気分が悪い。
 その一言は何か不快な目にあった時にも使用するが、今現在私が用いている場合に限るなら、その意味は正しく文字通りだ。
 ネガティブな情動を表すのではなく、身体機能の悪化とそれから来る精神状態の鈍化。
 熱による意識の侵食は顕著ではない。代わりに血圧低下による、一時的な視覚狭窄が感じられる。
 ただ廊下を歩くという行動に途方もない徒労を感じた。風邪の一種と判断するが、むしろ、主因の殆どは疲労か。
 世界が揺れる。否、揺れているのは私の体だ。
 ゆらゆら、ゆらゆら、と安定しない視界で自分の手を見つめれば、赤、緑、青と三つにずれた。
 そのうち一つが独りでに裂けてニヤリと笑う。
 ああ、これは前兆だな。と頭蓋の裏側にいる私が呟く。そして、
「――っ、……ぁ、」
 突然に――或いは予想通りの――酷い眩暈に襲われた。
 視界が脈拍に沿うように色を失くす。
 白と黒(モノクロ)を経て暗転。気が遠くなるほどゆっくりとした色彩の移行の中に、吐き気を催す斑の蛇を幻視する。
 苦痛を焦らすという間延びした拷問に耐え切れず、私はザラリとした壁に手をついた。
 内圧が下がるような錯覚と頭痛。額の辺りを空いている手で押さえる。
 おぞましいな、とミキサーで撹拌されたような意識で思った。
 ヘドロの底に陽だまりを見るような、虹の根元を手ですくうような、不毛を伴う倦怠感。
 どこか酷く醒めた自我の断片が、これは重症だと判断した。
「まず――」
 やはり、無茶だったか。相変わらず、バラバラになりそうな私の裏側で、知らない私がこちらの気も知らないような冷静さで呟いている。
 ソレに対し、お前が代われと思ったところで、どちらが代わっても私は私かと苦笑した。

 今日は12月23日。冬休みを迎える最後の登校日だ。
 終業式の約一時間。講堂で教師達の話を聞いていた時から、睡魔にも似た意識の断絶はあった。
 朝、食欲が無いあまりに、水しか飲まなかったのが祟ったとみえる。
 一緒に帰ろう、と蒔寺と由紀香に声をかけられたが、家までもたないと判断。悪いが用事がある、と嘘の口実を告げた。
 顔色に出ていたからか由紀香は酷く心配気だったので、蒔寺に目配せして強引に帰らせた。
 人の気持ちを酌むのが実は上手いヤツである。正直に言えば有難い。
 ひとまず保健室へ行って休もうかと思っていたが……どうやら、自分の想定よりも体調の悪化は速かったようだ。
(く……半日程度なら乗り切れると思ったが、私も存外脆いな)
 曖昧な意識はもはや周囲を探る事も出来ないが、ほんの一瞬前の記憶では人の気配は無かったはず。
 しばらく教室で息を整えていたせいなのか、部活に勤しむ者以外は皆早々に帰路についているので、この廊下はエアポケットと化していた。
 ここで倒れてはしばらく放置の憂き目に遭うと判断し、何とか保健室へと続く道を進み、やっとの思いで保健室に一番近い階段を半ば降りたところで――
 ああ、もうだめだな。と、最後に裏と表の声が綺麗な形で唱和した。

 ぐらり。混濁した意識が明確に知覚できるほどの、地面がまるで垂直の壁になったかのような、強烈な平衡感覚の喪失。
 自分が今いる場所が階段だと思い返したが遅かった。
 マズイな、と思った瞬間には奈落の穴に陥るような加速を感じ、衝撃。
 脳を攪拌する回転に意識を切り刻まれながら、私の体は冷たいリノリウムの床に衝突した。
 生きた心地がしない。今の私は、笑いを誘うマネキン人形の如しだろう。
 肩や腰に鈍い痛覚。側頭部も打ったのか、急速に歪んだ景色が遠退いて行く。
 カラカラ、と笑うような音がしたが、どうやら眼鏡がどこかへ投げ出されたようだった。
「ああ――」
 誰かの人影が見えて、慌てたように自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
 しかし、もはやテレビのノイズのようにバラバラになった思考が思い浮かべたのは、眼鏡が壊れてなければいいが、という場違いな心配で。
 それも最後。いい加減に限界に来ていた脳のブレーカーが落ちたのか、プツンと映像が途切れるように視界が暗転した。



 氷室恋愛劇場 第二幕
         Un Sospiro



 目が覚めた。
(ここは、)
 白い天井が見える。
 どう見てもソレは自分の部屋の照明などではなく、どう寝惚けていても今私が寝ているソレが自室のベッドだとも思えない。
 微かに鼻につく消毒の匂いと、カーテンによって区切られた狭い空間。
 それは典型的なある場所を連想させる。
「保健室、か?」
 言いながら上半身を起こす。と、
「あら、起きた?」
 私の呟きに反応したように、カーテンの向こう側から明るい響きが返ってきた。
 ベッドを隠す布を引く。サァっという音がして部屋の詳細があらわになる。
 視線の先には白衣姿の年配の女性が一人。
 私の記憶が正しければ穂群原学園の保険医だ。
 この場が保健室である事は疑う余地がないだろう。
「あの、私は……?」
 しかし、記憶がない。思考はわりとスムーズだが、全体的に靄がかかっている。
 どうして私がここにいるのか、保健室にいる以上体調を崩したのは予想がつくが……。
「……っ、」
 唐突な痛みが思考をバッサリと切断した。頭の中を占めていた様々な疑問が飛んでいく。
 しかし、それで何かが閃いた。確か、私は、
「貴女、倒れたのよ」
 そう、倒れた。
 朝から具合が悪いのは自覚していた。
 だのに無理を通し、心配してくれた由紀香の言葉を聞かずに嘘を吐いて帰した。
 蒔寺とて、私がここまでダメだと解っていたなら、無理にでも付き添っただろう。
 大丈夫だと言ったのに、これでは信用を裏切ったようなものだ。
 そのあと、よりにもよって階段で倒れ前後不覚でマネキンの真似事。
 今振り返れば、愚かだとしか言いようがない。
 痛み具合から、どうやら頭は軽くぶつけただけのようである。
 逆に腰と肩が少々障るが、階段から転げ落ちてこの程度なら十分に僥倖だ。
 しかし、その場面を自分で思い描いてみれば、あまりの無様さに自嘲する気も起きなかった。
「私を運んでくれたのは、由紀香ですか?」
 いや、意識を失った人間を運ぶのは由紀香では辛いか。
 もともと私とは10キロ近く体重差があったはず。おそらく蒔寺を呼んだのだろう。
 奴と私は似たような重さだが、あの動物なら二倍くらいは可能なはずだ。
 私を心配して戻ってきてくれたのだろうか……?
 と、自分の質問に勝手に内心で理屈をつけた。が、
「ああ、陸上部のマネージャーさん? ――違うわよ。名前は知らないけど、男の子だったもの」
(……なんだと?)
 男? あいにく知り合いにあんなエアポケットを通るような人間はいないはずだが……衛宮か? 
 奴ならどこにいようと、何ら不思議ではないが。
 しかし、あんな場所でも通る者が皆無なわけではない。そのあたりは全校生徒に事情でも聞かない限りは推測もできないだろう。
 絞り込むのは不可能だな、と結論付けたところで眼鏡がないことに気が付いた。
 枕元を探すが、ない。
 布団に隠れているのかと探すが、ない。
 近くには存在しないようだ。もしかしたらあの階段辺りかと少し焦りかけた所で、はい、とおもむろに手渡された。
 言わずもがな、私の飾り気がない丸眼鏡である。
 はっきりした視界に安心して視線を滑らせると、壁にかけられた時計が目に入った。短針がUの僅か先を示している。
(3時間近く寝込んでいたのか……)
 状態を確認する。
 視界は明瞭で、頭痛はあるが軽微だ。手や足に痺れもないし、舌も同様。後頭部に違和感もないから、神経は無事だろう。
(むしろ間接が痛いが……これは打ち身だろうな)
 階段からの墜落による負傷はないようだ。風邪に侵された体も今は問題ない。
 むろん寒気や微熱なら感じられるが、風邪のせいというよりは――ついこの間終わった大会の疲れが、今頃になって出たようだ。
 結果はソコソコといった程度のものだったが、三年続けた習慣が終わったともなれば体調も変わる。
 いや、むしろ精神的なモノが現れたか。どちらにしろ、今日一日休めば治るだろう。
 ここにいてもこれ以上意味はないと判断し、私は帰宅の意図を告げた。差し出されたカードに、退出時間を書き込む。
 名前と症状、入出時間はなぜか既に書かれている。当然私の字ではなかった。
「はいお疲れ様。気をつけて帰るのよ」
 その言葉に、世話になりましたと返してカバンを取った。
 一礼し、そのままがガラリとドアをスライドさせて退出し……。

「ああ、えっと……大丈夫っスか?」

 何故か、扉の向かい側で、美綴少年が壁に背を預けて座っていた。

 ***

「――なるほど」

 帰路につく。隣には無愛想な顔で明後日を見ながら美綴実典が歩いている。
「別に好きで待ってたわけじゃないッスよ。蒔寺先輩に逆らったら後が怖いですから」
 美綴少年曰く、弓道部に向かっていたら、突然蒔寺に呼び止められて保健室に行けと命令されたのだそうな。
 あの先輩が意味不明なのはいつもの事ですけど、なんか手負いの獣って感じがしたんで。とは少年の言である。
 わりと肝の据わった表現をするのだ、彼は。
 ……そのあとにすぐ、これあの人には内緒にして下さいよ。と口止めをするあたりが実に彼らしいのではあるが。
 年上の女性、それも間違っても清楚とは言えないタイプに耐性があるのは、明らかに美綴嬢の功績である。
 が、同様のタイプに強い苦手意識をもってしまっているのも、当然美綴嬢の責任だろう。
 なるほど、確かに間桐嬢は彼にとって天女の如しか。
(まあ、彼女も見た目ほど純粋無垢ではないようだが)
 恐ろしい思考は打ち切るに限る。
 かくして少年は蒔寺の言い付け通りに保健室へ向かい、倒れた私を発見したのである。
 少年は当然として、ヤツにも後で礼を言わねばなるまい。
 まあ、それは良い。それよりあの時聞こえた声の焦燥感を思い出すと、どうやら倒れた瞬間を目撃されたようだ。
 知り合いが目の前で階段から墜落したとすれば、この私とて焦るだろう。
 彼の精神にかけた負担は想像に難くない。……酷い失態だ。
(まあ、失態というのなら今日は徹頭徹尾恥の上塗りだが)
 冷静に分析して頭痛がした。全く、これは何の様だろうか。
 動物と少年に助けられるとは、貴様それでも氷室鐘か――、と。
「まあ、ピンシャンしてるみたいだし、安心しましたよ。氷室先輩、何か怪我とかシャレで済みそうにないんで」
 自分の思考に埋まりかけたところで、少年の声が引き戻してくれた。
 一度考え出すと、少々回りが遠くなるのが私の生まれながらの悪癖である。
「それは、楓なら洒落で済む、という意味かね?」
「い、いや、それは」
 そう言ったきり言葉を濁す。図星だったようで、上手い言い訳が思いつかないらしい。
 その様は最近の美綴少年らしく、私は少しだけ安心した。
 彼には、あまり心配顔は似合わない。
「ふむ、君には今回借りがあるしな。惜しいが、ヤツには黙っておくとしよう」
 そう言ってクスリと私は笑った。最近、良くこういう笑いをする気がする、何故だろうか。
「ち、折角の貸しがすぐに返済っスか」
 本当に残念そうに少年は呟いた。それになんと答えたものか思っていると、
「まあいいや。氷室先輩って、暗い顔あんまり似合わねーし」
「――――――」
 その発言が先の安堵と酷似していて、心が読まれたか、と馬鹿な事を思った。
 一瞬だけ心臓が大きく跳ねる。絶対顔に出ているな、と妙な予測が脳裏を過ぎった。
「つ、着きましたよ」
 恥かしい事を言った自覚はあったのか、それとも私の顔を見たのか。 バス停についた事くらい私にも解るのに、慌てたように少年は言う。
 その照れ隠しで、幾分こちらの精神は落ち着いてくれた。
 同時に目の前に停車するバス。果たして、タイミングは良いのか悪いのか。
 そんな事を気にする事も含めて、今日の私は、頭の天辺から足の爪先までらしくないと自覚した。
「済まないな。気を使わせるつもりはなかったのだが」
 苦笑を浮かべてそれだけ言った。いやいいっス。と目線もあわせないままの返答。
 開いた乗車口に乗り込む。
「さあ、さっさと来たまえ」
「解ってますよ」
 振り返って言う私の言葉に、つっけんどんな口調で少年もあとに続いた。
 バスが走る。私たちの微妙な空気は、新都につくまで崩せそうにもなかった

 ***

「…………疲れた」
 ガチャリと玄関の錠を開け、扉を閉めたところで呟いた。
 風船にたまった空気が抜き出る感じである。
 その心はと問われれば、逃げも隠れも致しません、といったところか。
 もう煮るなり焼くなり好きにすればいい。
 妙に長い廊下を黙々と進む。どの部屋のカーテンも締め切っているようで、廊下は妙に薄暗い。
 電気をつけようにも、構造の欠陥上この長い廊下にはそれ自体が存在しない。
 曰く、その先には赤頭巾が……いやいや、僅かに縦の座標がずれているな。
 陽の差し込む余地はなく、どの部屋も照明は消されている。
 この寒い季節に暖房器具が稼動している様子もない。
 つまり、家には誰もいないようだった。……まあ、いつも通りのことだが。
 挨拶をする者もいないので、まっすぐに自分の部屋へ。
 扉を開き、コートをぞんざいに脱いで壁にかけた。
 そのまま制服も着替えずベッドに倒れこむ。髪が乱れるのにも構わない。
 手にコツンと硬質な何かが当たったので手にとって見ると、それはオーディオのリモコンだった。
 なんとなしにスイッチオン。流れる曲はリスト作曲、超絶技巧練習曲より第七番、英雄。
 入っているのは私的に編集したリストのみのCDである。
 そのまま聴こえる音色に耳を傾けながら、ゴロンと仰向けに転がって眼鏡を外し、枕元に放り投げた。
 知り合いが見たならば、普段のイメージの違いに戸惑うかもしれないが、然り、今日の私は私ではない。
 私本人が言うのだから間違いなどないだろう。……ない、はずだ。

 ***

 帰宅までの事を思い出す。
 バスの中では会話はあまりなかった。
 いや、なかった、というよりは憚られるといった有様だったが。
 私は普段のリズムではなかったし、それは美綴少年にも伝播していた様子だ。
 最近なまじ話す機会が増えたために、初めて話したときより噛み合わない。
 結局新都へ到着するまで会話らしい会話はなかった。
 実のところ、私は無言でいるのに苦はないのだが、少年の方はそうでもなかったようだ。世辞にも居心地が良さそうには見えなかった。
 相手に緊張を強いたのは失態である。今日で幾つ目だろう……もはや、数える気にもならなかった。
 バスを降りたのは新都の駅前。ヴェルデ付近のショッピングモールだ。
 特にどこかに寄ろう思ったわけではなく、ただ単に蝉菜のマンションには一番近い停留所がそこだっただけである。
 無論、同じマンションに住む美綴少年とて同様であるが、午前中に終業式が終わった身だ。私に付き合って3時間――そう、良く考えれば3時間も、だ――潰れたとは言え、高校生の男子生徒が大人しく家路につかなければならない時刻ではない。
「そういえば少年、君、昼食はどうしたのかね」
 我が校は、長期休暇に入ると購買と食堂は営業しない。一般登校日ではないので、それは終業式も同様だ。
 ゆえに昼食を摂るには学園を出るしかない。保健室前で待っていた彼はどうしたのだろうか。いや、3時間もずっと動かずに待っているとは、流石に私も思ってはいないのだが。
 深山の商店街で済ませました。という類の答えを予想したが、なぜか返答がない。
 はてな、と振り返ると、困ったような少年の顔があった。
「どうした?」
「い、いや……実はまだっス」
 正直に言えば驚いた。弓道部に行っていたのだろうが、それにしても良くもったものだ。
 彼の家で誰が台所に立つのかは知らないが、武芸な家風からしても、昼食までは用意してもらえないのではなかろうか。
 どこぞの家事妖精兼自立工具ではあるまいに、美綴少年が自分で調理するというのも想像がつかぬ。
 であるならば、彼は新都のどこかで買い食いなりするのだろう。それが一番手っ取り早い。
 ゆえに、彼が私に付き合うのはここまでだ。それ以上はついでではなくなってしまうから。
「ふむ、じゃあ今日はここで。見送り助かった、この礼は必ず」
 そう言って一度頭を下げた。下級生といっても世話になったのなら、特に抵抗はないのだ。
 これ以上言うことはないので踵を返す。今度菓子折りでも持っていこうかと思案していると、
「あー……いや、ちょっと待てよ」
「む?」
 何か言い残したことがあるのかと振り返ると、またなぜか困り顔。
「俺はいい。俺はいいんだけど」
 いいんだけど、とそれっきり言葉が出ない。
 良く分からないが、君がいいのならそれで良いのではあるまいか。
 そんな無責任な事を考えていたせいか、次の言葉に身構えが出来てなかった。
 つまるところ、今日一番の私の失態はその不注意であっただろう。

「――今のアンタ、そのまんまにしておけないだろ」

 途中で死なれたら洒落にならねえし、と中々クールな口調で言った。
 が、照れ隠しと悟らせるあたりまだまだ未熟だ。未熟、なのだが、
 皮肉を返そうと思ったのに、何故か何も出てこなかった。
「あ、ああ……そうだ、な?」
 全くどうかしている。少年のストレートな物言いなどとうに把握しただろうに。
 この程度で不意を突かれるなど、私こそが未熟な証拠である。渇。
 何か妙なモノが混ざったが、思考を停止している場合ではない。思い出せ、氷室鐘が常に重んじるのは道理である。その理、論を俟たずゆえにああだからつまり。
「しかし、これ以上無意味に君の時間を奪うわけには」
 そう、そうだ、氷室鐘。熱になど、いや病魔になど負けてはならぬ。
 常に平常心を保てば明鏡も裏を照らさず……と、まてまて、それは違う。
「それにだな、大体君は空腹ではなのか。私などに構わず好きなところで――」

 ――食べてきなさい、という、つもり……だった、のに。

 唐突に響いた音に、言いかけた言葉が停止した。ついでに、さっきまでの混乱も完璧にリセットされたようだ。
 だからなんだと。
 あー……と、止まった時の中で少年は言う。
 悪夢的なまでに鮮明な既視感。というか、つい最近やりましたよねこれ、と何処かでもう既に無いモノが囁いた。
「…………メシ、行きます?」
 言葉も返さずうなだれる。知らず、ため息を一つ吐いた。
(大馬鹿者か、私はッ)

 ***

「私の名誉の為に言っておく。今日は朝から何も食べていないのだ」
 言い聞かせるように呟く。誰にあてたかは是非もない。
「前にも聞きましたよ、それ」
 二度ネタが来るとは思わなかった、と呟く少年。
 失礼な、ネタではないというに。あと笑うな。
 赤くなるどころかお約束過ぎる自分に頭が痛いが、とりあえず昼食を摂ることにした。非常に認めがたいが、空腹は事実である。
 といっても、体調は精神に影響するほど絶不調だ。油分は言うに及ばず、甘いものも喉を通りそうにない。ないのだが、
「しかし、だからといってこれはどうなのだろうか」
「文句言ってる場合じゃないと思うんですがね。つーか、早く食わないと伸びますよ」
 まあ、それは確かにそうなのだが。
 しかし、軽微とはいえ頭痛に苦しんでいる上に、気を抜けば眩暈で倒れそうな人間に中華そばとは。
 確かに体は暖まる。
 消化も悪くはないのだろう。あっさり味らしく喉も何とか通るようだ。
 だから何とか食べてはいるのだが……問題は、問題は、
「少年、君が食べているのは、これよりさらに、私向けなような気がしてならないのだが」
「そうすか?」
 あと少年じゃないっス。と無駄な訂正を入れる少年を見遣る。正確には彼が食している代物を、だ。
「――雑炊というのは、病人食の典型ではないのか?」
 そういえばそうっスね、ととぼけたように答える少年。
「でも氷室先輩、自分で中華そば頼んだじゃないですか」
(ああ、確かにそうではあるが……)
 至極まともな道理を囀る美綴少年。微妙に頭痛が増したのは何故だろう。
「気付かなかっただけだ」
 知っていたなら教えて欲しかった、とは流石に言えなかったが、言外には十分に伝えておく。

 告白すれば。
 ワタシは、中華そばなんか食べたくなかったのだ。
(む、それは流石に)

 黒い繭が笑う。それはやめておけと笑っている。
 どこか、知らない何かに見られている気がした。
 頭痛のせいか、妙な思考が混じってきた事に言い知れぬ不安を抱いていると、

「じゃあ、交換でもするっスか?」

「……ッ」
 キッと目を細めて振り返る。
 流石に揶揄が過ぎたと分かったか。冗談っスよ、そんな事死んでも出来ません。と頬を掻く少年。
(そうか。――ならば、死ぬと良い)
 ガタッと誰かが慌てた音がした。
「な、なにするんすか!」
「見た通りだが。あと食事中は静かにしたまえ」
 何をしたか。後は想像に任せようと思う。
 あえて追記するなら、――私も恥ずかしかった、と。

 ***

(……………)
 思い返すだけでも赤面する。
 常の私から想像するなら、相手が異性であった事がそもそもおかしいし、そうでなくともあんな真似を出来たかどうか。
(キャラが――殻が?――違った、と言うべきか。むむむ)

 まともな思考がまとまらない。どうにも、頭痛に流されているようだ。害のない悪意を感じる。
 しかし、先の食事の一件。あんな場所で騒ぐくらいなら、ああ、私が昼食を作ってあげればよかったのか、と思った。
 だが、それでは本末転倒だろう、と苦笑を交えてツッコミを入れる。
 そんな体力は今の私にはないし……だいたい、そもそもそれは何処の恋する乙女かと――
(――――――っ)
 それ以上続けてはシナプスが焼き切れると直感し、一度頭を振って最後の一文を消去した。
 とりあえず、今言えることは、
「今日の私は、私ではない」
 大切な繭を守る為に一言呟いて、まだ陽も高いうちから瞼を閉じた。
 その瞬間、丁度切り替わったその音は、今の私にピッタリの曲名だった。

 Un Sospiro

 ため息、である。

 ***
 
「……む、しまった」
 バサリ、と上半身を起こす。時計を見ると知らぬ間に2時間が経過していた。
 窓を見遣れば、カーテンの隙間から僅かに覗いていた明るい陽光はすっかり無くなっていて、微かにオレンジ色の光が見える。
 消した記憶のないオーディオが沈黙しているところを見ると、どうやら全ての曲を消化してしまったようである。
 特別何か聴きたい気分でもなかったので、黙ったまま次の指示を待っているソレに休息を命じた。
 体調は幾分マシになったようだ。やや疲れと痛みがあるが、動けないほどではない。
 朝は、血圧が足りない状態で動いたのが拙かったのかもしれない。
 昼食を摂って眠った分、体力は回復したようだ。……現金な体だ、と思わないでもない。
 僅かに残る頭痛を振り払って、とりあえず部屋を出ることにした。これは、時間が経てば消えるだろう。
 暗い廊下を歩く。リビングのドアを開け、電灯のスイッチを押した。
 パっと光が灯る。薄暗い闇は切り払われ、綺麗に片付いた部屋が見えた。
 室内は静かだ。もう夕食時だというのに、私以外には誰もいない。テレビもついていないので、私が声を発しなければ人の気配は希薄になる。
 電話機を見ると赤いランプが点滅していた。それは、留守電が入っている合図。
 伝言を再生。しかし、言葉を聴く前に受話器を置いた。内容は分かっているから、わざわざ時間を使う必要はない。
 目障りなランプを消去して、私は冷蔵庫の扉を開けた。
(む、少々心もとないな)
 この間のようにどうしても足りないといった感じではないが、多少補給する必要を感じた。
 今から買いに行くとしよう、と呟いて、部屋へ戻る。その程度の活力は取り戻していた。
 先ほどは本当は眠る気はなかったので、まだ制服のままだった。寝相が悪い方ではないが、多少皴が残っている。
「まあ、冬休みだ。いずれクリーニングにでも出すとしよう」
 今は着替えるのが先決である。とりあえずリボンを解き、ブラウスに手をかけた。
(下着は……後で良いか)
 何を着ようか、と箪笥を開けた所で、姿見に映った自分の体が見えた。
 彼は知っているだろうか。自分のスタイルは、間桐嬢と酷似していることを。
(馬鹿馬鹿しい)
 どう考えても、下らない疑問だった。軽く頭を振って思考を切り替える。そういえば、何か忘れていることがあったような。と――、
『プルル……プルルルルル』
 突然電話の音が鳴った。発信源は私の鞄。
 家庭用の電話機ではない。着信音は皆のように音楽ではないが、私の携帯の音である。
 私は、携帯電話の着信音は、常にシンプルな効果音に設定することにしているのだ。
 あまり、着メロだとか着歌というものは好きではない。
 理由を問われれば、好きな曲なら自由に聴きたいというのが私の主張なのだが、中々理解を得られていないのが現状である。
 何はともあれ、とりあえず携帯を取り出した。画面には、蒔寺という文字が躍っている。
 すぐに通話ボタンを押した。
「もしもし、楓か」
「おー氷室、起きてたか。てっきり、くたばってふやけてるもんかと」
 開口一番、無礼千万のご挨拶。相変わらず乙女とは思えない奔放さだ。
(これで、自宅では礼儀正しい着物美人というのだから、世の中どうにも複雑に過ぎるな)
 どっと疲れた気がしたが、もはや中学時代からの腐れ縁である。
 黙っていれば、という但し書きは、人がいると無条件にテンションを上げようとするこやつには、全くの無意味なのだ。諦めるしかないだろう。
 私は内心ため息を吐いて、電話の向こうにいる黒豹に先を促した。
「全く、いきなり失礼だな君は。私はそこいらの干し物ではないぞ。――まあそれはともかく、何か用かね」
 蒔寺が電話をかけてくるのは珍しい事ではないが、意味も無くかけてくるのは稀だ。大抵の場合は、連絡を告げるとすぐに切ってしまう。
 何でも、相手の顔が見えないのは気分が悪いのだとか。
 言う事は可愛らしいのに、実際は電話だろうと現実だろうと変わる事が無いのが、ヤツがヤツ足りえる所以である。
「おう、ちょっとだけ確認をね。昼間見たときは、すぐにでも岬に身を投げ出しそうな顔してたけど、アレから大丈夫だったか?」
(中々面白い表現をしてくれるな、楓。あまり舐めた事を言っていると、バターになるまで校庭を走り回る事になるぞ。……まあ、冗談はさて置き)
 半ば本気の思考を脇に追いやり、そうか、と不意に納得する。忘れ物を思い出したのだ。
 私には、コヤツに言わねばならない事があったはず
「ああ、君のお陰でなんとか。正直、助かった。礼を言う」
 そう、蒔寺が美綴実典を遣わせてくれなかったら、私は階段から落ちて気絶したまま、しばらく誰にも発見されずに倒れていた事だろう。
 平常の登校日ならいざ知らず、生徒の殆どが帰宅して校舎は蛻けの殻と化すのである。
 残っている生徒といえば部活に勤しむ者たちだが、三年は引退しているし、そもそもそれほど部活動に力を入れている学園ではないので、人数は実は多くない。
 文系は校舎が違うゆえに寄り付かず、運動系はそもそも校舎にもいないのである。
 ゆえに、ただえさえギリギリだった私は、肺炎でも併発しかねない状態だった。
 だから、彼女の行動は私にとって非常に有難かったのだが、
「ん、あたしなんかしたっけ? いつ?」
 あっけらかんとのたまう蒔寺。まあ、考えてやった事ではなかったのかもしれぬ。
「だから、今話しているのは昼間の事だろう。あの後、実は倒れてね。君が美綴少年を呼んでくれなかったら、私は今頃マネキンになっていたところだ」
「――――」
 沈黙が返ってくる。
 マネキンという表現は難しかったか。
 あの時の私は正しくそのようなものだったのだが、楓の想像力ならあらぬ方向へ暴走しているのかもしれない。
 電話で混乱させてもそれほど面白くないので、とりあえず解説なり解脱なりさせてやろうかと思案していると、おもむろに蒔寺が呟いた。
「なあ、氷室」
 短く小さな言葉に、なんだ? と問い返す。何か妙な疑問でも思いついたのか、と思っていると、

「あたし、美綴弟……実典だっけ? ――あいつと、今日一回も会ってないんだけど」
「――――は?」

 待て。
 ちょっと待て。
 それはおかしい。
 なんだそれは。どういう理屈だ。それでは、道理が合わぬではないか。
 では、こいつはこう言うのか。
 今日、私が倒れた時助けてくれた美綴少年は、
「お前の差し金では、ないと言うのか?」
 思考が知らず口に出ていた。
 今日は色々私の予想を裏切る事象が頻発していたが、ここまでくると、もはや現実そのものを疑る必要もあるのではないか――、
「氷室が何勘違いしてるの知らないけど、あたしも由紀っちも、美綴弟なんて擦れ違ってもねーよ」
 ああ、由紀香ではない。それは解っていた事だ。
 いくらほとんど交流がなかったとしても、一度でも会ったなら楓と由紀香を間違える人間などいるはずがない。それは良い。
 問題は……そう問題は、蒔寺と口にしたのなら、それだけで人違いはありえないということ。
 この強烈な人格を目の当たりにしたのなら、もし蒔寺が顔を隠していようと100人が100人とも見抜く。
 何故なら、コイツはそういうやつだからだ。もはや、記号化していると言ってしまってもいいくらいに。
 ゆえに、私の記憶がどういうわけか、唐突に現れた宇宙人や未来人に弄られていない限り、美綴少年が蒔寺に会ったと言った以上、今日の昼間蒔寺は美綴少年を捕まえて、アイツちょっと心配だからおまえ見に行け、といった風に命じなければならないのだ。
 それが論理。一の次が二であるように、そうでなければ立ち行かない物事の道理。
 それでも、あえてその道理を崩すものがあるというのなら、それは、
(嘘が、ある)
 前提そのものが、不正である場合のみだ。
 蒔寺ではない。コイツが嘘を吐く理由が存在しないし、会ったことを無かったと偽証するのは極めて危険だ。
 口止めでもしない限り、そういうものは必ずばれるのだから。そもそも、こういう嘘を口にするようなヤツではない。
 ゆえに、偽証を成すのならばその真逆。無かった事を有ったと偽るのなら、或いは有耶無耶になる事もあるだろう。つまりは、
(嘘吐きは君か、美綴実典)
 電話を切る。まだ何か話していたが、適当に処理していただけで記憶に残ってはいない。
 確か、また明日どうとか、その当たりのことだったと思うが。
 明日、明日、と呟く。何かあったようなとカレンダーを見ると、何のことは無い。
 明日は12月24日。広くはクリスマス・イブと呼ばれるキリスト教圏の聖夜祭である。
「クリスマス、か」
 自分にはあまり関係の無い話だ。
 カップルの観察が趣味といっても、せっかくのイベントを楽しんでいる者たちを邪魔したくはない。
 かといって、なら己が楽しめる日かと言えばそれも否だ。
 結局独り者に過ぎない私に、クリスマスの予定などある筈もない。
 いつだって同じで、きっと当分は変わらない日常の一つに過ぎぬのだ。
 ――ああ。しかし、何も恋人がいないからといって、一人でいなくてはならない法律があるわけでは、ないか。
(それに私は、言ったはずだ。この礼は必ず、と)
「そうだな。借りは、返さなくては」
 小さく呟きながら着替えを再開する。夕飯の食材を買いに行くだけだ、着る物はなんだって良い。
 考えるべき事は多々あるが、明日の事は明日考えよう。やる事は決まっているのだから、詳細はその時ゆっくりと詰めれば良い。
 彼の意図が何であろうと、彼の言葉が嘘であろうと、彼の行動は事実だ。
(そう、何も変わらない)
 変わらないのだと心の奥深くに刻み付けた。
 今日はとりあえず夕飯を摂って、十分に体を休めるとしよう。

 ***

 翌、12月24日。年に一度の聖夜の朝は、何事も無く訪れた。
 ベッド降りる。一瞬眩暈らしきものを感じたが、数秒とかからずに消えた。
 この程度は日常的にある事だ。ずっと消えない微かな頭痛を無視するのなら、体調は完全に回復したと判断して良いだろう。
 例年と同じように約束などないが、例年とは違い予定はある。
 私の記憶が正しかったなら、昼過ぎまでは時間があるはずだ。十分に準備する余裕はあるだろう。
 とりあえず部屋を出る。
 廊下には僅かな光。リビングには人の気配があるようだ。
 すぐにはそちらへ行かず、途中の洗面台で顔を洗う。冷水で眠気を醒ましてから、乱れた髪に櫛を通した。
 ドアを開ける。そこには、スーツ姿で何やらドタバタと動いている母親の姿。
「あら、おはよう」
 おはようございます、と台詞を読むように返した。
「今日は一日用事があるから、食事は好きに用意しなさい。外食でも構わないわ。お友達のところに行くのなら、泊まるときは電話してね」
 忙しなく書類をまとめながら、矢継ぎ早に彼女は言う。それに、承知しましたと告げて、キッチンへ移動した。
 冷蔵庫を開ける。昨夜買ったばかりの牛乳のパックを手にしてリビングへ。
 ついでにコップも確保しつつ戻ると、テーブルの上には既に用意された朝食。
(ふむ、珍しいな)
 母親の姿はない。散らばっていた書類たちも、今は綺麗に姿を消している。
 もう仕事に行ったのか、と思っていると玄関の方から声が聞こえた。
「今日もお父さんはいないからね、戸締りはしっかりするように」
 解っています。大き目の声で返す。じゃあ行ってくるわ、と母親は今度こそ退場した。
「ふう」
 意味もなくため息がもれる。なんに対してかは解らなかった。
 牛乳をコップに注ぐ。そのまま一気に飲み干して、もう一度、今度はコップの半分程度まで満たした。
 それ以上は飲まないので冷蔵庫に戻し、もう冷めかけている朝食に手をつける。
 トーストとスクランブルエッグにサラダ。あとはレトルトのポタージュ。
 一目で手抜きと解るが、自分で作っても似たようなものである。
 もともと贅沢に暮らしたいと思うような人柄でもない為か、食事に手間と時間をかけるのを好む人ではない。
 栄養が取れればそれでいい、と思っている節もある。
 彼女は、愛情があればと思っているようで、全く感じないわけでもないのだが、それとは別に働くことを何より好む人だ。
 本来必要のない金銭を得るために働く。
 夫を助ける為でもなく、暮らしをより豊かにしようという意思もない。
 家庭が嫌いで逃げているわけでもない。
 不必要な余分は省みず、ただ労働する事に意味があると信じる。その日常を私は、祈るように生きる人だ、と思っていた。
 本人が聞けば笑うだろう、アレで実利主義な一面も、確かにありはするのだから。
 そういう生き方が嫌いなわけではない。特別綺麗だと思うわけでもないが、あってもいいと思っている。
 しかしそういう生き方の人だから、例え娘であったとしても、それほど交流がないだけの話だ。
 それを、私も彼女も是としているのだから、ある意味家庭の不和とは一番遠い関係であろうか。
 たぶん、人格の底辺ではやはり似た部分があるのだろう。なんだかんだで嫌いにはなれない人である。
 ただ、彼女よりは私の方が世間擦れしているだろうな、と呟いた。誰のせいだとは言わないが、やはり猛獣を見ていると感性も刺激されるらしい。
 そんなとりとめもない事を考えていると、微かに聞える電子音に気付いた。これは、
(む、携帯か)
 いつ頃鳴り出したのか解らない。早く行かなくては、と僅かに残った朝食をそのままに部屋に戻った。
 大丈夫、幸いまだ音は続いている。急ぎ手に取り、表示された名前を確認してから通話ボタンを押した。
「由紀香か?」
「あ、鐘ちゃん」
 電話の主は三枝由紀香。こんな時間に電話してくるのは蒔寺くらいかと思っていたのだが、やや予測が外れたようだ。
 ちなみに、私の携帯を日常的に鳴らすのは、蒔寺と由紀香と家族くらいのものである。
(真に寂しい話だ)
 特に心にもない台詞が思い浮かんだ。
「あ、あの、鐘ちゃん……昨日大丈夫だった?」
「ああ、なんとかなった。――そうか」
 そういえば、昨日は結局由紀香に一度も連絡はいれなかったな、と今更ながらに自分の浅慮に気が付いた。
「すまない。少し立て込んでいてな。君への報告を失念していた」
 愚かなり、氷室鐘。蒔寺の話で混乱したとはいえ、常の私なら由紀香への気配りを忘れるなど在り得ないことだ。
 彼女は人一倍優しいから、それゆえにこちらの無事は常に示さなくてはならないというのに。
「あ、うん。いいの。鐘ちゃんが無事なら嬉しいから」
 その言葉が殊の外堪えるのだが、それは彼女の友愛を知っていればこそ。
 もう一度、心の中ですまない、と呟いた。
「……でも、やっぱり原因はあれなのかな」
 おもむろに由紀香は言う。その声は、とても透明な響きがした。
「あれ、とは?」
 何のことだろうか。原因、というのは昨日の私に対する言葉ではあろうが。
 うん、と由紀香は前置いて、静かに続けた。
「鐘ちゃん、陸上部引退しちゃった後、ずっと寂しそうだったから」
 酷く、核心を突かれた気がした。
「由紀香、それは」
「私もそうだから分かるの。大会が終わって、引継ぎも済ませて、後はみんなに任せて……私は寂しかったの。でも、鐘ちゃんはそのあたりさっぱりしてるんだろうなーって、思ってたんだけど」
 そのつもりでいた。キッパリと、引き際は鮮やかに。
 実際、陸上に未練は無い。三年間、最後までやりとおした事に意味があるのだから。
 逆に言えば、続けるモノ自体は何でも良かったといえる。
 私は、もともと大会の記録を伸ばす事には興味が無かった。
 ただ、より今の自分より上へと。
 それまでの人生のようにただ限界を見切るのではなく、限界を承知して尚跳ぶ事で、何か見えるものがあるのならと願った。
 高飛びであった事に理由は無い。ただ、走るよりは向いていると思っただけ。
 少しずつ、少しずつバーを上げる。小さく積み重ねて、迷いがあればバーは落ちる。
 その判り易さ、その単純さが好ましいと感じただけ。
 結果は判らない。ただ、得たものはあったはずだ。その価値は、この先の人生で振り返った時、いつかきっと判断できるだろう。
 試行の期限は三年。本来運動を好まない私の気質から言えば、それは長い期間と言える。
 それをやり終えたのだ。今更未練などどこにも――。
「ううん、そうだよ。だって、あれからよく考え事してたみたいだし、鐘ちゃん、調子悪そうだったもの」
 私の心を読んだように、由紀香は言った。
 本来の私なら、自身への自己評価を他人に否定されたなら、さぞ憤る事だろう。
 しかし、相手は由紀香である。この娘は、時に感性のみで真実を見抜く。
 その正しさ。在り方の希少さを、私は良く知っている。
「そうか……君が言うのなら、そうなのだろうな」
 だから彼女が言うのなら、納得もしないわけにはいかぬのだ。
 それに一度は自分でも考えたこと。深くは詰めなかったが、どれだけ言い繕ったとしても、騙せず、動かせもしない事はある。
「うん、けど、鐘ちゃんならすぐ吹っ切れると思うな。……というか、蒔ちゃんがあまり気にしてなかったのが、一番意外だったかも」
 あんなに走るの好きだったのに、と由紀香は言う。
 それに対しては、私が答えを持っている。あの動物の分析は私の専売特許だ。
「蒔の字は、性格はアレだが、心根は雅な女だ。感慨こそあれ未練はなかろう。――もし走りたくなったのなら、場所も機会も関係はないさ」
 そう、奔放でありながら清楚。粗野でありながら清涼。その難解さは、由紀香の察しの良さを以ってしても捉えがたい。
「そうなのかな……鐘ちゃんが言うなら、そうなんだね」
 疑う事を知らない由紀香の笑顔を、電話の向こうに幻視した。
「あ、弟たちが起きてきちゃった。そろそろ切るね」
「ああ、心配ありがとう」
 そのまま切れるだろうと思って受話器を放しかけると、あ、と小さく彼女の声が聞こえた。
「ん?」
「鐘ちゃん、今日学校来る?」
 それがある意味本題だったのか。密かな予定を言い当てられた気がして、一瞬鼓動が乱れた。
「ああ、いや……行くかもしれないが、部に出る予定はないぞ」
 そう、とやや残念そうに呟く由紀香。
「私、一年生の子にまだ教える事があるから。昼過ぎまでいるから、良かったら顔見せてね」
 ああ、余裕があれば。と答えると、由紀香はじゃあね、と笑って通話を切った。
 受話器を置く。つい今し方話していた、彼女のコトを考える。
 楓が外見からは想像もし難い二面性を持つのなら、由紀香は見も心も、魂さえも清純無垢の偶像だろう。
 一見極めて平凡なのに、その平凡さが周囲との乖離を確かに示す。感性の平衡感覚が抜群なのに、心の底には穢れることのない砦。
 だからこそ、あらゆる意味、場合において由紀香は存在として正しいと言える。
 記号的、というのなら彼女こそがその最たるモノであろう。
 まるであの動物が、その存在を常に周囲に指し示すように、その確かさが失われる事は無い。
 彼女は遠坂嬢を尊敬しているようだが、私から言わせればその希少さ、尊さにおいて、十分に渡り合えると思っている。
(そういう意味では、三人の中では私が一番、凡庸なのだろうな)
 感情の起伏が低いのは生まれつきだが、性根はそれほど大層なモノではない。
 達観しているわけでもなく、下世話といえばそれまでの嗜好も、実にありふれたものだ。
 唯一としての個性を示す、概念的な基盤が無い。
 他に刻まれる事が無い存在。それこそが凡人の定義だ。
 それが、悪いことだとは欠片も思わないけれど、
 もう少し、確かな人間になりたい。そう不意に願うことがある。
「どうしようもなく、今更な話だが」
 呟いて苦笑一つ。朝から感傷に浸っている場合ではないだろう。
 とりあえず今日はやる事があるのだ。街に出るために、少し念入りに準備をしよう。

 ***

 家に鍵をかけて、蝉菜のマンションを出た。
 腕時計を見れば、11時を少し過ぎあたり。2時間もあれば、余裕を持って選ぶことができるだろう。
 まずは、何を買うべきか。
 これは、それほど選択肢がない。食べ物など意味がないし、アクセサリではズレている。
 やはり衣類が無難だが、あまりかさばるモノでは迷惑をかけるだけだ。
 重要なのは、邪魔にならず、無難で、なおかつ用途がある物。
(ふむ……手袋か、マフラーあたりか)
 しばし迷う。どちらでもいいが、マフラーは嫌う人もいる。その辺りを考慮して手袋することにした。
(手は、特に大事なモノだろうしな)
 物が決まれば次は場所だ。私が普段服を買う店でもいいが、あそこは小物の揃えが乏しい。
 やはりヴェルデか、と半ば予想していた結論を経て、駅周辺のショッピングモールへと足を向けた。
 もうすぐ年が終わるという時期。流石に暖かいといわれる冬木の街も、北風が吹けばコートの上から肌を刺す。
 マフラーの隙間をやや狭めて、早足に歩いた。
 そうして進むこと十数分。クリスマスムード一色に装飾された、駅前の広場に辿り着く。
 当然というべきか、人の多さは常の休日をはるかに越えていて、その殆どは家族連れか恋人同士といった按配だった。
 私のように一人で歩いている人間もいるが、誰かを待っているか、楽しそうにない曇り顔のどちらかである。
 今日の私は、どちらかと言えば前者に入るのかもしれない。
 その中に、やや見慣れた人影を見た。
 180に届く長身と、針金を思わせる痩躯。無色の空気をまとい、いつも同じようなスーツ姿のその男。
 3年A組、つまりは私がいるクラスの担任教師、葛木宗一郎その人である。
 校正であり厳格。誤字一つでテスト中に現れて延期を告げる、奇人の多い穂群原でも群を抜いた堅物。
 柳洞の寺に住み、このクリスマスという祝い事から最も縁遠そうな存在である葛木の隣に、見知らぬ女性の姿があった。
 印象を一言で表すのなら、紫か。
 服のどこにもそのようなそのような色をまとっていないのに、どうしてそんな印象を持ったのかは判らない。
 というか、何故かその服装がどういうモノであるか頭に入らない。なんだろう、途方もない騙し絵を見せられている気分だ。
 特に、耳の辺りに尋常ではない違和感があるのはどういうわけか。普通の丸みを帯びた耳なのに。
 意味もなく、どうしようもない衝動に、視線を逸らす事ができない。
 あの耳に、私は生まれて以来かつてないほど、強い興味を覚えている――、と
 ギロリ、と擬音が聞えそうな音と共に、女性が振り返った。
 硬直する。視線が交わるが、逸らせない。いかにも邪魔だと不満げな表情で、女性は唇を動かした。
 なんと言ったのかは判らない。
(そもそも日本語の発音には見えな、かっ……た?)
 世界が揺れた。アレだけ動かせなかった視線が、今は何を見ていたのかも理解できない。

 ――そもそも、誰がいたというのだろう。知り合いの姿など視界のどこにもいなかった。
 ただ、何故か酷く強い安堵を覚えた。知らない私が、良く生きていたなと笑っている。
(面妖な……)
 白昼夢を見たようだ。まだ疲れているのか、と自身の状態を省みる。
 一瞬頭痛がしたが、それは朝にもあったものだ。
 それ以外の以上は見られないから、恐らく体調は良好のはず。
(忘れよう。思い出せもしないことを気にしては、道理が崩れる)
 その思考自体が矛盾している、という内心の声を無視し、私はヴェルデの正面入り口へと向かった。

 ***

 幸い、手頃なモノはすぐに見つかった。
 彼の印象から考えるに、あまり派手なモノは好かないだろう。
 黒を主体の、わりと暖かそうなモノを選んだ。
 他に用がないので、品を持ってレジへ行く。どのレジもやや人が並んでいたが、一番早そうな列を選んで精算した。
 時刻は、12時を迎えようというところか。
 蝉菜マンションからは、ゆっくり歩いても30分もかからない。
 手袋を買うのに10分程度だったとすると、15分ほどの空白ができる事に気が付いた。
 おかしい。なんに使ったのだろう。たった15分でも、まるで記憶がないというのなら不気味な話ではないか。
 はて、と首を傾げながらヴェルデを出る。
 やはり、先ほどの疑問と原因は同じなのだろう。もしかしたら、本当に白昼夢を見ていたのかもしれない。
 そんなことを徒然と考えていると、奇妙な二人組みが視界に入った。
「く……」 
 その一人を見た瞬間、こめかみにズキリと刺すような痛みが走った。
 一人はカソックを着た、明らかに修道女然とした白髪の少女。
  もう一人は金髪の青年で、まるで、この世全てを統べる王のような、途方もなく尊大な雰囲気を纏っている。
 その、あまりに遠すぎる印象の二人が、肩を並べてこちらへと向かっている。
 ヴェルデに用があるのだろうか。不覚にも凝視しているうちに、すぐそこまで二人組みは近づいていた。
 ハッと気が付いて、なんでもない風を装って足を踏み出す。
 幸いというか、どうも二人組みは何やら言い合っているようで、私が見ていたことには気付かなかったようだ。
 修道女の横を通り過ぎる。強い消毒液の匂いと、手や首に巻かれた包帯の痛々しさが視界に映った。
 なんで我が、と金髪の青年が呟いたのが一瞬聞えたが、すぐに距離が離れてこちらに届く事は無くなる。
 何事も無く通り過ぎ、何故か安堵を感じた。安心して一息つく。
 が、
「待ちなさい」
 ビクリと、比喩でなく体が硬直していた。意識をそちらに向けていたからだろう、少女が、わざわざ振り返ってこちらを呼び止めたのが判ってしまった。
 挙動不審なのがばれたのか。内心はともかく、表層は至っていつも通りだったはずだが。
 いや、多少雰囲気に出ていたとしても、見ず知らずの修道女に呼び止められる云われはない。
 なんでしょうか、と言葉を返し、平静を装って振りかえ――
「ッ!」
 目の前に、少女の顔があった。
 瞳の色は、どう見ても金色。そのような虹彩が存在しただろうか、と疑問に思ったが、今はそれどころではない。見ているだけで頭痛が増すのだ。
 修道女は、まるで心の裡の、その奥の扉を切り開くような視線で、私の瞳を見つめている。
「貴女、妙なモノが憑いているわね」
「は?」
 発音から察するに、ついている、とは狐憑きや犬神憑きのことだろうが。
「あいにく、誰かに恨まれるほどの外道を行った覚えはありませんが」
 真実を口にする。まるで懺悔をしている気分だ。
 どうかしている。たかが一人の少女を相手に、この相手にはどんな嘘も通じない、なんて幻想を抱くなんて。
 私の言葉が聞えているのかいないのか、少女は何やら思案しているような表情。
 しかし、あくまで私を見つめているので、居心地悪い事この上ない。
 視界の端で、少女と共にいた青年がさっさとヴェルデへ入っていくのが見えた。
 連れの方は先に行ってしまいましたが、と告げるが、無視。ついさっき普通に話していたのに、日本語が通じないのか、と思ってしまった。
 それも終わり。何やら納得したように一度頷いて、私を無視するように少女は呟く。
「本体じゃ、ないわね……一部でさえもない。これは、言うなれば――残滓かしら」
 まあ、何千回と繰り返せば、こういうこともあるのでしょう、と意味の判らないことを修道女は呟いた。
 視線を外される。やっと解放されたと、体が一気に弛緩した。
「いいわ、アナタを祓うのは、特別に見逃してさしあげます。どうせ、すぐ風に解けるようなモノだもの。――今だけの変化を、貴女は楽しめばいいわ」
 最後の一言だけは私に向けるように呟いて、修道女は踵を返す。風に乗って、僅かに血の香りがした。
 私は何も答える事も出来ず、しばらく少女の後姿を見送った。
 何やら赤い布を知らぬ間に取り出した彼女は、不意に曲がって視界から消える。
 何故か金髪の青年の叫び声がして、それを境に増していた頭痛が退いていく。開放されたのだと安堵した。
 修道女の言葉は、私には最初から最後まで理解できなかった。残ったのは一握りの奇妙な感慨。
 きっと、似たような別離が、いつか、どこかであったのだろう。
 私も踵を返す。硬直の解けた体で、丁度来た深山町行きのバスを目指す。
 乗り込む前に、一度だけ振り返って、さようならと呟いた。
 もう一人の私が、気まぐれにそうさせたのだろう。きっと、理由などありはしない。

 ***

 深山町について数分が経過した。
 1時までまだ30分程度ある。流石に早すぎるなと思い、穂群原学園最寄りの停留所ではなく、商店街前でバスを降りた。
 ここから歩いて15分程度。散歩でもしながら時間を合わせる事にする。
 やはりクリスマスの影響か、駅前ほどではないが深山の商店街は活気付いていた。
 見覚えのある顔もいくつかある。どこかで見た花屋の店員然り、たった今スーパーに入っていった家事妖精然り、だ。
 いつ見ても主夫らしいな、と内心で呟いて、私は学園の方へ歩く。商店街といっても、今は特に買うものもない。
 空腹も感じないので、醜態を晒す心配もないし。
 特に何もないので、やはり大人しくバスで行ったほうが良かったか、と思っていると、前方に何やら赤と黒の二人組みが見えた。
「あら、氷室さん。こんにちは」
「ふむ、いつぞやの」
 丁寧な挨拶は少女のもの。彼女の名は遠坂凛。穂群原一の美少女である。その服装は見事なまでの赤で彩られている。
 もう一人の方は男性で、黒い服は遠坂嬢と比べればはるかに地味だが、背がかなり高い。
 ついでに肌も浅黒く、違う意味でよく目立った。
 結論として、二人はこの庶民的な商店街では、とてもとても目立っている。
「ごきげんよう、遠坂嬢。それからお久しぶりです。……、子猫の方」
 子猫? と遠坂嬢は首を傾げる。
 まあ、あれを知っているのは私たち三人と衛宮くらいだから仕方がない。
「む、妙な呼び方はやめてくれたまえ」
「しかし、お名前を存じません」
 好きであんな呼び方をしたわけではない。蒔寺なら正義の兄ちゃん、とでも呼んだのだろうが、私もそう呼ぶわけにはいかないだろう。
 何やら正義という言葉については、思うこともあるようだし。
「アーチャー、氷室さんと知り合い?」
 少しな、と男性は答える。アーチャーというのか。
(そういえば、似たような名前を最近良く耳にするな)
 ランサーとかセイバーとかライダーとか。たぶん、何か関係があるのだろう。
 全員が外国人である上に、よくよく考えれば、弓手、槍手、剣士、と剣呑な響きだ。
 ライダー嬢も、穿った見方をするなら、騎乗兵と訳す事もできるのだから。
「ふーん、まあいいわ。ところで氷室さん」
 一瞬思考に埋没した私を、遠坂嬢が引き戻した。
 なにかね、と返答。
「今日、衛宮君の家でパーティーを開くのですが、氷室さんたちもいかがですか?」
 たち、というからには楓と由紀香のことだろう。
 三人で押しかけては迷惑では、と問い返せば、遠坂嬢はあと10人いても問題はありません、と綺麗な笑みで答えた。
「では、時間があれば是非。楓と由紀香にも声をかけてみます」
「ええ、判りました。適当に何か食材を持ち寄って下されば、このアーチャーが形だけは仕立てますから」
 そう言って、遠坂嬢はアーチャー氏を見遣る。
 しかし、弓手なのに調理をするのか。まるで衛宮のような人だな、と思った。
 では、行くときは何か持ち寄らせていただきます、と返して遠坂嬢たちと別れる。
 そのまま真っ直ぐ歩いていると、背後で何やら言い合う声が聞こえた。
「いや、流石に10人は私でも手に余るのだが」
「じゃあ衛宮君と協力すればいいでしょう。それとも何、全部彼に任せる?」
 楽しそうな遠坂嬢の声。私の耳が腐っていなければ、それには、親愛の情がこもっていた。
(衛宮も相当誤解を生みそうな人間関係のようだが、彼女の方も単純ではないようだ)
 どうにも、衛宮と遠坂嬢の周辺には、余人には計れぬ複雑な事情があるらしい。

 ***

 学園へついた。途中遠坂嬢と少し話したので、1時まであと10分ほどである。
 グラウンドを見渡すと、後輩たちが頭を下げて、数人がこちらへ走ってきた。
 良いから続けたまえ、と手で静止する。そのままグラウンドを見渡して、目当ての生徒を探した
 発見。ストレッチをしている男子生徒に声をかける。
 彼は同じ高飛びの選手だ。何度か指導した分他の後輩よりは親しい。
「由紀香はいるか?」
 あ、チス、小さな声の後輩。そんな元気で大丈夫かと思ったが、私が言えた立場ではないので黙っておいた。
「あー、三枝センパイは、さっき先生に呼ばれてどっかいっちゃいましたよ」
 そうか、と答えると、ところで氷室センパイは今日暇ですか? と問われた。
「悪いが珍しく予定がある」
 そうですか、そうですよね。とうなだれる後輩に、由紀香によろしく伝えてくれと伝言を預けた。
「ういっす、氷室センパイ、たまには練習見に来てくださいよ」
「ああ、卒業までなら何度か」
 ではな、と告げて歩き出す。遠坂嬢の話を聞かせたかったが、いないのなら仕方ないだろう。
 陸上部の活動は既に終わっている。多少の居残りはいたが、殆どあがりかけていた。
(あちらもそろそろだろう)
 徐々に行き先が近づくにつれて、僅かに心拍数が上がるのを自覚した。
 当然だ、蒔寺と由紀香以外に贈り物を渡した事など、家族を除けば一度さえもないのだから。
 ましてや相手は、仮にも男子生徒。いくら私とて、全く意識せずにはいられない。
 そして、辿り着く。こんな学園には分不相応な豪華な設備。
 現役時代は、多少羨望した事もあったその場所は、
 息を吸う。それだけで、僅かに続いていた頭痛は止まってくれた。
「失礼します」
 ガラっと、スライド式のドアを開ける。中には、予想通り殆ど人の気配がなかった。
 もしかしたら、彼もいないかもしれないな。そんな事を思っていると――
「え?」
 意外そうな、そしてどこか焦燥を含んだ声。
 その建物……弓道場には、私を含め、三人しか人はいなかった。
「――氷室先輩」
 入り口の私と、この弓道場を預かる間桐部長。

 そして、彼女にプレゼントを渡そうとしていた、美綴実典だけである。

「あ――いや、すまない。……失礼する」
 何がすまないのか、自分でも判らない。
 ただ、口にした瞬間には、すぐに一歩下がって扉を閉めていた。
 何故だろう、とてもマズイものを見た気がする。罪悪感に駆られるように、足を速めてその場を後にした。
 言い知れぬ不安を抱えたまま、また、ピシリと僅かな頭痛が走った。

 ***

 知らぬ間に、中庭についていた。
 途中、先ほどの後輩に呼び止められた気がするが、なんと答えたのか覚えていない。
 校舎に囲まれ、噴水の周りにベンチが据えられている中庭は、普段なら生徒たちを良く見かけるが、冬休みともなれば無人になる。
 校舎から良く見える場所だが、同じ理由で見られている事もないだろう。一人になるには、都合がいい。無意識でここに来た理由が遅まきながら解った。 
 僅かに呼吸が乱れ、脈拍も平常を少し上回っている。記憶にはないが、駆け足にでもなっていたのかもしれない。 
 何故そんな事にと思い返して、自分がついさっき見たものに、理由もなく胸が重くなった。
 後悔する。あれは予想して然るべき場面だったはずなのに。
 そもそも、弓道部に行って自分はどうするつもりだったのか。
 今日はクリスマスであり、美綴実典は間桐桜を好いている。
 そんな前提条件がある以上、間桐嬢の前でプレゼントなど渡せるものか。借りを返す為の贈り物を、彼が好きな相手の前で渡す事など許されはしない。当然、するつもりもない。
 いらぬ誤解を彼女に与えるのなら、それは恩を仇で返すというものだ。
 しかし、間桐嬢ではなく他の人間なら良いのか、といえばそれも違う。
 噂とは広まるモノ。むしろ、第三者を介した情報ほど歪みを以って伝わるものだ。そして、その方向性は一転に集約される。
下手をうてば、間桐嬢に致命的な誤解を植付けかねぬ。
(ならば、彼が一人で弓道場にいれば良かったのか)
 それこそ否だ。彼一人がいない事はあったとしても、弓道部の現部長を差し置いて、一年生の美綴少年が一人でいる理由がない。可能性として、そもそも存在しないのである。
 結論として、私が弓道場に行ったところで、実行可能なコトなど唯の一つもない。
 だというのに、
(この程度のコトを失念するとは……氷室鐘(わたし)の思考とは思えないな)
 浅慮どころではない。そもそも事前の考慮という、氷室鐘にとって当然のステップを怠っている時点で、自分が正気か否か疑わなければならぬところである。
 今現在、私自身に愕然とする思いだった。
 心配する。殆ど一瞬しか見てなかったが、彼はまさにあの瞬間、プレゼントを渡そうとしていたのではなかったか。
 どの程度の邪魔になったかは分からないが、折角の機会に水を差したのに変わりはない。
 観察対象の愛すべき恋人たちの邪魔を、私自らが行うなど……もはや皮肉にもならんな、と自嘲した。
 正確には、美綴少年と間桐嬢は付き合ってなどいない。しかし、形はどうあれ私は、彼の恋を応援すると決めたのではなかったか。
 どうか、何事もなく彼の意図通りにコトが運ぶように、と願っていると一つの足音がきこえた。
「あー、氷室先輩――今、いいっスか?
 私としては、今一番歓迎できない声が聞こえた。

 ***

 頭痛がする。振り向けば、そこには弓道場にいたはずの美綴実典がいた。
 先程の願いは開始20秒で破られたようだ。二度と神には祈るまい、と決意する。この場合の神はイエスだろうか、次は神社仏閣辺りに願うとしよう。
 やおよろづの神々なら、きっと叶えてくれるモノもいるだろう。
 そんな現実逃避めいた事を考えながら、私は彼に言葉を返した。
「私は構わないが……何故場所が分かったのか、訊いても良いか」
 彼がここに来てしまったのは私的に言えば大誤算だが、それの中でも幾つかの状況がある。
 こちらに来る時、陸上部の後輩に見られている。彼に聞いたというのならまだいい。しかし、もし彼が――
「いや、こっちに来るのが見えたんで」
「――――ハァ」
 思わず、落胆のため息が出た。やはりか、と半ば予想をしていた答え。同時に、それは思いつく限り最悪の答えでもある。
 弓道場を出た後、私は悠長に歩いていたわけではない。自覚的に早足で歩いたし、半ば無自覚に急いていたと思う。
 弓道場の入り口から、校舎の死角に入るまで数十秒程度。無論、それだけあれば、姿が見えなくなる前に見る事も可能だ。
 だから、彼の答えは特別おかしいものではない。

 それまで話していた間桐嬢に構わず、もし入り口へ走ったなら、だ。

「どうしたんすか?」
「いや、こちらの事だ」
 気にしなくていい、と答える。
 そう、本当にこちらの事だ。一切彼には関係がない。
 そんな事の為に間桐嬢との会話を切り上げたのかと思うと、筋違いにも、目の前の少年に僅かな怒りが沸いた。
 ――当然の事ながら、その元凶である己には軽い殺意さえ覚える。
 それはともかく、と前置く。こうなった以上、思考に埋もれている場合ではない。
「いいのか? 少年」
 何がっスか? と彼は言う。
 あっけらかんとしたその物言いに、心中でため息を吐いた。
「何がではない。君は間桐嬢といたのだろう。……折角二人きりだったのに、暇をしている私を追いかけて良いのか、という事だ」
 用があるなら、あちらを優先した後でいいが、と続ける。最低限のフォローだけはしておかねばなるまい。待てというのならいくらでも待つ。
 だというのに、
「いや、渡すものは渡したんで。――逃げられると困るし」
 さっきのプレゼントの事を言っているのだろうが、何も、渡してはい終わりで済ませて良いはずがなかろうに。
「別に逃げたわけではないのだが。……とりあえず、君は途方もなく損な事をしているぞ」
 痛い所を突かれた、というように頬をかく少年。
「言わないでくださいよ。自分でも、深く考えると何か滅入りそうで」
 解っているのなら、と言いかけて、私は一つため息を吐いた。あくまでこの場に留まる意思が伝わったからだ。今更言ったところで是非もない。
 ゆえに話を変える。何故、彼が間桐嬢を置いてわざわざ自分を追ってきたのか、彼が好いている彼女より優先しなければならなかった、その理由に興味が湧いた。
 なので、ストレートに切り込む。無駄話をしていても仕方がないだろう。
「で、用はなんだね。逃げられると困るというからには、急ぎのコトだとは思うが」
 すると、急に困ったように黙る少年。あー、と意味のない言葉を言いながら頬をかいて視線を逸らす。最近気付いたが、それは彼が何か迷っている時の癖のようだ。
 それでも決心したのか、少年は逸らした視線を戻す。正面から目が合って、一瞬だけ鼓動が早くなった。
 それも一拍で正常に戻り、今口を開こうとしている彼の言葉を待つ。

「それが、ちょっと氷室先輩に頼みが――」

 ***

「なるほどねー」
 掻い摘んで話した一連の流れに、蒔寺が間延びした声で納得の意を表した。
 真ん中の由紀香も頷いている。引継ぎを終えた彼女を待って、私たちは下校しているのだった。いつの間に蒔寺が学校に来ていたのかは、あえて問わない。
 ちなみに、美綴少年は姉の方を呼びに行っている。嫌そうな顔をしていたあたり、彼本人ではなく衛宮か間桐嬢の意向だろう。
 美綴実典のお願い、とはつまる所、遠坂嬢の誘いと殆ど同じものであった。
 ただ、彼の立場としては切迫していたようである。
 曰く、間桐部長に宴会に誘われた。彼女相手では断れないし、断りたくもない。しかし場所は衛宮邸であり、敵地である。
 衛宮本人がラスボスなら衛宮邸は神殿。彼を守る仲間はほぼ全てが女性であり、自分は不利だ。ゆえに、ヤツの傘下にいない人がいてくれると心強い。
 無論、この表現は全て私の解釈であり要約だ。彼の説明は極めてまどろっこしく、要領を得ず、言い訳染みていたが……まあ、ここで直球にお願いできるなら、そもそもああいう人間にはなっていないだろう。
 まあ、奴の仲間という者たちの筆頭が、想い人である間桐桜であるあたり、彼の苦悩は想像に難くない。
 笑えるほどに。
「まー、アイツにとっちゃ衛宮の家は、アウェイどころじゃないしな」
 うんうんと頷く蒔寺。その言葉には私も全くの同感なのだが、由紀香はなんと言ったらいいものか困っている様子だ。
 なまじかの家の現状を知っているゆえに、部外者としての立場では弁護も難しい。
「また前のようにならんとも限らない。アレはアレで楽しかったが、少々気の毒でな、趣味半分で良いならフォローしてやるつもりだ」
 相手が誰であれ此度は宴会である。そのような場で爆発しては少年自身が木っ端微塵だ、主に印象が。
 それを本人も割っているから、ブレーキ役が欲しかったのだと思われる。少年が私をどう思っているかは大体理解できた。
(果たしてそれは、喜ぶべきか悲しむべきか)
 そんな下らない事を心中でつぶやいていると、
「鐘ちゃん、前って何かあったの?」
 問いに振り向くと、由紀香の先に同じように疑問符を浮かべている楓の顔が。
「そうか、君たちは知らなかったな。――丁度いい。蒔の字には、先に叩き込んでおいた方がよさそうだ」
 は?? とさらに疑問符を増やす蒔寺楓。そんな彼女が疑問符ではなく感嘆修辞疑問符、つまり!?を浮かべて爆発したのは、私が見た衛宮の女性事情を話して約十秒後の事であった。
 ひとしきり騒いで以後、彼女は黙っている。商店街のど真ん中でいきなり暴れられ、由紀香と二人で周囲に頭を下げた話は割愛しよう。
 時折ガルルル、と人語にはない鳴き声を発している所を見ると、どうやら相当ご立腹の様子だ。衛宮邸についた時本人に飛び掛るかもしれないが――セイバー嬢に真っ二つにされなければ良いが。
 藤村先生に訊いた話では、剣道五段以上の腕前なのは確かなようである。
 武道家として冬木では名高い藤村先生を軽くあしらうのだから、もはや達人の域であろう。
 一つの街でも、名が知れ渡るというのは十分に並外れている事なのだから。
 そう蒔寺に伝えたが、果たして日本語が通じたかどうか。――天のみぞ知る、といったところだ。
「けど、三人で行って大丈夫なのかな」
 ふとしたように由紀香が言った。いや、恐らくは最初から疑問には思っていたのだろう、タイミングを計ったような節があった。
 無論、それはいきなり三人で押しかけたりして迷惑ではないのか、という意図である。真に良心的な疑問だ。
「それは私も確認した。食材が足りるなら大丈夫らしい」
 調理に関しては、衛宮が請け負うのだろう。普段から七合の米を炊くような家の主である。
 作り手が足りないなら私が手伝っても……いや、大人しく他人に任せるべきか。歯がゆいとは、こういう場合にも用いる言葉であるようだ。
 本音を言えば、遠坂嬢や生徒会長を唸らせているその腕には興味もある。
「そっか。じゃあ頑張ってお手伝いしようね」
 全く良い娘である。それに引き替え、
「ええい、これでもかこれでもかこの色狂変人め、ギギギ――――」
 想像が口をついて出たか。途中からもはや解読不能の文字羅列になっている。
 僅かに聞き取れるあたりを何とか読解してみると、どうやら衛宮の命は風前の灯と思われた。
(まあ、ある意味自業自得か)
 蒔寺も衛宮も、無事では済むまい。収拾をつける者がいればいいが。
 酒の存在が勝負の分かれ目かな……などと未来を憂いてみる。
 藤村先生がいる筈だが、彼女が本当に監督役として機能するかどうか、推して知るべしだ。
 なんとも祭事に弱そうな御仁である。
「うーん、あとは何がいるかな」
 難しそうな顔で由紀香が呟く。手に持った袋には肉やら野菜やらがバランス良く入っていた。
 遠坂嬢の言葉を思い出す。アーチャー氏は何でも調理可能な口ぶりだった。
「適当と言っていたから、悩む必要はないな。君が好きなものを買うといい」
 そうだね、と笑んで由紀香は買い物に戻る。料理の腕が人並み以下な私は、もっぱら荷物持ちだ。
 食材選びは蒔寺と由紀香でやるはずだったのだが、前者はもうさっきからギギギとしか言っていないので役に立たぬ。
 壊れたのだろう、と放っておく事にする。いつもの事だからだ。
 そのまま私と由紀香で買い物を終えた。乙女二人と動物一匹分の食材など、そう多いものにはなるまい。
 適当に互いの好みについて話しながら衛宮邸へと向かった。

 ***

 深山町を二分する地区。純和風の景色が立ち並ぶ坂道を登っていると、背後から聞き覚えのある声に呼び止められた。
「おーい、三人娘」
 振り返れば赤毛の二人。楽しそうにこっちへ駆けてくる美綴嬢と、拗ねたような表情で歩いている美綴少年の姿があった。
 私たちのようにスーパーの袋は持っていない。
 が、何やら怪しい手提げが一つ。美綴嬢の事だから、突拍子もないモノでも不思議ではないな。
 そんな彼女らに一番に反応したのは、やはりというか蒔寺楓である。
 というか、彼女の台詞に私と由紀香の挨拶は消し飛ばされた。あまり大きな声を出すな楓。
「ブルータス、お前もか!」
 美綴嬢に向かって蒔寺が叫ぶ。
 意味もなく引用するのは止めろと言いたい。
「誰がブルータスだ誰が。うら若い美女を毛深そうなオッサンみたいに呼ぶな!」
 蒔寺に向かって美綴嬢が返す。
 意味もなく他文化を汚すなと言いたい。
 ついでに良くそんな事を知っているな、とため息を吐きたくなった。ここにいるまともな乙女は由紀香くらいか。
 自分で自分をそちらに含めないのが悲しいと言えば悲しかったが、止むを得まい。
「ねーちゃん、こんな所で騒ぐなよ。恥ずかしいぜ」
 本当に恥ずかしそうに周囲を見る少年。確かに、クリスマスだからといって、平日の日中に騒いで良い理由にはならんな。
 幸い他に人影はなく、年齢に見合わぬ醜態を見咎められる事はなかったようだ。安堵したのは私と由紀香と少年だけだが。
 当の美綴嬢は常の如く少年を黙らせ、蒔寺とバカ話を繰り広げている。意外でも何でもなく、彼女らは息が合うようだ。
(その心は、猛獣使いと黒豹である)
 心中で呟いて、全く冗談にならないなと評価した。
「先輩、すみませんでした。無理言って」
 唐突な謝罪。表情には出さなかったが驚いて横を見ると、美綴少年が顔も合わせずに並んで歩いている。
 僅かに外れた拍子を修正し、常の声音を引っ張り出した。
「なに、お安い御用だ。一度詮索せねばならん場所でもあったし、楽しませてもらうぞ」
 そう言って、本心から笑う。その笑みが彼にはどう見えたのか。
 諦めと疲弊を足して二で割ったような表情で呟いた。
「相変わらず趣味悪いっスよ。……もっと普通に笑えばいいのに」
「ん、何か言ったかね?」
 趣味が悪いというくだりまで聞こえたが、その先は声が小さくて聞き取れなかった。
 なんでもないッスと言い残して、少年は歩みを速める。相変わらず騒がしい姉をいさめに行ったようだ。
 姉には勝てぬが、それでも止めねばならない。その悲しい立場が垣間見えた気がする。
「苦労しているな」
 呟きは誰にも聞こえなかったようだ。騒ぐ二人と、遊ばれる少年と、おろおろしている由紀香を眺めながら、私は衛宮邸への坂道を歩いている。
 それから数分。見覚えのある塀が見えた。改め見ると、大きな屋敷である。確かにこれなら、合宿所としても機能しそうな面積を備えているだろう。
 一つ納得して、先頭の蒔寺を追った。その先には間桐嬢が出迎えをしている姿が。
「いらっしゃいませ」
 丁寧に頭を下げる彼女は、それこそ流行のメイドか何かかという嵌り具合である。
 エプロン姿の間桐嬢に、少年の魂が身悶えたのが見えた。
(やれやれ)
 知らず、そんな感想がもれる。今からそんな様ではこれからが辛いぞ。
「お、来たか。桜、遠坂を呼んできてくれ」
 視線の先、玄関から出てきたのは、この屋敷の主人、衛宮士郎その人である。
 彼の言葉に、間桐嬢は衛宮とすれ違いに屋敷に入って行った。
「あー、なんだ。珍しい面々もいるみたいだけど、今日は楽しんでくれ。遠坂や桜が喜ぶから」
 ピクリ。
 何気ない挨拶。その中に含まれた間桐嬢の名に、美綴少年が反応したようだ。それを見取って私は動く。
 少年の横に並んで、衛宮には見えない角度から背中を叩く。反応してこちらを見る彼には構わず、私は衛宮に話しかけた。
「ああ、是非そうさせてもらおう。少々騒ぐだろうが、大目に見てもらえると助かるな」
 今日は祭りだ。不穏の芽は摘むに限る。まあ、この程度でいきなり暴発するとは思えないが。
 無難な挨拶をしてから、それでは世話になると頭を下げた。
「あ、ああ。回りも許してくれるだろうし、良識の範囲で十分騒いでもらっても構わない。たぶん藤ねえ……いや、藤村先生が一番騒がしいと思うし」
 まあ、その辺の調節にはお前に任せる、と衛宮は言った。どうやらこの面子で、私がそういう役だと踏んだようだ。
 あながち間違ってはいないので、承知したと返す。悲しいかな、由紀香と少年は押しが弱く、蒔寺と美綴嬢はいさめられる側である。私しかいない。
「それじゃあ入ってくれ。まだ何人か来るから、それまでに準備をしよう」
 そう言って、玄関に向かう衛宮。そのまま私たちを案内するように歩いて――、
「――ッ!」
 何があったのか、突然吹き飛んでゴロゴロと転がった。いや、あれは受身か。
「チィ、あたしの必殺飛燕連脚を避けるとは!」
 ただの飛び蹴りにしか見えなかったが、そういう技なのか。
 しかし、避けたというからには吹き飛んだのではなく、側転染みた動きで自分から転がったのかもしれない。
 運動神経は確かに良さそうだと思っていたが、奇襲でも避けるその能力には素直に感心した。
 なにせ、相手は冬木の黒豹だ。冬木の虎と名のつく人がどういう人物か考えるなら、その方向性が尋常でないのは自明である。
 そのあと、てめぇ蒔寺どういうつもりだいい加減前世からの因縁晴らすかと叫んでる衛宮とか。
 うるせーお前みたいなタラシ野郎は女の敵だ何であたしにはこないんだチクショーと壊れてる蒔寺とか。
 そういうのが溢れてもう大変だったのは別の話にしておきたい。是非にも。
 ちなみに、すぐに嵐は去って今は由紀香が説教中だ。誰に説教しているのかは本人の名誉の為に伏せておくぞ、楓。
「ハア……」
 今日の人数に居間では窮屈だ、ということで私たちは中庭に通された。
 各自持ち寄った食材は衛宮が持って行ったから、作った料理はこちらに持ってくるつもりなのだろう。
 何が楽しいのか、まだ始まってもいないのに相変わらず騒いでるのが若干名。
 知らぬ間に寺の子とワカメまで混ざっているのは、一体どういう魔術なのだろうか? 知りたくはないが。
 家で大人しくしていた方が良かったかもしれぬ、と弱気な事を考えていると、視界の端でやや肩を落としている美綴少年を見つけた。
 とりあえずかける言葉があるので、そちらへ歩みを向ける。
 彼が背にしているのは土蔵だろうか。そのまま並んで同じように背をかけた。
 意外なように一度こちらを見たが、すぐに視線は前へ戻る。先には誰もおらず、道場らしき建物があっただけだ。
「まあ、気にするな。あの程度の事で反応していては先が長いぞ」
 関係の質はともかく、衛宮と間桐嬢の仲は深い。聞きしによれば数年の付き合いだとか。
 彼にとっては、間桐桜を名で呼び捨てにする事など日常だ。考慮にも値しない当たり前の些事。
「やっぱ分かったんすか」
 そういって、ため息を吐く少年。間桐嬢については、私より彼の方が詳しいのだ。私が考える程度の事など、ずっと以前から承知はしていたのだろう。
 理解と納得の違いなど、この年になれば厭でも判る。ここで割り切れるなら、彼はこのような苦労はしていない。
「それが恋事の醍醐味ではあるがな。見ている私は楽しいが、君は少し自戒したまえ」
 折角の祭りを楽しめないのは、何よりも彼自身の損である。確かに天敵はいるが、それゆえにこの聖夜に想い人と共にいられるのだから。
「気楽に言ってくれますね」
 仕事だからなと返す。そういう言葉を欲して私を呼んだのは少年自身だ。
 それもそうだと頷いて、生意気でしたと少年は呟いた。
「なに、それが君の美点だ。無駄に賢しいよりははるかに良い」
 無駄に動物的なのも考え物だが。と続けると、肯定の意が返ってきた。互いに誰の事かは言わなかったが、予想は十分につくだろう。
 その辺のバランスが最優たる由紀香を見る。
 案の定、周囲の奇人に翻弄されているようだ。常識人は決して奇人の行動には勝てない、という凡例だろう。
(仕方ない事だが……哀れな)
 いつの世も割を食うのはまともな人間である。最近、私の周囲ではまともな人間が少なくなってきたので、彼女の貴重さは増す一方だ。是非精進してもらいたい。
 そんな事をつれづれとなく話していると、唐突に頭痛が走った。
 もはや無視できるほど慣れていた為か、強い痛みに不意打たれて思考が途切れる。
 軽い眩暈を起こして額に左手を当てた。美綴実典が大丈夫かと声をかけてきたが、右手を軽く振って、気にするなと答える。笑みは何とか作れたはず。
 不意打ちの痛みに慣れはしない。しかし、そのお陰か思い出した。少年には、世間話の前に問わねばならぬ事があったはず。
(君は、昨日本当に蒔寺と会ったのか?)
 否、どちらの言葉を信じるのかと問われれば、私は楓の方だと答える。
 ヤツは嘘が上手い人格ではない。好んで嘘を吐く性格でもない。信頼や好意以前の問題だ。
 ゆえにその問い方は間違いだ。もはや結論が出ている事をわざわざ訊いても意味はない。
 会ったのか、ではない。何故、会ったという虚偽を告げたのか、と問うべきだ。
(しかし、ソレを口にする意味が果たしてあるか?)
 そう、真の問題はそこにある。
 偽りにはソレなりの理由があるはずだ。少なくとも、本人には。
 ソレを私が知る意味は、果たして彼の理由を押し退けるに足るものだろうか。
 どうしたものか、悩んでいると、不意に隣で気配が動いた。
 遮断しかけた意識を慌てて戻す。どうやら藤村先生が来たようだ。
「みーつーづーりーくーん!」
 何事かとよく見てみると、どう見ても家庭用とは思えない、巨大なコンロ。祭りの夜店を想像すると解りやすいだろう。
 先程まで確実に存在しなかったソレを前に、藤村先生が美綴少年を呼んでいた。
「藤村先生……それは、業務用では」
 驚きのあまり無意識に少年と共に移動していた私は、どういうつもりかと先生に問いかける。
 周囲を見れば、驚いているのは私と由紀香だけのようだ。他は、諦めているか、感心しているか、そもそも何か思う事ではないと平静のままか。
 それぞれ、弓道部の面々、豹、衛宮家の人々、の表情である。
「うちにあったやつ持ってきたのよー。あ、ありがとね」
 後半の言葉は私にではないのか。お安い御用で、と明らかに堅気でない強面の兄さん方が衛宮家の門から出て行った。
 恐らく藤村組の方々だと思われる。あの組には、年に数度父と共に挨拶に行くので、実の所顔程度なら馴染みだ。もう遅いだろうがペコリと頭を下げた。
(いや、そもそも何故そんな物が家にあるのか、を問うているのだが)
 私の意図は伝わらなかったらしい。どうにも規格外れな人だから、きっとこの程度は疑問にも値しない些事なのだ。
 藤村先生恐るべし、と改めて思い直していると、土蔵の方から美綴少年が後ろ向きに出てきた。
 もう一人は誰か分からないが、どうやら二人で何かを運び出しているらしい。
 今度は何だと、半ば諦め気味に呟きながら見ていると、これまた業務用、1畳程もある大きな鉄板だった。
(何故そんなものが……いや、そもそも、鉄板単品か?)
 ゆらゆらしながら鉄板が運ばれる。もう一人は生徒会長だったようだ。
 衛宮と間桐慎二の姿が何故か見当たらないので、残る男手は少年と寺の子だけだったようだ。
 確かに、アレは美綴嬢や蒔寺でも辛いだろう。当然、私と由紀香などは不可能に分類される。
(藤村先生なら或いは……いやいや)
 あまり失礼な想像をするべきではない。衛宮家の人々は何やら忙しそうだし、あの作業は二人に適任なようであった。
「とりあえずのっけちゃって。後は士郎に任せるからねー」
 機嫌良さそうに先生は言う。どうやら、その鉄板がこれから製造するものを想像してご満悦のようだ。
 いつの間にか隣に並んでいたセイバー嬢も、似たような表情である。
 その後、椅子やらシートやらを運ぶ作業を手伝った。
 その際土蔵に入ったが、蔵というよりはゴミ箱の類か、と思うような雑多かつ無益な代物で溢れていた気がする。
 やたら電化製品の残骸が目立ったが、ならば隅の方にあった使用可能らしいパソコンは何なのか。
 埃どころの騒ぎではないこの空間で、精密機器の使用とは恐れ入った。
 それにシートやら布団やらを見る限り、衛宮はここで寝泊りする事もあるようだ。
 何故衛宮だと解るのかというと、直しかけのビデオやら使ったまま仕舞っていない工具などが、いかにも奴らしいなと判断したからである。
 ちなみに、無造作に転がっていたスパナを気付かずに踏んで、悲鳴と共に派手に転んだのは内緒の話である。
 唯一見ていた少年には口封じをして事なきを得たが……
「自立工具、許すまじ」
 私の笑みが、どういう意味を示していたかは定かではない。

 ***

 そんなこんなで、宴会は開始された。時刻は四時半、そろそろ日も傾こうかという頃合である。
 ちなみに、これはクリスマスパーティーではない。宴会である。何故そう強調するかは、後の様を見れば明らかになるだろう。
 最初に衛宮から挨拶があった。どうにもしどろもどろな印象がぬぐえなかったが、業を煮やした遠坂嬢によってすっぱり締めた。
 私はてっきり家主である衛宮の主催かと思ったが、どうやら遠坂嬢の発案だったようだ。
 数度、彼女の平常の様は見ているので驚かないが、やはり学園での振舞いは演技のようである。
 蒔寺から聞いてはいたが、その完成度は舌を巻くばかりだ。失礼を承知で表すなら、擬態の一言であろうか。
 本性は祭り好きというか、派手な性格のようである。それでもその鮮やかな印象が変わらないのが、彼女の本質は一定不変である証明だろう。
 始まってすぐに、簡易的なテーブルに料理が並び始めた。運んでいるのは間桐嬢とセイバー嬢である。
 運ぶたびにつまみ食いしている彼女が微笑ましい。言動は硬い印象だったが、私よりはるかに可愛らしい少女だった。
 開始当初はそんな和やかな様子だったが、日が沈みかけたところで一変した。
「よーし、士郎シャンパン持ってきて!」
 言い出したのは遠坂嬢だった。約束は押さえたい人種のようである。
 ソレに対して衛宮は反対の意を表した。それに頷けば今後どうなるかが、彼には痛いほど正確にイメージできたからであろう。
 ちなみに、私にもその情景は思い描けた。筆があれば絵に出来そうなほど克明なイメージであったのは言うまでもない。
 口はやはりというか遠坂嬢が何枚も上手だった様子で、最後には監督役であり良心の砦であるはずの藤村先生に判断を仰いだ。
 が、
「あ、うん。いいんじゃない? クリスマスだし。でもちょっとだけよ」
 言うなれば解禁令レベル1といったところか。
 その言葉にうなだれながらも、衛宮は縁側から家の中に入って行った。酒を持ってくるのだろう。
(そんな限定解除条約が、本当に遵守されるなら良いが)
 衛宮が戻って来た。さっきまでいなかったライダー嬢も一緒である。
 相変わらずぞっとするほどの美人だが、両手に抱えた酒に、本当に良いのかという表情を浮かべている。
 自信のなさそうな表情が可愛らしいな、と何となく思っていると、唐突にその笑みに邪が入った。アヤコ、と口にする。
 視線を辿れば美綴嬢の姿が見える。その顔に宿る怯えは、一体どういう理由から来たものか。
 各自にシャンパンを満たしたグラスが配られる。私も受け取ったが、アルコールの入っていない見せ掛けではないようだ。
(というか、これは中々上物では)
 酒について詳しいというわけではないが、父と共に出席するパーティーでは良くこういうものを口にした。
 少なくとも、子供向けの炭酸飲料でない事は確かだ。
 最後の砦は打ち崩された。一度アルコールが入れば、豹変しそうなのは数人いる。そのうちの一人が私の身内というのが頭痛の種であるが。
 かくして、それからさらに1時間。
 ちょっとだけよ、などという口約束は決めた本人が最初に破って、上品なパーティーは完全に飲めや歌えの宴へと堕ちたのである。


 以下、観察記録。


「先輩、料理が足りません!」
 間桐嬢が慌てて声をあげる。普段の彼女は良く知らなかったのだが、思いのほか明るい性格のようだ。
「本当か桜!? よし今すぐ満漢全席だ!」
 実は酒に弱かったのか、少々外れたテンションで馬鹿な事を言っている衛宮。やれるものならやってみたまえ。と、
「この俺の食製についてこれるか。
 僅かでも手間を惜しめば、それがおまえの敗北となろう……!」
 さらには、酒に酔っている風でもないのにスイッチが入ってるアーチャー氏に、
「ついてこれるか、じゃねえ。――てめえがついてきやがれ!」
 そのスイッチにひきずられたのか、そのままヒートして鉄板の上で料理対決をはじめだしたブラウニーが二人。
 相性が良いのか悪いのか、作り手は二人なのに出来上がる料理は三倍以上である。生産が消費を上回りそうな勢いだ。
 というか衛宮、質量保存の法則を知っているかね。
 しかし、この宴ではそんなモノはまだ序の口らしい。

「ちょ、なんでこんなところにアンタが……!」
 叫び声に驚いて振り返れば、常は優雅な遠坂嬢がいつになく焦り顔。
 手には何やら、ピンク色でプラスチック製に見える子供向けの杖が。
 良くある子供だましのおもちゃなのに、どうして周囲の空気が陽炎のように揺らいでいるのだろうか。
「呼ばれ(ずとも)飛び出てジャジャジャジャン! 貴女の人生に(血塗れの)愛を提供する人工天然精霊、マジカルルビーちゃん出現です!」
 ただのおもちゃかと思えば、何故か問答無用で可愛らしい声で突然喋りはじめた。
 特定の音声を発する類にしては内容が壊れているので、遠坂嬢の腹話術と思われる。
 しかし、耳を通さずに副音声が聞こえたのはどういう手品か。疑問が尽きないな。
(それより、人工でありながら天然とは)
 恐ろしいネーミングセンスだった。脳死は目前かなと予想する。
「あ、あんた……まさかまさかまたアレやるつもりじゃ。――アレはもういやぁああああああ!」
「ふふふ、相変わらず生きるギャグ属性。笑いの為なら手段を選ばないヒロインの鏡ですね! ――というわけで張り切ってイきましょう。さん、はいっ、鏡界回廊最小展開!」
 遠坂嬢の叫びが終わらずに杖が言い終えると、同時にどういう仕掛けか眩い光が走った。
 叫びながらの腹話術とは、芸が凝っているなと思いながら改めてみると、何と服装が痛い系大きな子供向けアニメの魔法少女カレイドルビーになっていた。
 流石の私も驚愕を禁じえない。
 ちなみに、カレイドルビーとはこの地域だけ放送しているテレビアニメで、由紀香の弟たちに好評の番組である。
 一度見て製作者の理念に感服した。アレは子供以外には理解不能の代物である。
 素直に感心する。私は見ていなかったが、遠坂嬢はアレを文化祭でもやったそうだ。全校生徒の前で魔法少女とは、確かに手段を選ばないなと評価した。
「わぁ、相変わらず面白いわねー、その格好。――でもちょっと痛い」

 ……さて、藤村先生が私の内心を代弁してくれたところで、遠坂嬢を観察するのはやめにしよう。
 芸といえど、あまり見られると恥ずかしいだろうという配慮である。
 ちなみに、蒔寺は腹部を抱えて笑いながら遠坂嬢を揶揄していた。
 楽しそうなので、今日くらいは良しとするべきか。
 度が過ぎるようなら由紀香と二人で説教である。
 視線を移すと、その先には忙しそうに配膳している由紀香とセイバー嬢の姿があった。
 呼ばれた宴会で手伝う由紀香は優しい子である。
 その横で、配膳が追いつかないほどのスピードで料理を作っていく妖精どもには頭痛がするが。
 というか、さっきからあの二人の周囲で出ているテロップはなんだろうか。
(……アンリミテッドクッキングワークス? 新手の料理番組のつもりか?)
 空間そのものが歪んでいる為か、何が起きても不思議に思えない。この場はもはや、物理法則そっちのけの大結界だ。
 シャンパンを飲みすぎたかなと思い返すも、私が口にしたのは最初の一杯のみである。後はソフトドリンクだけだ。
 ソレも尽きたので、今度は酒を貰う事にした。シラフでいる方が異端である気がしたからだ。
 シャンパンはとっくの昔に消えていて、今はワインやら焼酎やら蛇酒やら――って、何故にこんなところで蛇酒なぞ?
 まともでないのは人間のみではないらしい。しばしば口にした料理に軽い不安を覚えながらも、とりあえず見覚えのある白ワインをグラスに注いだ。
 詳しくもない酒を、この場で口にするのは非常に不安である。
 食べると配るを両立させているセイバー嬢に皿を返して、私は縁側の方に歩いていった。
 蒔寺のお陰で慣れてしまったが、本来騒がしい場所は苦手な私である。
 良く考えれば非現実がオンパレードの異空間では、精神が疲弊するのも当然と言えた。

 似たような理由なのか、あの騒ぎの中に入らずに一歩退いた場所にいる女性を見た。
 仕事着なのか、男物のスーツを着ている。体つきはスレンダーで、雰囲気は鋭利。その印象は短剣を連想させた。
 凛としている為男性にも見えそうだが、顔そのものは十分に美人である。
 ――誰が言ったかは忘れたが、名をバゼットと呼ばれていた。
「……、……、……、……美味しい」
 苦笑する。退いているというよりは、ただ食べるのに熱心なだけなようだ。
 彼女は、あまりそういうモノに関心がなかったのに……そう思ったところで、自分の感想に疑問が湧いた。
 良く考えれば彼女とは今日で初見。
 それも挨拶程度しか話していないのだから、なかったのに、というのもおかしな話だ。
 はて、どこかで実は会っていたかな、と思い返す。
 そう言えば、何となく、とても良く知った人だった気も――、
「……ッ」
 深く考えた瞬間、また例の鋭い頭痛。お陰で何が疑問だったのか有耶無耶にされてしまった。
(む、……まあ良いか)
 祭りの日に考え事など無粋である。こうして彼らを見ているだけでも十分に楽しいのだ。

 それは、

「大体、何でアンタがここにいるんだよ。辛気臭くて場違いじゃないか」
「ええい、貴様にだけは言われたくないわ。良い機会だ、その腐った性根叩きなおしてくれる」
 と酒が入って言い争いした挙句、
「ん〜んん〜? 脳がイタァい? ――馬鹿め、貴様らは死んだわ」
 タイガークローで脳殺されている二人だったり、
「アヤコ……今日は帰しませんよ?」
「ら、らららライダーさん? ちょっと、凄く酔ってませんか?、ってアンタも見てるなら助けろ!」
「ねーちゃん、父さんたちが見たら説教じゃ済まないぜ……」
 普段は軽快に笑っている美綴嬢の困り果てた姿だったり、だ。
 どれも、普段の私の生活とはかけ離れた情景だ。目にする事もなければ、想像にも上らない。
 ゆえにそんな日常の断片でも、観察が趣味である私には面白い。言葉を用いる必要もないくらいに。
 だから、私は眺めていた。あの騒ぎの中に入りたいと少しだけ思ったけれど、ソレは気のせいだろう。
 こういうモノは時々、離れて見るだけで良い。でないと、私は疲れてしまうから。
(いや、既に疲れているな)
 苦笑と共に呟いた。基本的な気力が違うのである。元々縁の無い景色なのだ。
 意味の無い、拗ねた感情を自覚した。入れるくせに入らない。
 理由をつけて勝手に諦める、いつも通りの下らない自分。
 意識して笑みを浮かべた。悪くない、と繰り返す。
 そう、たまにはあって良いだろう。大勢の中にいて孤独を感じる事も、それを寂しいと思う事も。
 ……全く似合わないが、たまには。と小さく呟いたところで、

「何が似合わないんですか?」
「――――」

 唐突に言葉を返された。
 僅かに目を見開いて隣を見る。そこには、先程まで美綴嬢をフォローしていた少年の姿があった。
 心拍は動じない。酒が入っているからか、それとも月が綺麗だからか。
 いつの間にかソコにいた事に何の驚きもなかった。ただ、意外だと思っただけ。
「美綴嬢は、どうしたのかね」
「ライダーさんに任せましたよ。俺じゃどうにもなんないんで」
 聞きながら中庭を見る。先程いた辺りには美綴嬢もライダー嬢もいなかった。
「それは……。後で、寺の子に経を上げてもらう事にしよう」
 そう言って、美綴嬢の冥福を祈った。あのライダー嬢の様子からして、きっと無事では済むまい。
 笑い声に視線を向けた。庭では相変わらず騒がしい。
 遠坂嬢は思考が攪拌されそうなヨクワカラナイ台詞を叫んでいるし、
 衛宮はアーチャー氏に勝てなかったのか隅のほうで膝を抱えているし、
 セイバー嬢はそんな彼を慰めているが、手の皿はアーチャー氏謹製のお好み焼きだし、
 間桐慎二と柳洞一成は、藤村先生の制裁によってシート上にドナドナである。
 その横ではライダー嬢にマウントをとられて頂かれそうになっている美綴嬢と、ハラハラしつつ何故か止めずに注視している間桐嬢とか、
 藤村先生と蒔寺はもはや人間を辞めて動物になっている。二匹を手懐けているのは満面の笑みの由紀香だ。流石だ、と言わざるを得ない。
 中でも、炎の調理対決に勝利したアーチャー氏は、一際異才を放っていた。彼の周囲に炎の幻が走っている。

 額には汗を浮かばせ、休みなどいらぬ、一度止まればもう二度と機会は訪れぬわ、という修羅の如き気迫。
 というか意地になってないかあの人、返しのスピードが尋常ではないぞ。
 もしかして嬉しいのか。あのソースとソバを百年間ぐらい混ぜ込んで合体事故させたあげくワタシ魔道ヤキソバ今度カラヨロシクみたいなやっつけ仕事が嬉しいというのか。
 だとしたらまずい、アーチャー氏もまずいがバゼット嬢もまずい。
 アレ、絶対相当なカロリーを摂取している。そうでなくては、ずっと食べている質量が保存できない。
「どうした、食べてばかりでは話にならんだろう。休んだらどうだ」
 作りながらコックは言う。
「――――――――」
 ずっと皿のヤキソバを咀嚼する。
 凄い、ヤキソバ、残るは二口分のみだ。
 あの人、何皿目を完食する気か……と、見ている私が眩暈を起こした時、不意にコックの手がとまった。
「――――――――」
「――――――――」
 アーチャー氏とバゼット嬢の視線が合う。
 アーチャー氏は何故か期待に満ちた瞳で彼女を眺めて、
 バゼットは苦渋に満ちた眼差しでコックを見つめて、
「お好み焼きは――――?」
「もう遠慮します――――」
 苦慮の末に箸を置いた。
「…………」
「――――」

 流石に言葉がなかった。
 作り手対使い手の異例のフードファイトは、製造者の押切勝ちだったようである。
 私の記憶に反してコメディテイストに色づけされた二人に、若干の眩暈を覚えつつ、誘惑を破ってカロリーを拒絶したバゼット嬢に安堵した。
(まあ、手遅れだろうが)
 私たちの年代なら確実に体重計の悪夢を見るだろうな、と予想しつつ彼女から視線を外す。
 決して羨ましいなどとは思っていないのだ、私は。アーチャー氏と衛宮の料理はどれも秀逸だったが、それでも。
 気分を半ば自覚的に修正して横を見ると、未だに言葉をなくしている少年がいた。
 年上の女性に対するトラウマがまた一つ増えたのか。
 まあ、バゼット嬢ほどの美女があのような理不尽を働いたとあっては、青少年の幻想は粉微塵だろう。
 良くも悪くも、美綴少年は年上にしか興味がないようである。彼自身が気付いているかどうかは定かではないが。

 ***

 とりあえず動くか、と私は腰を上げた。
 そのまま振り返り、呆然としている少年の眉間を小突く。
「痛っ」
「飲み物を貰ってくる。君は何が良いかね?」
 彼は眉間を指で軽く擦りながら、なんでもいいッスと答えた。
 その言葉に頷いて、彼のカップを受け取る。
 縁側を離れて、先程まで眺めていた庭へ歩いた。
 なるべく周囲の熱気に中てられないようにしつつ、テーブルから適当な飲料を二つとって、ソレゾレに注いだ。
 アーチャー氏にお好み焼きを頼もうかとも思ったが、両手が塞がっているので諦めた。
 持てない事もないが、バランス的にあまり美しくないだろう。そういう見栄を、私は大事にしている。
 なので若干後ろ髪を引かれつつ、私は縁側へ戻った。彼にカップを渡して、隣に座る。元々そこは私の席だ。
「ぶっ」
 少し口につけたところで、少年が妙な声を上げた。そのままゲホゲホを咳き込む。
 どうしたのだね、と声をかけながら背中を撫でてやった。こういう経験は初めてだな。
「どうしたも何も、これ酒じゃないっスか! しかも何かキツイし」
 ソフトドリンクだと思って一気に流し込んだのか。ちなみに彼のソレは蛇酒だ。
「何でも良いと言ったのは君だろう。それに、その年になってアルコールも口に出来ない弱虫さんかね、君は」
 言いつつ、私は自分のグラスを口にする。
 中身は白ワインだ。蛇酒なんて怪しい代物は、とてもではないが受け付けない。
 挑発が効いたのか、むっとした表情を見せた少年は、一度カップを見て覚悟を決めたように傾けた。
 そして、何かに気付いたように眉を寄せる。
「あの、」
 なんだね、と答える。若干笑みが浮かぶのは、仕方ない事ではなかろうか。
 コレハナンデスカ、と引きつった表情で少年は問うた。まあ、解るだろうな、香りだけでもまともではない。
 薬草とかその辺りが入っているのだろう、たぶん。詳しいコトはヨクワカラナイが。
「蛇酒だ。銘は知らん」
 ガックリとうなだれた。気を落とすなと背をさすってやる。
 前から思っていたが、男にしておくのが勿体無いほど可愛いヤツである。
「何で俺の周りはこんなのしか……」
 そう言って、そのままブツブツと愚痴を零しはじめた。
 適当に相槌を打つ。彼の愚痴は大半が姉の事に集約されていた。やはり苦労しているらしい。
 次点で多いのが私と間桐嬢だ。間桐嬢には、日頃から肩透かしを食らっている気がするらしい。
 そこはあまり詰めない方が良いぞ、と忠告した。
 私への愚痴については? ――内緒である。
 常日頃の蓄積か、彼の言葉は終わる気配がしなかった。下戸なのか、酒が災いしたらしい。
 私は強い方ではないが、別段弱くもない。酔った記憶はあるが由紀香曰く、全く変わらない、そうだ。
 さてどうしたものかな、と悩んだところで、今日本来の予定を思い出した。
 皆の荷物はまとめて縁側に置いてある。私のも同様で、探せばすぐに見つかった。
 鞄を開き、包みを取り出す。若干心拍数が上がったが、すぐに平常に落ち着いた。
 振り返って、未だ呟いている少年の眼前に差し出す。
 突然現れた物体に驚いたのか、顔を上げて私に問うた。
「なんすか、これ」
「昨日の恩返しだ。他意はない」
 意識して素っ気無く答えた。意識しなくても同じだったかもしれないが。
 あ、ありがとうございます。と戸惑ったように受け取ろうとする少年。が、その瞬間彼は、何かを思い出したように停止した。
「どうしたのかね」
 いや、ちょっと、と口にして、私が差し出した包みはそのままに鞄を探す。何をしているのかと思っていると――
「あー、あの、これを」
 鞄から、私と同じような包みを取り出した。
 ――というか、全く同じヴェルデの包装である。
(む、これはやはり……)
 苦笑する。本来なら、プレゼントなんて渡されれば驚くはずなのに、あまりに出来すぎていて笑いしか浮かばなかった。
 私は包みを受け取り、彼は私の包みを受け取った。クリスマスらしいプレゼントの交換。
 包装も同じ、手に持ったその重さも変わらない。中身は開けずとも予想がついた。
「考える事は、同じか」
「……らしいっスね」
 私が思わず笑ってしまったせいか、彼は憮然とした表情だ。プレゼントの選択を誤った、と悔いている節がある。
「気にするな。コレはコレで洒落が利いている」
 本当にそう思っていた。私も彼もそれなりに真剣に選んだはずなのに、一体これは何の冗談か、と。
(ままならぬものだ)
 つまるところ、私たちはそういう関係なのだろう。神様のお墨付きだ、笑うしかない。
「しかし、私などに贈り物など用意していいのかね。折角、間桐嬢に渡せたのに」
 あまり深くは知らないが、こういう日は好きな人がいるなら、どうでも良い異性には贈らない方が良いと思うが。
 心証が悪くなるのではないか、と告げると、彼ははてなと眉を寄せた。ついで、何かに思い至ったように口を開く。
 その表情に若干焦りが見えた気がした。
「あ、えっと、もしかして昼間の事ッスか?」
 ああ、と答えた。そういえば、あの時邪魔してしまったのだったな、私は。後で謝らなければ。
 そんな私の回想を他所に、少年は悩むように唸る。
「あー、あれは……俺じゃなくて、なんつーか、あれは」
 要領を得ない。あれは、何だと言うのだろうか。私には、ただ好きな人にクリスマスプレゼントを渡している少年にしか見えなかったのだが。
 彼が何を言わんとしているのか解らなかったので、あれは? と先を促す。すると、

「あれは、部全体の代表で渡しただけで。――俺個人のプレゼントじゃないです」

「……今、なんと?」
 思わず、問い返した。予想外といえば予想外。しかし、よくよく考えれば大本命という気がしない事もない。
(つまり、私のはやとちりか?)
 額に手を当てる。嘲笑うように頭痛がした。
「そういう事か……いや、なら素直に受け取っておこう。ありがとう」
 何故こうも締まりのない場面になってしまうのかな、と嘆息する。
 こうなってくると、蒔寺との話もどうでも良くなってきた。
 案外、少年に会った事を蒔寺がただ忘れただけなのかもしれない。
 楓が嘘を吐く事はないという前提は崩れないが、ヤツなら本気で失念している可能性も大いにあるのだ。
 それに、少年が嘘を吐いていたところで、別に私に被害が及ぶわけでもない。理由は解らないが、やはりわざわざ問い質す必要はないと結論付けた。
 しかし、あれ、と疑問が過ぎった。さっき、何かおかしな事になってなかっただろうか?
 昨日の事ではない。ついさっきだ。私だけではなく彼も、互いに何かとてもおかしな事を言っていたような。
 どこかが噛み合っていない。というより、私の勘違いがあらわになったゆえに、何か道理が崩れるような発言になったような。
 そう、それは、
(……俺個人のプレゼントでは?)
 つまりそれは、彼個人のプレゼントは、私だけにという事で――、

『こういう日は好きな人がいるなら、どうでも良い異性には贈らない方が良いと思うが』

 先程自分が内心で呟いた台詞に、顔から火が出るほど赤面した。
(いや、まてまて。はやまるな)
 口元を手で隠した。壊れかけた思考にブレーキをかける。
 そう、何もプレゼントを贈る事がイコールで恋愛感情に繋がるわけではない。
 そんな事言ってしまっては、私のプレゼントもそういう意味になってしまうからだ。
 ゆえに、彼の言葉に特別な感情は存在しない。何故かは判らないが、彼には私に礼を返すだけの理由があっただけの話だ。
 そう、私と同じように、と呟いた。一瞬あらぬ方向に突き進みかけた思考は、それで何とか平常に戻ってくれた。
「ハァ……誤解しそうな事を言わないで欲しいな。寿命が少し縮んだぞ」
「は?」
 意味が解らないという表情をする少年に、こっちの事だと答える。
 それから、誤魔化すように微笑んだ。
 不意に、一つのイメージが浮かぶ。吟味しないまま、私はそれを口にしていた。
「私たちはアレだな、シングルベルが二本という感じだ」
 自分でも良く解っていなかったが、本当に、そんな感じだと思った。
「言われてみれば」
 それもそうですね、と少年は苦笑する。二人でいるのではなく、寂しいベルがいちたすいち。
 そう思うと不意と笑みがこぼれた。これほどらしい状況もない。
 だからだろう。自然と手が動いた。グラスを彼のカップに当てる。
 カツン、と出来損なった鐘のような音が響いた。
「まだ、今日言っていない言葉があってね」
 ソレで気付いたのか、そういえば、と彼は呟いた。私と同じようにカップを鳴らす。
(それでは、)
 グラスを動かす。彼の口元にタイミングを合わせた。
「「メリークリスマス」」
 告げたままにサカヅキを空けた。味なんて判らない。
 風が吹く。サラリと髪がさらわれて、それまでずっと続いていた頭痛が溶けて流れるように消える。最後に、名残惜しげに痛みを残して行った。
 その感覚に、ほんの少しだけ寂しさを感じたけれど、何も言わずに風を見送る。
 月に届けば良いと思った。今日は、とても綺麗な夜なのだから。
「氷室先輩、思ったんですが」
 唐突に少年が呟いた。なんだね、と答える。
「イブでも、メリークリスマスって言って良いんですかね」
 何を言い出すのかと思えば、そんな事か。
「言える時に言っておきたまえ、でないと後悔するぞ」
「そんなんでいいんすか?」
 呆れ声の少年の襟をつかんだ。立ち上がる勢いを添えて強引に引っ張る。
「ちょ、いきなり何をッ」
 慌てる言葉は無視した。ずんずんと引っ張る。行く先はもちろん中庭の宴会である。
「折角の祭りだ。二人でちびちびしていても仕方がなかろう」
 なんですかどういうつもりですかと悲鳴を上げている少年に、顔も見ずに私は告げた。
 もう考えるべき事はない。頭痛も消えた。見ているだけなんて、ずっと続けていれば飽きてしまう。
 たまには趣向を変えてみるのも良いだろう? と少年に言う。
 彼がどんな表情をしたのかは、きっと私しか知らない。

 それで良いと思った。


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