもあの雰囲気を見る限り、今日は手伝いをしている訳ではないようだ。
 何故なら、衛宮士郎の隣で微笑んでいるのは、私の横で苦虫を噛み潰している少年の想い人――間桐桜その人だからである。
 衛宮士郎は遠坂凛と付き合っているものだと思っていたが、ついこの間あった一悶着のせいでその確信は揺らぎつつある。
 遠坂嬢、間桐嬢にセイバー嬢――ああ、ライダー嬢もか――と、美人美女美少女が一堂に会して彼を取り囲んでいた情景は、そう簡単に忘れられるものではない。
 美綴嬢が零した、遠坂嬢との賭けへの抗議も納得できよう。
 衛宮がアレでは無効と言われても仕様が無いし、ゆえに彼が遠坂嬢以外の者と共にいるのなら、それは疑って然るべきである。
 美綴弟も良く解っているらしく、楽しそうなあちらの空気に反比例したいらつき様。
 その負のオーラは、こちらの場所がばれぬだろうかと僅かに冷や汗を流すほどである。
 相手は家事妖精といえども元弓道部のエース。
 冬木の虎をして天才と云わしめる衛宮士郎と、現弓道部の主将にして空恐ろしいナニカを秘める間桐桜。
 共に武道を通ずる者達なのだから、あからさまな殺気なら感じ取ってしまいかねない。
 ゆえに私は、剣呑な目つきの美綴弟を一度こちら側――いわずと知れた彼らの死角だ――に引き込んだ。
 その時胸が少年の腕に押し付けられる形になり、驚いたような表情で何か言いかけた少年の口をすかさず塞ぐ。
 視線だけで黙れと告げて周囲を見渡せば、探偵さながらの挙動不審者二人組みに周囲は好奇の視線を送っていた。
 何のことは無い。あちらから見ればこちらの様子など欠片も――と、
「ん?」
「どうしたんですか? 先輩」
 意識を向ければ、何かに気付いたらしい衛宮の声が。
 彼は、いや、と続けて店の出口――私たちが隠れているあたりに振り返った。
「今、誰かに見られてたような……」
 気のせいだったと笑って間桐嬢に向き直った。遠すぎて詳細は聞えなかったが、確かにこちらを察したようだ。
 恐るべし、衛宮士郎。そして、よくやった私。
 僅かに青い顔をしている少年のこめかみをコツンと叩き、歩き去っていく彼らをそっと伺う。
 ついでに言うと、腕は組んだままだ。
「なにもんすか」
 私と同じように彼らに視線を送りながら、怯えた声音で少年が言う。体の硬直は胸のせいだと思いたい。
「どちらの事だね」
 それは、20メートルは離れている私たちに感づいた衛宮のことか。
 それとも、ソレを察して未来予知よろしく隠れきった私のことか。
「……どっちもっスよ」
「なに、偶然だろう」
 呆れたような美綴弟の口ぶりに、私は簡潔に答えた。
 例えどちらであろうともその一言で終わるのだ。そんな事より今は、
「む、角を曲がった。追うぞ少年」
 わかりましたよ、とウンザリしたような声音の美綴弟と共に足を速めた。
「何でこんな事になったんすかね」
 あと少年じゃないっス。と抗議する少年の言葉を聞き流し、彼の腕を引っ張りながらその質問に胸中で答えた。
(ああ、確か原因は――)
 事の発端は、約一時間前に遡る。


氷室恋愛劇場 第一幕
      La Campanella



 今日は休日、うららかな陽気の午後だった。
 午前中は特に何もすることがなく、お気に入りの曲をエンドレスにしてベッドで寝転びながら思考停止。
 人、それを寝坊という。眠りこそしないが朝の寒さも相まって、布団の呪縛から脱出できたのは、もうすぐ午前11時になろうかという時間帯だった。
 余人に女史と呼ばれる私だが、実は、家ではわりとものぐさ人間だと知る者はおるまい。
 由紀香や蒔寺にも見せた事が無いのだから、私の外面は案外仮面のようなものかもしれぬ。
 変温動物よろしく朝の冷気が去るのを待っていた私は、乱れた髪と眠気を払う為にシャワーを浴びた。
 お気に入りの髪を丁寧にケアしてから着替え、ドライヤーを当てたところで僅かな空腹に気付く。
 時計を見れば、やや早いが昼時ではある。生憎両親は出払っているので、朝昼兼用で食事を摂ることにした。
 ああ、ちなみに部活はついこの間引退した。大会の結果は、またいずれ機会があれば。
 料理の腕は蒔寺にも遅れをとるほどだが、自分ひとりなら何の不都合もあるまい。
 焼けば炭が出来るわけでもなし、一般的な――特に可もなく不可もなく、という意味だ――調理法は心得ている。
 冷蔵庫を開ける。
 献立は既に決めてある。ハムエッグとサラダとトーストだ。
 ソレ即ち朝食ではないのかという野暮なツッコミは遠慮願いたい。
 部活も既になく、特に激しく活動する予定もないのだから、無駄なカロリーの摂取は慎むべきである。
 ――が、
「む」
 ハムはあるが、タマゴがない。ならば他をと探すが、手軽に調理できる食材が見当たらない。
 僅かな予感を得て野菜室へ。当然というかお約束というか、レタスをはじめとしたサラダの構成員が悉く欠けている。
 普段は余る大根さえないのはどういうことか。
「むむむ」
 今日は軽い食事を摂って一日読書でもと思っていたが、最初の一手でケチがついた。
 これでも乙女である。食事の一度程度なら抜いても差し障りなど無い。差し障りなどないが――
(この程度で習慣を崩すのも馬鹿な話か。仕方がない)
 内心で呟いて部屋へ戻る。天気は快晴。通り雨の気配もない。
 たまには意味もなくぶらついてみるのもいいだろう。

 ***

 というわけで、外に出た。
 服装は普段通り、代わり映えのしない銀縁のメガネに、ダークブラウンのシャツと黒いロングスカート。
 タイの結びは、キツめのハーフウィンザーノットだ。
 私自身どころか見るほうにも堅苦しさを強いる格好であるが、私の培ってきたイメージとはよく合っている。
(まあ、それゆえか間桐慎二に謂れなき暴言を受けた事もあるのだが)

 閑話休題。

 冬の日差しはわりと強い。快晴ゆえ陰はなく、澄んだ大気は紫外線の独壇場だ。
 私の肌は焼ける方ではないが、やはり避けるにこしたことはないので、建物の影に沿って移動する事にした。
 日傘を持ってきても良いが、流石にどこの老嬢か、と思われかねない。
 行き先は特に決めていないが、当面の目的は昼食である。
 一度外に出たからにはすぐに戻るつもりはないので、それなりにカロリーを摂っても良いだろう。
 ――繰り返すが、これでも乙女である。そのあたりには十分に気遣って然るべきだ。
 さて、蝉菜のマンションを出たは良いが、このあたりは閑静な住宅地。
 喫茶店などはあまりなく、数少ないそれらはあまり気に入ったものではない。
(となれば……)
 ここは新都。徒歩でもそれほどかからずに都合の良い場所は見つかるだろう。
「とりあえず、駅前か」
 駅前周辺はヴェルデという大型デパートをはじめ、多種多様な商店が集う繁華街だ。軽食からレストラン、和洋中と基本的なモノは揃っている。
 その他の買い物にしても手近な所で見つかるので、休日には皆大抵集まるような地帯である。
 由紀香はともかく、蒔寺あたりなら無意味で無目的で非生産的にブラブラと徘徊していてもおかしくないな、と呟いたところで、つまり今の私はそういう現状なのだった。
「なるほど、暇人は暇人らしく同類を捕まえるとしよう」
 今日の方針を立てた私は、蒔寺を探しに駅前へと歩き出した。

 ***

 のんびり歩く事十数分、12時を過ぎたあたりで意外な人物たちに出くわした。
 蒔寺単体を探していたわけではない。
 知り合いがいれば暇つぶしにはなると判断して来たわけだから別に彼らでも良いのだが、私はともかくあちらは困りそうだ。
 何故なら、彼らとは二人であり、男女であり、ここはヴェルデ周辺のショッピングモール――デートスポットの筆頭だからである。
「よっ。奇遇だな、氷室」
 だというのに空気の読めていない衛宮士郎。デート中に、他の女に軽々しく声をかけていいものか。
「ごきげんよう。学園以外で会うのは久しいな、衛宮――と間桐嬢」
 とりあえず挨拶を交わす。
 先に衛宮の名が挙がったのは同級生ゆえの習性だ。特に他意もなければ間桐嬢に含むこともない。
 こんにちは、と微笑みながら挨拶を返す間桐嬢。
 私服を見る機会はあまりなかったが、中々のセンスというか、己の事は意外と分かっているようだ。
(のわりに一部鈍感なのは、演技なのか地なのか。判断がつかないな)
 あまり考えない方が良い種類の事でもある。衛宮が口を開く気配がしたので危険な疑問はとりあえず放っておくことにした。
「前もこんな感じだったな。一人か?」
 前、というのは深山の商店街であった時のことか。あの時は妙な雰囲気だったが、それも知らぬ間に消え失せた。
 あの数日間は、どうやら私の体調がおかしかったのだろう。
「前回は随分と状況が違ったが。衛宮は一人ではないしここは深山ではない。それに――またああなるのは御免こうむる」
 人が真剣に話しているのに突然笑い出すなどけしからぬ。思い出せば腹が立ってくるので、ジト目でヤツを睨んでやった。
 あぁ、あれか、悪かったなと笑いながら衛宮が言う。全然反省していないようだが、まあ昔のことか。
 彼にとっては結局笑い話だったということだろう。私だけ根に持つのも変な話だ。
「あの、」
 何の話題なのか間桐嬢は解らないようだった。それも当然だろう。二人でいるところなのに、彼女に悪いことをした。と、
「氷室先輩は――衛宮先輩と仲がいいんですか?」
 ぞくり。何かよからぬ気配を察して間桐嬢に向き直る。
 普段通り、控えめで美しい笑顔なのに何かが違う。
 あえて言うなれば擬態だろう。
 彼女本人は可憐なのに、周囲の空気が隠しようもなくドス黒い。
 というか――間桐嬢の服には、黒地に赤のストライプ柄など入っていたか……?
 感じたモノは衛宮も同じらしく、急に慌てて彼女に声をかけはじめた。もとい、弁解をはじめた。
「い、いや。黒さ、じゃなくて桜。別に特別な事があったわけじゃなくてだな。この間偶然ちょっと氷室と立ち話しただけで……」
 特に仲が言い訳では断じてない、と私から聞けば失礼な事を言い出した。
 それに怒りどころか安堵を覚える私は何なのか。
「なぁんだ、そうだったんですか。……良かったです。このまま増えるようじゃ、流石の私も考えないといけないとこでした」
 勘違いでした、てへ。と、自分の即頭部をコツンと叩く仕草。
 その様はとても可愛いのだが、氷室先輩もすみません、とこちらに向けた視線は、どういうわけか全く笑っていないように思える。
 目尻も含めて満面の笑みなのに、視線だけが笑っていないなどとありえるのだろうか。
 想像すると、暖かな冬木の町なのに何故か背筋が凍えた。
 間違っても、その考えとやらがどういうものかを訊いてはいけないと、普段は眠っている本能が全力で告げている。
「あ、ああ。いや、構わない」
 場の雰囲気が重い。
 皆笑顔なのに――衛宮と私はひきつっているが――何故か空気に重油のような黒いナニカが泳いでいる。
 形状で言えば紐かナニカか。早く立ち去りたいという欲求に、視線が間桐嬢から逸れたところで、
(む、あれは)

 酷く怪しいモノを発見した。

「と、すまない、二人とも。ちょっと急用を思い出したので失礼する」
 あぁ、またな。と返事をする衛宮。さようなら、と告げる間桐嬢。
 二人の感情の温度差が如実に現れた気がしたが、私はもはや視線すら合わせず、一度手を上げて早足でその場を後にした。
『あと先輩? 黒さってなんですか?』と間桐嬢の声が聞こえた。
 会話の意味は解らなかったが、声音から衛宮の未来は決まったような気がした。合掌。
 とりあえず一番近い角を曲がる。背中に突き刺さる視線は勘違いだろう。
 あと、私の周囲に存在する男性の中で、衛宮が永遠に交際対象から除外された。
 理由など推して知るべし、だ。
 気分を切り替えて、先ほど見つけたモノを探すことにした。
 脳裏にそれぞれの座標をおく。これは勘だが、恐らく動いてはおるまい。
 衛宮士郎と間桐嬢はヴェルデに向かうようだった。
 それを念頭に置きわき道に入る。建物三つ回る感じで、先ほど二人と話していた位置に近づいた。
 そこには案の定――。
「青少年が白昼堂々ストーキングとは、あまり感心しないな」
「☆×$%‘&%“’(&$%#%&!」
 声にならない声を上げて飛びのく。
 彼の名は美綴実典、先ほど私が話していた支配者、もとい間桐桜に片思い中の哀れな美少年である。――哀れ?
「落ち着きたまえ。とりあえず話すなら日本語か英語で。ドイツ語でも構わないが」
 ぜぇぜぇと息を落ち着けている彼に下らぬ冗談をかけながら待つ。
 そろそろ話せるようになる頃合か。
「ア、アンタなんで」
「散歩中だ。君ほどに特異な行動をとっているつもりはないが」
 シークタイムなく答えを返す。
 彼程度なら何となく言葉が読める事もある。
「べ、べつに後をつけてたわけじゃないっスよ。たまたま見かけたんで、何してんのかなって」
 気になって見ていただけだ、と言いたいらしい。
「特に何も。捕食される側の気分を体感していただけだよ」
 は? という顔をする美綴弟。彼の位置からはあの状況が解っていなかったらしい。
 幻想は未だ尊く、といったところか。
「あ、あの、俺はちょっと用があるんで」
 失礼しますと慌てて踵を返す美綴少年。それを、
「ちょ……アンタなにをっ」
 いつものように、強引に腕を取って引き止めてみた。
 彼が胸に弱いのは学習済みである。嘆くべきか喜ぶべきか。
「あいにくと私は暇でね。蒔寺なら暇だろうと探していたが、この際君のほうがいい。大人しく付き合いたまえ」
 自分でも滅茶苦茶言っている気がするが構わない。
 元々私はこういう人間だし、美綴少年はそれも良くわかっているだろう。
 あたふた慌ててはいるが知り合って当初の頃に比べれば、こういう体勢にも多少慣れてきたようだ。
 いや、諦めた、の間違いか。人、コレを手込めという。
「あの、俺これから用事が」
 あるんすけど、と続けたかったのだろうが、続きを待たずに私は言葉をかぶせた。
「美綴嬢から聞いている。今日は暇だそうだが、急用かね?」
「う゛」
 何故だ、という顔をするも反論がない所を見ると図星か。
 本当は美綴嬢には何も聞いていない。というか、そもそも会ってもいない。
 が、彼女も私も同じ蝉菜マンションの住人。いつどこで会っているかなど少年には判るまい。
 そして、本当に用事がなければこれ以上は何も言えないのが、この美綴実典の少年たる所以である。
 ああ、ちなみに彼に用事があるなど、欠片も信じていないのが、私が私である所以だ。
「なんで解るんだ……で、付き合えって買い物かなんかすか?」
 常の如く諦めた声音。コレも労働だと割り切っているようだった。
 年季が入っているところから見ても、美綴嬢が昔から色々何かさせていたのであろう。
 暗いのか明るいのか微妙な幼少期だったようである。
(しかし、まだまだ青い)
 美綴嬢に鍛えられ、そしてここ最近は私に度々ちょっかいを出されているのに、予想する事が買い物とは。
 青いというよりは甘いというべきか。そんなだから君は姉に勝てないのだ。
 内心の感想は表に出さず、私は彼の質問に答えてやった。
「なに、軽いストーキングだ」
 その台詞を聞いて、彼がどういうリアクションをとったかは、当人の名誉の為に割愛しよう。
 うむ、優しい先輩である。

 ***

「で、今ここに至るというわけだ」
「誰に言ってんすか」
 ちょっとしたサービスだ、と自分でも良く解らない事を呟いて、現実に意識を向ける。
 衛宮と間桐嬢は、なにやら女性用のジーンズを見ているようだ。
 間桐嬢がスカート以外を身に着けているのは見たことが無い。
 それにあのサイズは少々……いや、あれは。
 とある事に思い当たった私に、唐突に美綴弟が声をかけてきた。
 勿論小声である。
「で、いつまで続けるんすか、これ」
 自分はしぶしぶやっているのだ、というオーラを発しながら呟く。
(が、そのわりには視線が間桐嬢に釘付けだぞ、少年)
「ふむ、そうだな。このまま続けてもいいが、あまり蜜月を見せるのも君には酷な話か」
「ぐっ」
 何か美綴少年の深い所に突き刺さったか。
 つぶれたように呻く様を見て、もう一度ふむ、と呟く。
 続行か中断か、数秒考えて――と、
「む、しまったッ」
 一瞬目を放した隙に、ターゲットの二人は私の視覚から完全に消え失せていた。
「なんか、いくつか選んでさっさといっちまいましたよ」
 投げやりな口調で美綴少年が呟く。それに、何故か微妙な違和感を覚えた。
 ああ、これは。
「……間桐嬢と衛宮のツーショットは君が一番警戒すべき状況だが。そのわりには平然としているな、少年」
 そう、目上に礼儀正しい彼がアイツと呼び捨てにするほど、少年にとって衛宮は天敵である。
 端的に言えば嫉妬。みっともないが、それゆえに強いはずの感情を、なぜ少年はあっさりと見送ったのだろう……?
 私の言葉に、自分の態度がおかしいことに気付いたのか。
 アレ、そういえば、と疑問符を浮かべる少年。
「それもそうッスね……って、別にあんなヤツ関係な――」
 いですよ、と言うつもりだったのだろうか。突然響いた音に彼は硬直した。
 時が止まった。少年はあえて動かない。私はどちらかというと動けない。
「……メシ、行きます?」
 言葉を返さず、コクリと頷いた。
 ……たぶん、私の顔は近年稀に見るほど赤面していたことだろう。

 ***

「私の名誉の為に言っておく。音といっても、聞き逃してしまうくらい小さい音だったぞ、と」
「だから誰に言ってんすか? まあ、可愛らしい音でしたけど」
 彼のつっこみと余計な感想を黙殺し、私はやや早足に目的地を目指す。
 街中で何故に競歩を、とはたから見れば思うような調子。
美綴弟も同じようについてくる。
 流石男子といったところか、この程度のスピードは何ともないようだ。
「まあでも、そりゃ腹も減りますよね。1時過ぎてるし、氷室先輩じゃなくても同じっスよ」
 普段負けてばかりなのでチャンスと見たのか。
 やたらと楽しそうに少年は慰める、と見せかけてからかう。言葉を変えて何度も、だ。
 悔恨が残る。この私があんな失敗をしでかすとは、今日は厄日かなにかか。花の乙女として許されざる失態である。
 まだ頬の熱が消えない私とは対照的に、後ろの少年は楽しそうだ。後で見ていろ、と心の中で呟く。
「で、どこいくんすか? 俺は食えればなんでもいいけど」
 わずかに含んだ揶揄には気付かぬ振りをして、その質問に答えた。
「一度行ってみたい店があってね。一人では入れないし、蒔寺では問題がある。由紀香はちょっとした都合で誘えないので見送っていたんだが……まあ、君なら良いだろう――ここだ」
 そこはモールからやや外れた立地で、あまり人が通るような場所ではない。
 看板も控えめで、とにかく地味な喫茶店だった。
 店内から微かに流れるのは聞き覚えのあるクラシック。私のお気に入りのそれは、扉を開いた瞬間ハッキリと耳に届いた。
 高音域のピアノ曲。なみいるピアニストをして、完璧には再現できぬとさえ言われた超絶技巧。
「なんか、聴いたことある曲ですね」
 店にも曲にもそれほど関心はないのだろう。何気なく言った少年に、私は呟くように答えた。
 ソレは、フランツ=リスト作曲、パガニーニによる大練習曲より第三番嬰ト短調。曲名は、

「鐘の音だ」
「え?」

 彼の疑問符を無視して、私は現れたウィトレスに向き直る。
 微妙に見かけたことがあるような顔だ。穂群原の生徒なのかもしれない。
 彼女は私たちを窓際で一番奥の席へと案内した。
 窓はカーテンのような遮りが据え付けられていて、外から覗かれることはなかった。
 客がゆっくりくつろげるようにという気配りだろう。確かに外から見られては落ち着かない。
「少年、紅茶は嗜むかね」
 席に着き、渡されたメニューを広げる前に私は聞く。
「え、ああ、はい。缶でならたまには」
 その答えに、私は少し落胆した。
 インスタントや缶珈琲は珈琲の一種かもしれないが、紅茶と呼んでいい紅茶は、茶葉からキチンと淹れるモノのみだ。
 他のモノは全て、紅茶入り飲料に過ぎないというのに。
「そうか。なら、君が好くかどうかは知らないが、本物の質がどんなものか一度知っておくといい」
「はぁ」
 納得したのかどうか、曖昧な返事からは伺えない。私もそれ以上は続けずに、メニューを開いた。
 とりあえず空腹なのは確かなので、パスタの欄を順に見る。
 こういう店であるから、食事にはそれほど期待しない。
 適当に決めて顔を上げた。
 視線の先には、何やら困った表情でメニューを睨んでいる美綴少年。
 どうしたのだろうかと一瞬悩んで、固有名詞に戸惑っているのだと気が付いた。
 ここにメニューには一切解説がない。
「ああ、茶の種類など君が解るはずもないな。とりあえず食事を選びたまえ」
 私の言葉に頷いて、彼はじゃあコレで、とドリアらしいモノの名を挙げた。
 それを確かめて私は店員を呼ぶ。彼と自分の分を告げたあと、飲み物をどうするか問われた。
「ふむ……では、私はダージリンのオータムナルを。君は、アッサムでいいな」
 尋ねられても解らないといった表情で、美綴少年はコクリと頷く。
 それを見て微かに笑いながら、ウェイトレスは頭を下げた。
「かしこまりました。少々、お待ちください」
 恭しく礼をして下がるウェイトレス。
「……オータムナルってなんすか?」
 二人になって緊張が解けたのか、僅かに肩の力を抜いて彼は言う。
「収穫時期の事だ。オータムナルはそのまま秋摘みのモノを指すが、……詳しく解説すると長くなるぞ」
 それは勘弁、とばかりにやっぱりいいっスと呟く少年。
 真に解り易いが、私としては少々残念な展開だ。
 いや、やはりあとで語って聴かせるとしよう。是非にも。
 そうして、しばらく他愛の無い雑談に入った。
 話題は美綴嬢や蒔寺の事が大半だったが、私と実典少年が話すと、知らぬ間に私が少年で遊ぶ事になる。
 特に意識していなくてもこうなるのだから、原因は私だけにはないだろう。そういう雰囲気があるのだ、彼は。
 僅かにふてくされて――もはやいつもの事だ――少年がそっぽを向いている間に料理が届いた。
 子供のような表情を他人に見られたのが恥ずかしかったのか、彼は途端に姿勢を正す。
(そんな事をしても誤魔化せはしないのだが)
 微笑ましさについ笑みが浮いてしまう。
 うむ、やはり珍しいほど純朴な人格だ。
「ちぇ……意地の悪い笑み浮かべる前に食べたらどうすか。冷めますよ」
 顔を赤くしていては皮肉にもならない。
 クスクスとからかいながら、それもそうだなと返した。

 ***

 味はそれほど悪くは無かった。
 ただ、食事が目的という場所ではないので量はいまいちだったか。
 私は特に不満はないが、育ち盛りの男子には物足りなかったと見える。
 なので食後のティータイムにはデザートを追加した。
 当の本人はスコーンをかじりながら、初めての紅茶を味わっている。
「どうだね。缶紅茶とは違う飲み物だと思うのだが」
 僅かな期待を込めて言う。紅茶好きは、とかく感想を訊きたがるものだ。
 それが缶の紅茶しか飲んだ事のない者だというのなら、その衝動は尚更抑え難い。
 それは私としても例外ではなかった。
「え、いや、まあ……ちょっと見直しましたけど」
 別に感動するほどじゃないっス、と続ける美綴少年。
 しかし、そっぽを向いて照れながらでは説得力は欠片も無い。
「ふふ、そうかね」
 根は純朴だが、言動は素直ではない少年である。
 それを容易に悟らせるのが彼の欠点であり美点だ。
 あの態度では、感動したと言っているようなものである。
 他人に勧めたものが気に入られれば嬉しいのが人の常だ。思わず笑みがこぼれるのを自覚した。
 と、突然私を見てぼーっとした表情をする美綴少年。
「む、何かおかしいところでもあるかね」
 そう言って髪を梳く。特にゴミらしきものはついていないが……
「えっと、別におかしくはないです。ただ、」
「ただ?」
 そこで言葉を切る美綴少年。促すように私は言葉を繰り返した。
「あ、別に変な意味はないですよ。ただ、――楽しそうだなって」
「――む?」
 恐らく、それは不意打ちだったのだろう。
 絶え間なく稼動している私の思考が、ほんの一瞬だけ、ただの一刹那だけ停止した。
 その様をどう捉えたか。何やら慌てて言葉を紡ごうとする美綴少年。
 しかし何を言えば解らないのか、あ、とか、その、とか言うだけで本文が出てこない。
 それを見ているうちに、やっと思考が再起動してくれた。

「そんなに、楽しげだったかね」
 表情も抑揚も無く呟く。
 その様は、まるで人形のようだと、と他人事のように思った。
 そんな私に戸惑っているのか、わずかに黙る美綴実典。
 しかし、一つ息を吐いて答えてくれた。
 たぶん、誠実な声だったのだろう。
「えっと、なんとなくですけど……そう思いました」
「そうか」
 一言呟く。感情も、感慨も無く。
 そして、意味も無くもう一度呟いた。

「……そうか」

 ***

 そのあと、微妙な雰囲気から復帰した私は、美綴少年に紅茶について語って聴かせた。
 彼には良く解らなかったようで、曖昧な相槌で精一杯だったようである。
 目上の相手に逆らえない礼儀正しさと、知らないがゆえの戸惑いに板挟みされた少年を、確信犯的な会話でころがしながら楽しんだ。
 全く、自分で言うのもなんだが嫌な女である。
 そうしているうちに紅茶もデザートも尽きて、そろそろ帰ろうという事になった。
 代金は、美綴少年が全額払うと買って出たが、今回は私の趣味だったのでそういうわけにもいかなかった。
 僅かな押し問答の末、食事の代金は少年持ち、紅茶の代金は私持ちということになった
 ちなみに、どちらの支払いが多いかは秘密である。
 まあ、――悔しそうな顔が可愛かった、とだけ付け足しておこう。

 ***

「さて、随分と連れ回したな。済まなかった」
 まだまだ陽は高いが、別にデートでもないので彼が無理に付き合う必要は無い。
 ただなんとなしというか、場の雰囲気で海浜公園まで二人で歩いた。
 適当なベンチに座り、私が最初に呟いたのが先の台詞である。
「いえ、わりと楽しかったっスよ」
 微妙に疲れ気味な声だが、別に嘘を言っている感じはしなかった。ならばいいか、と内心で呟く。
「ああ、とりあえず君には礼を言っておく。これでも臆病でね、中々本格的な店には一人では入れない」
「意外っスね。いつも自信満々だから、そんなの気にせずズカズカは入っていきそうですけど」
 一体私にどんなイメージを持っているのだね、と問えば、悪い魔女じゃないんすか? と切り返された。
「上手い返しだな、君にしては」
 しかし、確かにそのとおりだと私は笑んだ。
 また、少しだけ雑談したが、デートでもないのにあまり無意味に引き止めるのも悪い話だ。
 その程度は思いやれる私なので、今日は解散ということにした。
 別れの挨拶に、ではまた、と告げて立ち上がる。
 彼と私は考えれば同じマンションの住人だが、せっかく新都にいるのでまだ家に帰るつもりはなかった。
 彼もそれは同様なようで、互いに違う方向に向かって進む。

 ああ、そうだ。
「一つだけ言い忘れていた」
「ん? なんすか?」
 きょとん、とした美綴少年の声。表情も同様だ。
 今日のヴェルデのことを思い出す。間桐嬢が見ていたのはジーンズだった。それも、彼女とはどう見ても合わないサイズの。
「衛宮と間桐嬢が選んでいたのは、おそらくライダー嬢へのプレゼントだ。あれはデートではない。ただの買い物だから気を落とすな」
 目を点にしている美綴弟。何か言いかけたがまだこちらの台詞は終わっていないので、それから、と続けた。
「間桐嬢は紅茶党らしい。さっきの店はアタリだから、今度誘ってみたまえ」
 必ず喜ぶと思うぞ、と告げて、言うべきことを終えた。
「あー……もしかして、その為だったりしたんすか?」
 それは、何故あの店を選んだのか、という意味だろう。
 ああ、と肯定。まあ、私があの店に言ってみたかったも事実だが。
「半分は、だがね。まあ後は君次第だ。せいぜいがんばりたまえ」
 そう言って、今度こそ踵を返した。
 言葉は無かったが、なんとなく背後で頭を下げている気配がした。
 思わず、苦笑い。……だから、少年だというのだ。
 これ以上語るべきコトは無い。あの程度のお膳立てで間桐嬢がどうにかできはしないだろう。
 あくまで切欠。誘う口実に都合のいいものを一つ示しただけである。
 曰く、恋に師匠無し。私ではこの程度だ。たいした手助けにはなるまい。
 ゆえに思う。願わくは、少年の想いがいつか彼女の心に届く事を――
「まあ、届いても振り向くとは限らないのだが」
 そう呟いて、私はクスリと笑った。



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