その日の晩、本当に良いのか、と問う父に対し私は、
「構いません。何度もそう答えたはずですが」
 このところ頻繁に繰り返した台詞をもう一度告げた。
「お前が望まないのなら、いくらでも覆すことはできるのだぞ?」
 その台詞はもう六度目です、という感想は口に出さない。
 今日あった彼との出来事を思い出しても、心の裡が変わることはなかった。
 否、変じるどころか、揺れることさえ。
「望みも諦めもありません」
 ゆえに私の返答変わらない。無感動に繰り返した答えをなぞる。
 最後に、不意に思った言葉を付け足した。
「私は、こういう娘ですから」
 そうか、という父の返答は、六度目になっても私の耳には届かなかった。

 ***

 氷室鐘、十八歳。世の恋人たちを趣味交じりで応援する恋愛探偵。
 日々を部活とデバガメに費やしてきた私は、明日の高校卒業を目前にして、とんでもない焦燥に見舞われているのであった。
「おかしい……何かおかしい」
 部屋をグルグルと歩く。その様は、不毛に走るハムスターの如き円運動。
 または煮詰まった作家が、締め切りに追われててテンパっている様か。
 ワケも判らない雑念が、就寝することを許さない。眠りたいのに眠れないなど、小学生の頃もあったかどうかだ。
 ゆえに、その焦燥に付け加えて疑問がちっぽけな私の頭の中でグルグルと渦巻いている。到底ジッとしていられるものではない。
 余人に女史と呼ばれる私だが、今の姿を他人が見れば首を傾げるのは必定か。
 何を考えるか考えようなど、ふざけた思考を本気でしているあたり夢を見ているのでは、とさえ思ってしまう。
 進学も市内の大学に決まり、卒業に危ういところはない。欠席も無く、高校生としては文武両道をそれなりにこなしてきたはずだ。
 陸上にも決着をつけ、発つ鳥後を濁さずを地で行こうとする高校生活最後の晩に、一体は私は何を不満に思っているのだろう。
「……そう、そうだ。不安ではなく、飽くまで不満。しかし、一体何が不満なのか」
 電球が頭上で閃いた。纏まらない思考から無理やりヒントを引っ張り出す。
 不安とは不確定と未来に対するもの。不満とは、確定と過去に対するものだ。
 どうやら私は、これまでの高校生活に、何か心残りがあるらしい。
 丹念に過去のアルバムを思い返し始めたその時、一つの映像が脳裏を過ぎった。
(――な、まさか……いや、しかし)
 否、そのまさかこそまさかだ。これまでの観察経験はそれなりに信頼できる。己というファクターを度外視すれば、その仮説は真に自然だ。
 他人の観察、つまり客観視によって培ってきた経験則。その中からの結論として、お約束は存在する。
 いや、それでも、それは、
「む、むぅ……」
 思わず意味のないうめき声が漏れた。
 バサリ、とベッドに身を横たる。白い天上を見上げながら、私は苦笑を浮かべるべきか、ため息を吐くべきかを迷った。
 疑問は解消、不満の種はありふれた品種。植えられた時期はクリスマス辺りか。
(あとは掘り出して取り除くなり、水をやるなりすればいいのだが……)
 困ったことに種の名前は、とある年下の男の子であるようだ。

 尤も、もう私には選ぶ余地などないのだが、という呟きはとりあえず無視しておくことにした。



氷室恋愛劇場 終幕 
       Liebestraum





(――眠い)
 悶々とした考え事による徹夜明けの卒業式。特に何事もなく終わったので感慨もそれほどない。
 隣で静々と泣いている由紀香を撫でて慰めながら、私は実に情緒の無い感想を思い浮かべていた。
 ソレも仕方がないだろう、空気を震わせる騒がしい気配に視線を向ければ、少しコチラから進んだところで何やら荒れている獣が一匹。
 その名こそ蒔寺楓、周囲に漂う卒業の余韻を破壊中な暴虐魔人である。どうやらエアリーダは故障中であるらしい。
 ……いや、それはいつもの事か。
「チクショー泣いてない泣いてないよ! あたしが卒業式なんかで泣くかよでもちょっとしんみりとか思わないようわぁん!」
「……素直に、ついでに静かにしたまえ蒔の字。君の頬を流れているのは、誰からみても乙女の結晶だ」
「うぅ、でもやっぱり寂しいよ鐘ちゃん……」
 楓に触発されたか、由紀香の悲しみゲージが更に増したらしい。
 時価にして一億を下らない宝石を惜しむ事無く流し、しくしくと私の胸濡らしている。
 ああ、佳きかな。などと私が思ったかどうかは定かではない。
「よしよし由紀香、君は心行くまで泣きたまえ。――楓、君は少し自重したまえ。校舎を壊すのは犯罪だぞ」
「なんだよなんだよあたしにも優しくしてくれよー、良いじゃんかよー校舎は皆のものでつまりあたりのものじゃんか、記念にちょっとくらいくれよぅ」
「いやいや、校舎は良くないから」
「ま、動物じゃ道理が判らないのは仕方ありませんし、寛大な心で許して差し上げるのが人間でしょう」
 己ではない返答に振り向く。答えたのは、私たちに遅れて教室棟から出てきた美綴綾子と遠坂凛だった。
 流石穂群原の二大女傑。どちらも三年通った校舎への惜しみなど、表情には一片も浮かんでいない。
 むしろ、更に視線の先にいるどこぞのブラウニーの方が、感慨深い表情を浮かべているほどだ。最後だから色々水に流して思うが、アレは中々良い男かもしれん。
 美綴嬢を見てとある連想が働いた。若干の心拍上昇、思考を切り替える為に、まだ泣いている由紀香の髪を梳いた。
「つーかなんだよ。美綴と遠坂と、それから氷室。アンタら余裕過ぎっつーか、鬼か? 悪魔か? 冷血か? 冬木の黒豹を差し置いて涼しい顔とはふてーヤツらだね!」
 仮定として私が冷血、順序に従って鬼は美綴嬢だとすると、悪魔はやはり遠坂嬢か。
 一致しないようで全員の的を射ている気がするのは、恐らく思い過ごしではないだろう。
 何故なら、楓の言葉に彼女らが浮かべたソレは、実に血の朱が似合いそうな笑顔だったゆえに。
 私は別れに浸っている由紀香が気付かぬよう、意識してゆっくりと歩を進めた。
 背後で戦の気配がするが、鬼と悪魔のコンビ相手に黒豹一匹ではどうにもなるまい。
 楓が無事成仏できるよう寺の子を呼ぶべきか少しだけ思案し、――まあ良いか。悪魔はともかく、鬼の目には涙くらいあるだろう。
 由紀香を伴って正門へ向かう。そこは既に、卒業生と迎えに来た家族やら友人やらの部外者で溢れていた。
 よく見れば在校生もいるようで、あちこちですすり泣く声。部活関係者が多いような気が……と。
「あ、氷室せんぱーい!」
 駆けられた声に手を上げて返す。そのまま彼らの元へ足を向けた。
 正門から少しグラウンドよりの木陰で、陸上部の後輩たちがたむろしていた。数人の卒業生もいるようだ。
 辿り着くなり、由紀香から手を離す。彼女は同じマネージャー仲間と抱き合って泣き始めた。やれやれ、当分は動きそうにない。
 楓もしばらくは忙しいだろうし、ここで時間を潰すことにした。
 どうせ家族は仕事で迎えに来ない上に、我ながらアッサリしているとは思うが、特に望んでもいなかった。
「「ふえぇん」」
 言葉を交わさずに意思疎通をしているらしい由紀香たちを横目に見ながら、同じ高飛びの後輩と立ち話など少々。
 かけられた言葉に少し色を加えて返しているだけだが、話しているうちに妙な違和感に気付いた。
 いや、違和感とも違うか。どちらかというと、雰囲気。何か躊躇っているような、本題を隠しているようなそんな曖昧さ。
「どうかしたのかね」
「い、いえ」
 視線を向けると、彼は僅かに逸らす。焦燥の色が濃くなった。
 首を傾げる。不意に、別の後輩が彼を小突いた。何かの合図だったのか、彼は一つ深呼吸。今度はキッチリと視線が交差する。
「氷室先輩」
「なんだね」
 私は何でもない声音で問い返す。正直、何となく予想はつくのだが。
「あの、俺と付き合ってくださいっ」
「――――む」
(まさか的中とは……喜ぶべきか悲しむべきか。むむむ)
 流石に、全くの平静とはいかない。鼓動は若干速くなり、頬にも多少熱が差す。
 周囲はそれどころではなく、男子女子の区別もなく大盛り上がりだ。言い出した彼の顔など、トマトかと見紛うほどである。
 私は物語の登場人物のようにとんでもなく鈍感、というわけではないし、あまり褒められない趣味のためか、そういうことには聡い方だ。
 自分にそういう視線が向けられるのはかなり希少なので、正直微妙だったのだが、やはり正解らしかった。
「その、なんだ」
「はい」
 僅かな躊躇、が答えなど決まっている。
 一つため息を吐いて、「すまんな、頷けそうにない」アッサリと答えることにした。
 歓声がさらに上がる。結果など関係ないようで、卒業式というイベント効果も相俟って陸上部のテンションは最高潮だ。
「やっぱ、そうですか……」
「ま、君にはすぐに春が来るさ。上物のな」
 一人ダウナーに呟く後輩。私の言葉をただの慰めと取ったようだが、それは否である。
 私は返答した途端聞こえた安堵のため息に気付いていた。横目に見れば、中々可愛らしい一年生。
 どことなく雰囲気が由紀香に似ていた。そして、それは私にとって最上級の褒め言葉なのである。
 一瞬視線が交差、意地の悪い笑みを向けると、慌てるように少女は視線を地面に向けた。真に私好みの青春風景。
 大好物を前に内心笑みが止まらず、気分もそれなりに高揚した。
 なるほど、卒業というイベントは冷血に対してもそれなりに効果を発揮するらしい。

 ***

 結局楓はそれから三十分ほど後にやって来て、今から遊びに行ってくると告げてとっとと走り去っていった。
 校門の先で遠坂嬢と美綴嬢が待っていたから、三人で馬鹿騒ぎといったところであろう。
 由紀香も由紀香で、別れるに別れられない雰囲気に突入していた。残っていた陸上部の面々と共に、どこかへ行くらしい。
「え、鐘ちゃんはいかないの?」
「ああ、気分ではないのでな。気にせず私の分まで楽しんできてくれ」
 僅かな躊躇いがあったようだが、彼女は納得してくれた。
 大勢というのを私が好まないのは皆知っていたことだし、楽しみたい者で楽しんだほうが建設的であるからだ。
 これで彼らと公に会う機会はなくなるが、なに、今生の別れでもなし。軽く手を振るのもそれはそれで風情があるというものだ。
 彼女らと別れを告げて、一足先に家路に着く。バスに乗り、数分後には新都に到着。何事もなく蝉菜のマンションについた。
(結局会わなかったな)
 誰と、とはもはや言うまい。夏の終わりからそれなりに縁が合うようになったが、終わりはアッサリしたものだ。
 同じマンションゆえ会うこともあるだろうが、学校にいた頃ほどの接触はないだろう。陸上部の後輩達と同じだ。
 彼に対しては何故か拍子抜けに似た名残惜しさを感じつつ、私はエレベーターのボタンを押した。
 待つこと数十秒、高い電子音と共に扉が開く。中に入りすぐさま階を指定し、

「あ、すみません俺も乗りま……」
「――どうぞ」

 開くのボタンを押す。思わず、ため息を一つ吐けば僅かに気まずい雰囲気の箱が一つ。
 つい先ほど考えていた相手がそこにいた。

 ***

「あー、その、……卒業おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
 そして沈黙。点滅する光はエレベーターがまだ三階を越えたに過ぎないことを示している。
 時間の経過は遅々として進まない。否、あくまで時は平等だ。ただ、私がらしくもなく無意味な焦燥に駆られているだけで。
「氷室先輩は、確か進学でしたっけ」
「ああ、市内だ」
 沈黙を感じているのも、恐らく私だけだろう。彼からしてみれば、会話が途切れないように話を振るので精一杯。
 その努力を完璧に無視している辺り、どうやら私は酷い女らしかった。
 そんな私の素っ気無さには、流石彼のエアリーダーも働いたらしい。
 何か言おうとしたらしいが、今度は何も出てこなかった。
 曲がりなりにも続いた会話さえ停止。お陰で時間の流れが更に遅くなったように感じるが、エレベーターは己の性能通りに義務を果たしている。
 高い場所に住んでいる事を恨んだのは初めてだが、それも終わりだ。8、9、と次第に近付くナンバー。
(……む?)
 点滅する数字を眺めている。はて、と内心で首をかしげた。
 おかしくはない、私には何もおかしいところなどない。
 けれど何か、己以外の事で忘れてはいけない事を忘れているような……。
 私自身が疑問を解く事は終ぞなかった。何故なら、回答の方から先にやって来たからである。
 高級マンションに相応しい、適度に上品かもしれない安っぽい電子音。
 エレベーターの扉が開き、私たちは揃って外に出た。
「時に少年」
「はあ、なんでしょう」
 私から話し掛けたゆえか、それとも単純に狭い密室の中の沈黙が耐えられなかっただけなのか。
 美綴実典はあからさまにホッとした様子で、問いかけに返答する。
 その視線は「けどなんでこの人ここにいるのかな」であり、つまりそれは、
 どうやら私の方が言いたい事なのであった。

「君は、三階ほど下の住人なわけだが」
「――あれ?」

 振り返る少年。言葉の意味が理解出来ていないのか、その表情に実に間抜けな疑問を浮かべながら、エレベーターの階層表示を凝視する。
 それも数秒。どうやら理解出来ないのではなく理解したくなかっただけらしく、真実を受け入れるなり彼の頬は朱に転じた。
 思い返せばその赤面は、最近見ることのなかった表情。最初に出会った頃は、その朱を毎回意地の悪い笑みで眺めていた筈で。
「そういえば君、ボタンを押していなかったな。――ククッ」
「た、たまにはあるでしょう! つーかその笑い方、久しぶりに意地悪いっすよ……!」
 最近ではわりと冷静な反応ばかりだっただろうか。
 口元に手を添える。こみ上げてくる可笑しさを、今は抑える気にならない。
 本当に懐かしいと感じた。冷静に思い返せばそれほど以前のことではないはずなのに、私は照れる彼を見て何故だか笑みが止まらなかった。
 きっと冷静ではなかった。きっと平静ではあった。だから、私はついそんな事を口走ってしまったのだろう。
「これも何かの縁だ。どうだね――少し私の家に寄っていかないか」

 ***

 正直に白状すると強がりでも虚勢でもなく、何故だか知らないが私は全くと言っていいほど平静だった。
 ポコポコと硬貨大の気泡が浮かび上がる熱湯を、ガラス製のポットに注ぐ。
 一度暖めていたゆえに、温度が下がることのない熱湯が茶葉をジャンピングさせているのを確認して、愛用の砂時計を反した。
「そういえば少年、昼食は?」
「いや、ま、まだっスけど」
 目も合わせず、挙動不審気味に返答する美綴美典。
 それも当然か、女の家に呼ばれる事に慣れていないのは予想済みだし、簡単に対応できるタイプでもなかろう。
 むしろ私に対しても言えることなのだが、と己の安定っぷりに内心首をかしげながら、私はテーブルにカップを並べた。
「そうか。なら、私が作っても良いが、」
「え、遠慮しますよ。別に腹減ってねーし」
「……私の料理など食べたくない、というワケだな?」
「い、いやそういう意味じゃっ」
「冗談だ」と告げながら冷蔵庫の扉を開く。
 慌てたようにこちらを振り返る彼に、私はおかしさを抑えられない。
 ケーキを取り出し、皿に乗せながらクスクスと声を零した。
「いや、あまり人に見せられる腕ではないのでね。君には悪いがこれで許してもらおうと思っていたところだ」
「脅かさないで下さいよ……あ、どうも」
 抗議と感謝はどちらかにしたまえと言えば、再び少年はそっぽを向く。
 戯れにその先を辿れば、リビングの一角を占領するグランドピアノが一つ。
 蝉菜が高級マンションで住人がそれなりに高所得世帯だといっても、そもそもソレは弾き手がいなければ意味を成さない代物だ。
 金銭の問題以外でも、無駄に嵩張るアレを置いている家は珍しいのだろう。
 茶葉の抽出が完了するまで約三分。拗ねた美典の顔を眺めながら、それも良いかと呟いた。
「弾けるんスか?」
「ま、多少はな」
 言いつつ鍵盤の蓋を開く。鍵は閉めていない。使う人間が私しかいない上に、それほど熱心ではないからだ。
 殆どインテリアと化していたモノに手を這わす。さて、何を弾こうか。暗譜している曲は実はそれほど多くはない。
 その時、一つのアイディアが閃いた。悪いが、悪くない。笑みが浮かぶ。困った顔が、思い浮かぶ。
 薄々気付いていたが、私は少々サディストの気があるようだ。

 鍵盤に指を落とす。単調な上下の繰り返しで始まる鐘の音。次いで奏でるのは高音の高速技巧。
 目を瞑っていても譜面は浮かび、動き自体は滑らかだ。ある一点を除けば、私は上手くこの曲を弾いている。
 そうして指を止めた。どうだね、と問えば、正直言って微妙です、という困り顔の少年が独り。
「いや、何か……上手い、と思うんですけど」
「ま、そうだろうな」
 世辞にも賞賛できないが、かといってどこがおかしいか指摘できない少年を眺めながら、カップに紅茶を注いだ。
 どう言うべきかと悩む顔は見ていて実に感じが良い。微笑ましいとはこういう感覚を言うのだろう。
「実は、原曲はとても弾けたものではないのでね。妥協して簡易に編曲し直したら、曲の魅力まで殺してしまったというわけだ」
「ああ、そういうことすか……」
 己の実力で弾ける程度まで難易度を落とせば、それは上手く弾けるのが道理だ。
 普通は弾けるよう努力するか潔く諦めるのだが、趣味だと割り切れば問題がでることでもない。
 そもそも私の専門は絵であり、高校時代から陸上一択。とてもではないが音楽にまで打ち込むことはできなかったわけだし。
「……アレ、それって要するにわざとってことなんじゃあ」
「はて、何の事かね」
 あえてとぼけた声音で誤魔化し、淹れた紅茶を口にする。キレの良い香りが特徴の、それなりに重宝している銘柄である。
 ま、最も気に入ってるのは味ではなく名なのであるが。英国皇太子の響きは、例え絵にならなくとも雅な音というものだ。
「はあ、ほんとに意地悪いな。……なんかあったんすか?」
「――」
 その問いかけに、思わず手を止めた。
(何かあったか、か)
 今の私はどんな表情を浮かべているだろう。笑顔でないことは確かだが。
 父の言葉を思い出す。それはもう、決めたことだったはず。
(何を失い何を得るのか、それさえどうでも良いと断じた。そうだったろう、氷室鐘)
 下らない事を考えた。僅かに思考停止、次いで再起動。
 この状況で何故私がこれほど落ち着いているか、納得がいった。ならば答えることなど決まっている。
「いいや、特に何もないが」
「そっすか」
 それで納得したらしい。
 ただの意地悪な女だと思われている節はあるし、自分でもわりと自覚しているので当然の成り行きではあるのだが。
「ふむ、このままだと下手の横好きと思われかねんな。……よし、一つ名誉挽回といこう」
「え、いや別に」
 そんなこと思ってませんけど、という弁解の言葉を無視して、再び私は鍵盤に指を置いた。
 原曲のカンパネラを奏でる自信などないが、リストを愛する者として、そのどれ一つも弾けないとあっては小さな矜持が許さない。
 片手間の趣味だとしても、せめて片手落ち程度の技量は得るべきだ。
(ゆえに一曲、せめて一つくらいは完璧に)
 奇をてらう必要はない。有名なもの、簡単なもので良い。
 意識せず、指が動く。せめて、ただ綺麗なものになることを願った。

 ***

「ま、こんなところだ」
「……前から思ってたんですが、弱点ないんすか?」
 鍵盤の蓋を下ろすと、呆れたような声音でそう言われた。無論、それが彼なりの賛辞であることは判っている。
 一瞬の思案。確かに、コレが苦手だ、というようなモノには出会ったことがない。
 けれど、それは必ずしも有用であることを示さない。
「器用貧乏なだけだ。君と弓で勝負しても敵わんよ」
 同様に、修練を積んだところで美綴嬢にも間桐嬢にも、偽用務員にも敵わない。
 美術部には私より上手い絵を書く部員がいたし、陸上の大会で最後まで勝ち抜いたワケでもない。
 才能の話で言うのなら、そのようなものは一片たりともなのだ。ただその分、必要以上に器用だというだけで。
 何にでも手が届き、何でもそれなりに使いこなせるとしても、決して何物にもならないという事実。
 それを知った時、理解したのだ。私には価値という価値がない、それだけが私の価値なのだ、と。
「平凡を体現するのが私だからな。この程度なら君にも十分……ふむ」
 己の言葉に、私は一つ頷いた。冷笑、それは楽しいことだろう。
 言葉の、或いは表情の意味を感じ取ったのか、少年は慌てて立ち上がった。
 甘い。甘すぎる。
「お、俺そろそろお暇しますよ。それじゃまた」
「まあ落ち着きたまえ。そう焦る事もないだろう?」
 その行動を予想していた私は、慌てる事無く隣を通り過ぎようとする少年の腕を取った。
 彼の敗因は、退路から遠い場所に位置していた事。私の勝因は、彼をそこに座らせていた事。
 触れた瞬間、体温が上がるのを知覚した。あえて無視する。心拍そのものは平静だ、彼の耳元に囁く余裕さえある。
「どうだね、年上のお姉さんと秘密のレッスンというのは」
「な、何言ってんスか。ちょ、まって、離せって」
 無論のこと冗談だ。あまりに予想通り過ぎる反応に、少々度が過ぎてしまっただけ。
 けれど、それでもはやり冷静ではなかったのだろう。ピアノの前に連れて行こうとしただけなのに、少年の抵抗を測り間違えた。
 押したワケでも、押されたワケでもない。力学的に見たのなら、恐らく極めて美しいエネルギーの移動が観測されたに違いない。
 達人が行う業のように、本当に必要最低限の力が働いて、私たちは見事に滑って転んだ。
「あ」
「うわ」
 背と腰に柔い衝撃。転んだのは幸いにしてソファーで、失敗した巴投げのような格好で落ちてきた少年に挟まれそうになっただけだ。
 しかしそこは武道に生きる少年。女を体重で押しつぶすなんて真似は死んでもしたくなかったらしく、なんとかソファーに手をつくことで耐えた。
 ゆえに眼前には美綴美典の顔。目と鼻の先でももう少し距離がある。互いの吐息が聞こえる至近距離で、私たちは一言も発する事無く硬直した。
 けれど、この期に及んでさえ私は動揺していなかった。深いところで、そんなことに意味はないと知っている様。
 普通に考えるなら、こんな状態、その後どうなってもおかしくない筈なのに。それだけはありえないと冷たい私が呟いた。
「……ッ、スミマセン!」
 勢い良く立ち上がり、後ずさる少年。揺れる瞳の奥に、紫色の少女を見つけて私は笑った。
 そう、私の出番などない。"一番という価値"は、私には無い。だから、例え二人きりになろうと動揺を起こすほうが不自然。
 そんなこと、最初から承知していた事だというのに。
「すまない、少々悪ふざけが過ぎた」
「い、いや、別に」
 否定とは裏腹に、その顔色は深刻だ。
 それも当然だろう。美典が芯の通った少年でよかった。危うく、私は彼を裏切らせてしまうところだったのだ。
 だから、
(もう良いだろう。氷室鐘、貴様が己に課した役割を思い出せ)

 戯れの時間は終わりにしよう。一滴の名残惜しさに気付かぬフリをして、告げるべき言葉を口にした。
「――そろそろ良い頃合のようだ。君は、君の居場所に戻るといい」
 その瞬間の彼の表情を、例える言葉を私は持たなかった。
 安堵と後悔。どちらをすべきか、わからない。そんな言葉を聴いた錯覚。
 けれど実際にこの耳に届いたのは、失礼しますという小さな返事だけ。
 足早に立ち去る少年。玄関を閉める音が響く。それが合図となり、私は体の力を抜いた。
 ソファーに転がる。天井を仰ぎ見る。
「ミイラ取りがミイラになっては、世話がない」
 独り言に、答えるものはいない。自分で笑みを浮かべることもない。
 今はまだ、何も考えたくはなかった。

 ***
「え、それで終わり?」
「ああ、終わりだが」
 何か問題があるかと問えば、別に何もないけどさーと視線を流す蒔寺楓。
 ヤツの隣に座っている由紀香も、曖昧に首をかしげて笑っている。
 むむ、何か微妙な雰囲気が漂っているような。
「なんていうか、うーん……ぶっちゃけ面白くないって感じ?」
「ほう。つまり私に喧嘩を売っている、ということだな、蒔?」
 笑みを浮かべて問い返す。何があったと聞いてきたから話してやったのにこの返答とは、そろそろこのあたりで一度思い知らせておくべきか。
 しかしヤツは卑怯なことに、氷室怖い氷室怖いと連呼しながら隣の由紀香に抱きついた。
 よしよし、と猛獣をあやすように蒔寺を撫でる由紀香。彼女に逃げられては、こちらとしても手が出せない。
 卑怯なり、蒔寺楓。
「えっと、鐘ちゃん。たぶん蒔ちゃんが言いたいのは、そういうことじゃなくて」
 いつもの緩やかな笑みに、僅かな哀の色を加えて由紀香は言った。彼女にそういう表情をさせるのは罪だと、私は常々思っている。
 何故ならソレは、こちらが気付かない、或いは認めたくない事実を指摘する時の悲しみを表しているからだ。
「鐘ちゃん、それでいいの?」
「……直球だな、由紀香」
 思わず、うめくように言葉が漏れた。
 由紀香との付き合いはそれなりに長い。昔は、たとえそれが正しい事でも、これほど真正面から切り込める娘ではなかった。
 臆病という意味ではなく、間違いなく優しさだったのだろう。それが変わったというわけではない。ただ、強くなっただけだ。
 無論、蒔寺が言いたかったことなど承知している。あの動物の言動が実はいつも回りくどい表現であるのは、出会った頃から承知済みだ。
 由紀香とは違った意味での思いやり。、本当に疑わしい事ではあるが、重要なところでは仕事をするエアリーダー。
 善悪を問わない事、曖昧さを許容する事も一つの結果だとヤツは思っている。そういう意味で言えば、本来的には大和撫子気質な女なのだ。
 それでもその口から面白くないという言葉が出たのは、やはりそのまま放置して良いとは思えなかったということ、なのだろう。
 二人の言いたいことは共通している。ようするに、その終わり方で良いのかということだ。
「……。言いたいことは、判るのだが」
 テーブルに肘をついてうつむく。額に手を合わせるのは、或いは考える時の癖かもしれなかった。
 正直に言えば、沸いてくるのはおかしさだけだ。
 いつも外側から観察してニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた私が、どうして友人の前で悩む真似などしているのだろう、と。
「あたしはさあ、氷室が良いって言うなら、別にそれでいいんどさー」
 沈黙に業を煮やしたのか、全然良くなさそうな語り口で蒔寺が喋りだした。
 表情は、不機嫌とバツの悪さを足して二で割ったような不満顔。
「そのあんたが気にしてる、なんてーの? キューピットっていうか、観察っていうか。そういうの、結構どうでもいいことだと思うんだよなー」
「蒔ちゃん、それは」
 制しかけた由紀香は、しかしそれ以上言葉を続ける事はなかった。
 代わりに私に向けた視線に、揺れる感情が読み取れる。さて、彼女の瞳に映る私は、一体どんな表情をしているだろう、と胸中で呟いた。
 楓の言葉には、あえて口を挟まない。続けろと視線で促した。
「氷室の趣味の悪さはほっとくとしてさ。恋愛探偵殿は、その、……誰かを好きになっちゃダメなのか、とか」
 流石に恥ずかしい事を言った自覚はあるのか、後半はそれこそ聴こえるか否かのギリギリの声だった。
 顔色を僅かに染めて、不機嫌にそっぽを向く。
 その、なんだ、
「聴いている方が恥ずかしいぞ、蒔の字」
「キェー! そこは分かっててもスルーするのが愛っつーかあんたのせいだろうがコノヤロー!」
 ギャグキャラの特性ゆえか、私では死んでも不可能な事だが、楓は立ち上がりながら奇声を上げた。
 どこぞの不死鳥の如きポーズ。名づけるなら怪鳥の構えとでも言うべきか。片膝を上げ、両腕を大きく広げた彼女は孔雀を想像させる。
 流石、先祖が海賊なだけはあるようだ。自分が今どれほど色物と化しているか、という客観的事実などなんのそのである。
 手を振り足を振り、コップが倒れないのが不思議なほどの熱いボディーランゲージで私に遺憾の意を伝えてきた。
「蒔の字」
「なんだよー氷室のせいじゃんかよーつーかあたしもそういう恋がしたよーずるいよー」
「座れ」
「はい」
 自分でも、もしかしてダメじゃんこれ? と気付けば、案外簡単に言うことをきくのが猛獣の特徴だ。そろそろ止めて欲しいと待っている節もある。
 全く難儀な女だが……ま、それはともかくとして。
「君らの言うことは尤もだが、彼の想い人は私ではない。応援を信条としている私が、立ち入って良いケースではないだろう」
「ううん、それは違うよ、鐘ちゃん」
 静かな反論。微笑む由紀香に、ほう、と私は視線を向けた。
 私は、私なりの道理を語ったはずだ。例え他人の恋愛模様を観察するのが性質の悪い趣味だとしても、だからこそ守らなければならぬ誠実さというものが存在する。
 それに否、と由紀香は言った。私が、正しさという一点においては信仰さえしている彼女である。その答えには、純粋に興味が沸いた。
「由紀香、その心は?」
「うん、だってね」
 途切れる言葉、彼女は聖母の如き柔らかな笑みを浮かべ、

「だって、人を好きになるのに理由はいらないんだよ?」

「――」
「……」
 思わず、言葉を失った。
 訪れる沈黙。私のみならず、蒔寺までもがぎょっとした表情で由紀香を見ている。
 しかし、問題の彼女はといえば、いつも通りのほにゃっとしたマイナスイオンを発生させる笑顔のままだ。
 実に和む笑顔である。和んでいる場合ではないが。
(……いや、参った。恐れ入った)
 確かに、と納得する。確かに、彼女はそういうキャラだったな、と。
 私と違って第一印象を裏切らない、真っ向勝負の純正乙女なのだ、彼女は。
(鐘っち、鐘っち。由紀っちがすごいこと言ってる)
(解っている。解っているから電波を送信してくるのは止せ、楓)
 蒔寺がこちらに向けてくる視線にアイコンタクトで返答し、
「由紀香、その、なんだ。そういう話ではなくてだな」
 なんというか、当の本人としては非常に言い難いことではあるのだが。
「確かに感情そのものに善悪は無い。しかし恋愛という事象においては別だろう、人の恋路を邪魔することは倫理的な観念からして悪であるべきだ。それに、」
「それに?」
「……そういえば、君たちにもまだ言っていなかったな」
 言葉を切った私に、由紀香は言葉を返すことなく相槌を打つ。すぐには答えず、私は内心で考えた。
 本来は感情の独壇場である恋愛という場面において、由紀香の言葉は正しい。
 しかしそれも時と場合と人による。
 人、つまり恋愛探偵にして観察を旨とする私が、愛すべき恋人たちの邪魔をするわけにはいかない。
 そして場合。陳腐な表現となるが好きな相手――認めよう、ここを誤魔化しても意味はない――美綴少年には、間桐桜という思い人がいるのである。
 さらに、これは瑣末だがある意味最も動かせない要因もある。
 時だ。なにせ私は、

「慌てずに聞いてほしいんだが、――実は私は結婚するのだ」

「「え?」」
 凍りついた彼女らの顔を見て私は、やはりか、と呟いた。言わなければ良かった、とも。
 ああ、時よ止まれ。ならばお前は美しい。何故なら、
「「ええぇええええええええええええええええええええ!?」」
 動けば、騒がしくなるからである。
「ってあんた! 氷室! それ前の冗談じゃんか!」
「そうだよ鐘ちゃん、真面目なお話中に変だよ」
 怪鳥の構えで叫ぶ蒔の字と、その騒がしい動物を諌めることなく同調する由紀香。
 予想はしていた。試しに座れと先の調子で言ってみるが、聞く気配はない。
 仕方のないことではある。いずれ説明せねば、と昨日思ったところだ。
 機会が思ったより早く巡った程度のことで動揺するはずも無かった。
 覚悟を決めて、二人を見た。慌てている楓と、視線で強く問うてくる由紀香。
 私はあえて、話の進まない方を選んだ。蒔の字、と静かに言う。
「お前はあの時、私に結局どっちなんだと問うたな?」
「しらねーよなんだよおぼえてねーよ、んなことは良いからちゃんと話せよう!」
「良いから、問うたのだよ、で」
 一瞬前の選択を直ぐに撤回したくなったが、それでも何とか話を続ける。
「私はその時、さてどちらだろうか、と答えた。ああ嘘だ安心しろ、などとは言わなかった。――それは、覚えているな?」
「そ、そりゃ、そんな言葉は聞いちゃいないけど……」
 騒ぎ立てる余裕さえ失せたのか、戸惑ったように由紀香を見る楓。
 その視線を受けて、由紀香は僅かに頷いた。
「鐘ちゃん、でもそれは、今の話の説明にはならないよ?」
「……ああ、そうだな」
 流石由紀香である。昔は昔、今は今。きちんと押さえるべき場所を知っている。
 実はあれは冗談ではなかった、なんて言い訳では、説明を避けさせてはくれないのだ。
「正直、あの時点では冗談の可能性の方が高かった。だがな由紀香、そういう絵空事が実際ありえる立場なのだよ、私は」
 どこぞの財閥の政略結婚、というほど大層なものではない。たかが地方都市の市長の娘だ。
 けれど、実際、ないわけでは、ない。
「少々展望がずれたのだ。私の何が琴線に触れたのかは知らんが、とある御仁に求婚されたらしくてな。それがたまたま父の親友の、息子殿だっただけの話だ」
 それにとても力のある家系でもある、という事実はあえて告げはしなかった。
 代わりにあまりいい趣味だとは思えんが、と笑って付け足してみる。
「ら、らしくって、鐘ちゃんはその人のこと知ってるの?」
「まあ、それなりに」
「それなりって、どれくらい?」
 まともに答えると面倒なことははぐらかすに限る。
 が、当然のように由紀香がそれで引き下がることわけもない。
 仕方ないので、ここは正直に答えるしかなかった。
「顔と、名前くらいは」
「鐘ちゃん……それで、いいの?」
 呆れと悲しみに微量の怒りを混ぜたような声音で、由紀香は先ほどと同じ台詞を言った。
「言っただろう、ありえる立場なのだ、と。私の場合、結婚する相手が誰かなど大した問題ではないのでね。ソレこそ本当に許婚でも変わらなかった」
「ふ、」
 その時、さっきから不気味に黙っていた楓が何か言った。
 生憎殆ど聞こえないほど小さい声だったので、どうした蒔の字、と問い返す。
 すると、
「ふざけんなぁあああああああああああああああああああああああ!」
 キェー! と再び怪鳥の構えで叫び、ソレに留まることなく暴れ始めた。今度ばかりは本気で周囲の備品を破壊しそうな勢いだ。
「相手が誰かってのは大した問題じゃんかよー! ふざけんなーふざけんなよう!」
「おい、楓」
「さっきから聞いてればなんだよ名前と顔しか知らない相手でも関係ねーだと? 前から思ってたけどアンタやっぱ馬鹿だろ!――んなもん嫌じゃなくても嫌がれ馬鹿!」
 構えるだけでなく私に向かって次々に拳やら足やらを繰り出す、楓改め怪鳥蒔寺。
 当てるつもりはないようだが、一々顔に掛かる風圧が鬱陶しいことこの上ない。
 尤も言っていることは正論だ。少なくとも、彼女らの中ではそれは覆す余地のない理屈であろう。
「馬鹿に馬鹿呼ばわりされるとは思わなんだな。私にもまだまだ開拓の余地があるようだ」
「鐘ちゃん!」
 あからさまに言質を避ける私に、さしもの由紀香にも熱が入る。
 手で蒔の字を抑える一方、視線はかつて無いほど強い力を以って私を射ていた。
「由紀香、先ほどそれで良いのかと君は言ったが、既にそういう問題ではないのだ」
「どういうことだよおい」
 一応動きは落ち着いたものの、相変わらず怒り心頭といった風情で言い放つ楓。
 返答することは爆弾を金槌で強打する行為と同義だが……。
 まあ、爆発したところで由紀香が抑えてくれるだろう。あくまで話は円滑に進めようという意思を、彼女はもっているのだから。

「実はもう父に返事をしてある。これは予定ではなく決定事項だ」

 ここまで話を引っ張って悪いのだが、そもそも覆す選択肢が存在していない、と静かに告げた。
「て、てめむぐぅ!?」
 再三のように暴走しようとする楓を、由紀香は(驚くべきことに)実力行使で鎮圧した。両手で楓の口を閉ざし、力ずくで引き寄せて動きを封じている。
 家事とマネージャー生活を三年間に渡りこなし続けた彼女なのだ、恐らく私より遥かに丈夫なのだろう。
 まあ、その、その塞ぎ方では五分と持たないと思うのだが。
「……でも、返事したのはお父さんにだけだよね? まだその人には伝わってないよね?」
 最後まで諦めない、彼女ならではの強さだった。そして、それは確かに重要なポイントでもあった。
 だから、私は答える。
「……。ああ、まだだから安心してくれたまえ。一応一週間後に、返事をかねた顔合わせを予定しているが」
「じゃあ、まだ私たちには説得する時間があるんだね」
 間髪いれずに即答する由紀香。顔には出ていないが、どうやら相当怒っているらしい。
「帰ろっか、蒔ちゃん。作戦会議しないといけないからね」
「私の前でそれを言うのもどうかと思うがね」
「ケホッケホッ……うるせーうるせー、バーカバーカ!」
 咳き込みながらあたまのわるい発言をする楓を、由紀香は半ば強引に連れて立ち上がった。
「それじゃ、先に帰るよ?」
「バーカーバーカ! 氷室のバーカ!」
「ああ、気をつけて行くといい」
 私はとりあえず由紀香にだけ返事をする。
 じゃあねと手を振った彼女の瞳に、恐らく笑みは浮かんでいなかった。
「バーカバーカ! ええとそれから……バーカ!」

 ***

「……ふう」
 目前で閉まった扉の前で、大きくため息を吐く。
 避けては通れないことだったとはいえ、やはり疲れる話になった。
 それに、もしこのまま順当に行けば、彼女らとの縁は切れてしまうかもしれない。
 何故なら私は、今日一つだけ嘘を吐いたからだ。
「済まないな、二人とも」
 聞こえもしない謝罪に意味は無い。それでも呟いたのは、心に淀んだ罪悪感をせめて形にしておこうと思ったからだ。
「一週間、か」
 楓のあたまのわるい罵声が、何故かまだ聞こえるような気がした。

 ***

interlude in

 美綴実典は大いに戸惑っていた。
 一体何に対してか?
 答えはこの現状と、自分にである。
「悪いね間桐、流石に三年もいるとなんだかんだで私物も多くなってさ」
「いえ、美綴先輩には頼りきりでしたし……もっとしっかりしたところを見せたかったです」
「……」
 どの部活にも、準備室という部員のみに許された空間がある。
 例えば弓道部はここがそうで、板張りの部屋には誰のものかもわからない教科書が片隅に放置してあったり、一部の収納スペースには漫画やらお菓子やらが押し込まれていたり。
 ……余談だが、藤村先生専用と化しているお茶の準備などもここで行われる。あれは部の私物化だと思うのだが、果たして学校側はどう思っているのだろうか。

 閑話休題。
 整頓されているようでわりと無秩序に存在する私物が片付けられるのは、大体その所有者たちがいなくなる卒業式後くらいらしい。
 その整理作業を今正に行っているのは僅か三人。卒業生にして前主将だった美綴綾子こと俺の姉貴と、未だ現主将にあたる二年の間桐桜。
 そして何故か手伝わされている一年の俺。色々な意味で、戸惑う材料は揃っていた。
 弓道部の主人公二人は何やらしんみりした会話を続けていて、俺が入っていけるような話題ではない。
 ゆえに黙々と俺は作業に従事していた。と、
「……うげ」
「どうしたの?」
 あまりに場違いなモノを発見し、思わず声を上げた俺に主将がきょとんと問い返す。
 二重の意味で動揺した俺は、咄嗟に見つけたものを片手のゴミ袋に叩き込んだ。
「い、いえ、ただのゴミですよ」
 本当にゴミだった。ただし、いかがわしいという単語がつく。とてもあの主将に見せられるものではない。
 あからさまに訝しげな視線を向けてくる姉貴の方はなるべく見ない。迂闊に目を合わせればゴミの中身を確認されそうな気がした。
 神聖な道場にこんなものを持ち込むヤツは限られている。数名の同級生の顔を思い出しながら、俺は不純物撤去作業を再開した。
(チッ、あの馬鹿)
 内心で毒づくも動揺は消えない。何故ならその理由は全く別であるからだ。
 諸悪の根源は、今も主将と名残惜しげに喋ってる姉貴。
 いくら手が足りないからといって、主将がいるところにわざわざ俺を呼び出したから。
(いや、でも)
 心のどこかでそれは違うという反証が上がる。同じ部なのだ、主将がいることが問題になるわけもなかった。
 問題なのは、その主将を見るたびに脳裏で木霊す誰かの声。
 俺が好きなのは間桐桜という先輩なのに、その人を見る度に別の人を思い出す。
 それこそが動揺の原因だった。
 絡まれてるうちに、それなりに知った相手だと思っていた。
 しかしそれは間違いだったのだろう。
 冷たいようでそうでもなかった肌の感触も、耳にかかった吐息の震えも、昨日まで何も知らなかった。
 けれど、知らなければ良かったと思う。あのまま本当に何もなければ、俺は今この場所にいる人に、ただ憧れを向けるだけで良かったのに。
(本気か、おい)
 自分が一体何を考えているかに気付き頭痛がした。間桐桜とあの意地悪な先輩を同列に考えるなんて、正気とは思えない――。
 と、その時埋没していた意識を引き上げるように、騒がしい気配がした。
「ん……? って、どわ!?」
「邪魔するぜぇい!」
 ずざーという効果音と共に部屋の中心に躍り出た侵入者に、全員が注目する。俺はといえば、進路を遮っていたらしく撥ねられるようにして吹き飛ばされた。
「いてぇ……」
「ご、ごめんね! 大丈夫?」
 思わず口を突いて出た抗議に答えたのは、下手人ではなく共にいた先輩だった。
 名前は確か、三枝由紀香。
「い、いえ、大丈夫っスよ」
 慌てて立ち上がって視線を逸らす。
 いつもあの先輩の隣にいたから、というわけではないが、何となく苦手なタイプだったからだ。嫌いという意味とは別の方向で。
「で、どういうつもりだい蒔寺。人の弟を足蹴にしといて下らない用事じゃないだろうね」
 腕組みをしながら額に青筋を立てて笑んだのは、言わずもがなの姉貴だ。主将は状況についていけずオロオロとしている。
「下らない用事なわけねーだろ! ヤバイコトになってんだよ!」
 言葉以上にヤバイコトになっているボディーランゲージを用いて下手人、蒔寺楓は叫んでいた。
 もう煩いとか鬱陶しいとかウザイとか、そういう単語を超越しているらしい。正直俺も主将と大して変わらなかった。
 一体何しに来たんだこの人。
「蒔ちゃん、それじゃ分からないよ」
 恐らく蒔寺以外の全員の心を代弁した彼女のセリフに、お? と意味のわからないポーズをとりながら振り向いた。
 この人は将来芸人になりたいのかもしれない、なんて意味のないことを思っていると。
「おいお前、そうだお前だ美綴弟」
「……は? 俺っスか?」
 いきなり名指しで言われ、正直にいえば驚いた。
 まるで関係の無いことだと眺めていたのに、一体俺なんかに何の用――、
「すっとぼけた顔してんじゃねー――氷室、結婚しちまうんだってよ!」
「ぶ……ッ」
 いくらなんでも、それは不意打ちだった。
 まさか、昨日の今日でその名前を聞くことになるとは思わなかったし、しかも……結婚だと?
「ちょいと、蒔寺。どういうことよ?」
 言いながら、一瞬姉貴は俺の方を見た。理由はわからないが、いつにも増して鋭い視線で。
 その問いに、彼女らは昨日三人でした話とやらを語った。
 蒔寺の語り口は正直理解するには不適切だったが、三枝がその都度補足する。
 大体の経緯が出尽くすと、一度場が静まり返った。あまりに突飛な話に、部長は勿論俺でさえ言葉が出ない。
 そんな中、姉貴が静かに口を開いた。
「なるほどね、何があったかは良くわかった」
 けど、と姉貴は一度言葉を切る。冗談の一切感じられない声音で、言った。
「――なんでうちの弟に言うわけ? それも、こんなところで」
「ッ、姉貴!」
「あんたは黙ってな。……なあ蒔寺、氷室が大変なのは分かった、けどさ」
 姉貴は、それ以上言葉を続けることはなかった。けれど何が言いたいのか、わからない訳がない。
 俺は主将の方を僅かに見る。相変わらず理解できないという風に慌て視線を彷徨わせているだけだ。
 僅かな安堵と、安堵を覚えたことによる罪悪感。二律背反に臓腑が歪む錯覚を覚える
 つまり姉貴は、俺が主将をどういう風に思ってるか知っていたらしい。だから、別の女の話などするなと、言外に伝えてくれたのだ。
 案の定先輩二人は、その台詞に黙り込んだ。蒔寺は舌打ち一つ、三枝は困惑。
 このままなら、なし崩しに先ほど告げられた事実はスルーできるだろう。
 けれど、

「蒔寺先輩、それ――来週って本当ですか」

 姉貴が問うように眇めてきたのは分かった。良いのか、と。本当にそれで良いのかと問われたのが分かった。
 けれど、こんな話を聞いて何もなかったことができるほど、俺とあの人は無関係じゃない。
 ソレが伝わったのか、姉貴は何も言わずに首を振って、発言権を放棄するように腕組みをして後ろに引いた。
「は、やっぱ男はそうこなくちゃな」
 にしし、と隠す気も無い笑みを姉貴に向けた後、不意につまらなそうに胸を張って言う。腰に手を当てて、片手をひらひらとさせながら。
「いーや違うね。ありゃ嘘だ、来週だから安心しろなんてアイツの台詞とは思えねー」
 どう考えても関係ねーじゃん、と付け足す。同感だ、だからこそそこを問うたのだから。
 では何故嘘を吐いたのか。事実を隠すのではなく、時期なんてどうでもいい一点を隠す理由。
 そこで、泣き出す一歩手前の表情でたぶんと、三枝が言った。
「たぶん……今日なの。相手の人にお返事する日」
 顔しか知らないような相手と結婚したいわけはないはずだ。けれど、理由があれば簡単に受け入れてしまえる潔さが、きっとどこかに根付いている。
 約定を完璧に結んでしまえば、友人が何を言ったところで後の祭り。そうなってしまえば二人も諦めるしかないことを、あの人は知っていたのだろう。
 己に対する無関心が最大の要因だ。他人への行き過ぎた興味がその裏返しであることなど、恐らく皆分かっている。
 しかし、それに付け加えて、もしかしたら俺は小さな理由を知っているのでは――、
「アンタの好きな相手が誰かとか、あたしはどうでもいいんだけどさ」
 普段の彼女とは思えない真剣さで、その先輩は俺に言った。
「なんか言うこと、ないのかよ?」
 俺はその言葉に、一度だけ主将を見る。憧れの相手の目の前で、本当にそれを言って良いのか。
 実のところ頭の中は真っ白で、自分でも何を口走ろうとしたのかわからずに口を開いたその時、

「――ライダー、聞いていたわよね?」
「ええ、まあ、一応は」

 答えた声に、主将を除いた全員が驚いた。姉貴の狼狽振りは一番顕著だったが、それどころではない。
 いつの間にか部屋の入り口に、一人の女性が立っていた。居心地の悪そうな、どことなく場違いだと言いたげな表情で。
 ぞっとするような鋭利な美貌に僅かな呆れを混ぜた彼女は、それでどうしますか? と俺の憧れの人に問うた。
 主将はすぐには答えず、
「蒔寺先輩、氷室先輩の居場所は分かりますか?」
「あ、ああ、えっと、実は知り合いの暇人に見張りさせてるけど」
 その答えを聞くと、酷く楽しそうに見える微笑を浮かべ、間桐桜は言った。
「ライダー、今すぐ実典くんを連れて行きなさい。フォローと後始末は私がするから、大抵の手段は許可します」
「了解しました、マスター。凛と士郎への言い訳はお願いします」
 高純度の呆れを含んだため息と共に、ライダーと名乗る女性はそう答える。
 正直全く意味はわからなかったが、俺の意思とは関係ないところで決定された流れに、この想いはきっと主将には届かないのだろうな、と思った。
 それはパズルのピースが嵌るような、酷くすっきりとした理解だった気がした。

 interlude out

 ***

 太陽が既に傾き始め、急速に闇の帳が舞台を塗り替えようとするその時間、私は蝉菜のマンションを出た。
 何年と繰り返したその行動も、これからのことを考えれば違った趣を感じられる。
 私は自分が思っているほど無感動な人間ではないのだから、この人生の岐路に於いて感慨に耽るのは不自然ではない。
「――そんなふうに考えていた時期が、私にもありました」
「何か言ったか?」
「いいえ、何も」
「……そうか、それならば良いが」
 聞こえていないのならそれで良いさ。だから、そんな申し訳なさそうな顔をしないでくれ。
 父よ、貴方は私を祝う為にここにいるのだ。貴方が考えているような恨み言など、口にするわけもない。
 それは彼の心労を拭い去りたいのなら、伝えるべき言葉だった。それをあえて口にしなかったのは、やはり私は心のどこかで不服に思っているのかもしれない。
 問題は、とうとうこの日に至っても、私自身どこにその感情が眠っているか見つけ出せなかったことだ。
 もし、本当は納得できていないことだったなら、未来はまた違うものになっていただろうに。
 楓と由紀香と過ごした時間を振り返れば、感情の起伏に乏しくとも、皆無ではなかったと思う
 どうしてそれを私は、最後まで己に向けることができなかったのか――そんな些細な問題を残してしまったことだけが、心残りだなんて。
 全くどうかしている。自分にも聞こえない声で、私はそんなことを呟いた。
 と、
「む、アレは……?」
「どうした?」
 相変わらず過剰ともいえる反応をする父に、今度はすぐには答えなかった。
 代わりに歩く先の傍にある、植林だらけの小さな公園を凝視する。
「すみません、どうやら客のようです。先に車で待っていてください」
「あ、ああ、急がなくていいぞ」
 何を勘違いしたのか知らないが、酷くバツの悪そうな声音で言って彼は歩いて行った。
 気を取り直し、視線を戻す。あちらはまだ気付いていないらしく、携帯らしき物を相手にのんびりと話していた。
 私はあえて植林された区画に踏み入り、気配を抑えて近づく。
 さて、あの御仁は一体こんな場所で何をやっているのだろうか。まあ、大体予想はつくのだが。
「だから何で俺が……今日は俺の食事当番だからセイバーが張り切ってるんだって」
「ほう、ならさっさと戻ってはどうだね」
「馬鹿、そう簡単に放り出したら後が怖いだろうが」
「ふむ、何故怖いのかね」
「何故って冬木で動物の名がつくヤツは怖いに決まって……って」
 なんでさ? と私の顔を見るやり目前の男は呟いた。
 それは私の台詞ではないかね、衛宮某。
「武道の心得があるにしては厭に無用心だな」
「い、いや氷室、それには訳があってだな」
 慌てて弁解の言葉を続ける衛宮に構わず、にしても、と私は言葉を紡ぐ。
「私程度の魅力では貴殿の食指は動かないと思っていたのだが、趣味が広そうで何よりだ。しかしこれは女として、喜ぶべきか悲しむべきか。それとも……さて衛宮、私はどれを選べば良いだろう。ちなみに三択だ」
「待て、落ち着け氷室、いや氷室さん。きっとそれは大いなる誤解だ。話せば分かる、お前はそういうキャラだろ?」
「質問に質問で返すのは外道だと思うが、価値観の相違にまで話を広げるつもりは無い。……それで、どれを選べばいいのか、と問うている訳だが。ちなみに三択だ」
 待て、落ち着け、と狼狽しながら何度も繰り返す衛宮士郎。寛大な私は、その言葉の通り焦りも慌てもせずに頷く。
「あのな? これは身の潔白を証明する為にあえて答えるのであって別に俺はお前が思ってるような人間じゃないんだがとりあえず言うけど氷室、お前――怒ってるだろ?」
 その答えに、うむ、と頷いた。サービスとしてとびっきりの笑顔を添えてやる。恐らく蒔寺以外は由紀香でさえ見たことのない、希少価値のあるものだ。
 喜んでもらえると良いのだが、さて。
「正解だ、良く三番目を言い当てたな。流石に女心はお手の物と見える。が、」
 告げながら、私は衛宮との距離を詰める。あえて何の躊躇も無く踏み込めば、眼前五センチでどぎまぎしている男が一人。
 彼が握っている携帯ごと手に沿え、電源に指をかけながら静かに言った。
「今日は少々立て込んでいるのだ、衛宮。普段なら君の誘いに乗るのも一興だったやもしれぬが――諦めてくれるな?」
 ぶんぶんと縦に首を振る衛宮に、ではまた会おうと別れを口にし、父の待つ車へと向かった。

 ***


「良かったのか? さっきのは……その、仲の良い友達だったのだろう、まだ時間に余裕はあるが」
「ただの元同級生です。私に用があった訳もありません」
 ならばいいのだが、という言葉と共に再び彼は黙った。私から言うことは特にないので、そのまま車内には沈黙が満ち始める。
 父はともかくとしても、私は別に沈黙など気にならない。丁度良いと思い先ほどの出来事を振り返った。
 嘘を言った訳ではない。衛宮は本当にただの同級生だった者に過ぎぬし、彼個人が私に用がある訳がないのだ。
 飽くまで、衛宮個人には。そこで思い出すのが、彼が持っていた携帯の向こう側。
 冬木で動物の名がつく人間は三人しかいない。
 弓道部顧問であり誰もが知る冬木の虎。怪しい外国人にして冬木の青豹を名乗るランサー某。
 そして言わずもがなの我が盟友。自称、冬木の黒豹くらいのものである。
 衛宮は三者とも十分関わりを持っているゆえに、特定できる根拠はない。しかし状況からの推察ならば可能だ。
 というより、この状況で私に対し偵察を送る必然性を持つのは一人しかいないのだから、その可能性を選ぶべきだろう。
 それは昨日、私が彼女らに対して吐いた嘘が見破られたことを意味するが、元より騙し通せるという確信などなかった。
 これも予想の範囲内だ。しかし私は既に車上の人となっている。如何に私の企てを見通そうと、徒歩である彼女らにはもはや手の出しようがない。
 チェックメイト、という単語が脳裏に浮かんだ。誰に対してかは判然としないが、恐らく私自身に対してであろう。
 心のどこかに残っているかもしれない未練に対し、私は半ば意識的にその単語を繰り返した。
 ――ああそうだ。チェックメイトだ、諦めろ氷室鐘。これは貴様が選んだことだ。
 僅かに身軽になったように感じ、私は車窓の外を見る。過ぎ去る風景が、もう戻れない己の道を想起させた。
 その連想に僅かな苦笑。言い得て妙だ、と評価した。確かにこの道は現状の写し鏡だ。
 動かざること石の如し。楓が、由紀香がいかに努力しようと、車の速度に追いつける道理はない。
 例え衛宮が彼女らに私の居場所を伝えたとしても、もはやこの窓の外に皆の姿を見ることは――、
「――なんだと?」
 窓の外、正確に言えばサイドミラーに写る影を見て、私は思わずそんなことを呟いた。
 聞こえなかったのだろう、様子を覗っても父が問い返してくる気配はない。
 見間違いだ、と判断し視線をサイドミラーに戻したところで、……どうやらそれも間違いだということに気がついた。
「なんだ、アレは」
 呆然とした父の声音が、それが己だけが見ているものではないという事実を証明している。
 否、そもそも幻ならばこれほどまでに執拗に追いかけてくるはずもあるまい。
 久々に現実そのものを否定したくなった瞬間だった。
 自転車というよりはバイクという表現が似合うソレが、物理的に酷く不安定に見えるほどの馬力を以って道路をかっとんでいる。
 天上の代物のように美しく長い髪をなびかせ、ペダルをべた踏みしているその人物には心当たりがある。
(いくらなんでも、それは無いのではなかろうか、ライダー嬢よ)
 父に視線を移せば彼もまたミラーに釘付けになっていた。気持ちは痛いほど理解できるが、
「父よ、とりあえず前を見てくれ、前を」
「あ、ああ」
 出た言葉が敬語でない辺り、恐らく自分は相当動揺しているな、と判断した。
 父が安全確保を思い出したことを確認し、再度己の現実に直面する。振り返ったときには、車の横で悠々と走っている二人乗りの競輪選手がいた。
 あまつさえ、コンコン、と片手で窓ガラスをノックするその非常識。眩暈に耐えかねた私がこう言ったとしても、それはきっと仕方のないことだっただろう。
「すまない、どうやら客のようだ。――止めてくれ」

 ***

「やあ少年、昨日ぶりだな。ところで私は夢を見ているようだ、正気の時に君の用件を聞いてやりたいと思うのだがどうだろうか」
「全く同感っスけど、なんかマジみたいですよ……」
 明らかに正常ではない顔色でそう言ったのは、今一番会いたくなかった少年だった。
 美綴実典は震える腕を抑えながら視線を逸らす。その先には、車の窓越しから人の父親相手に何やら催眠術を掛けている超絶美人が一人。
 やめてくれないか、と本気で思った。
「常人ではないとは思っていたが、まさか競輪選手とは思わなかった」
 寡聞にして私は知らなかった。二人乗りで、車を追い越せるポテンシャルを持っているなどとは。人間というのは存外凄まじいものらしい。
 同意を求めるように言えば、正気か……と呟いている美綴実典。どうやら、凄まじい体験を諸に浴びたショックから未だ立ち直れないようだ。
 然り、正しいはずはなかろう。このままその話題を続けて時間切れを待っても良いが……。
(理由はどうあれ、真偽はどうあれ、そしてこの行動の是非はどうあれ、それでもこの場所に立ったその事実を評価せねばならん、か)
 動かざること石の如しと。過去に見立て戻らぬことと決めた道を、こうまでして追いついてきたのなら、どうしてここで欺くことなどできようか。
「これが現実ならばそれでも良い。この時間に車一台通らなくなった理由も詮索はすまい、父がライダー嬢の言葉におかしくなった事も棚に上げよう――用があるのだろう、少年」
 事ここに至ってまで戯言を続ける意味はない。恐らく今の私は一片の余裕もないだろう、それは彼が望むものでもある筈だ。
 ゆえに問う。君は何をしに来たのだ、と。
「結婚するって、本当ですか」
「事実だ」
「相手は誰ですか」
「君の知る者ではない」
「理由は」
「告げる必要性を感じんな」
 混乱している割には、私も彼も正常なやり取りをしている。その自覚で、当座の平静さは取り戻せた。
 とりあえず今大切なのは対話であろう。決して超常現象の類ではないし、知り合いの意外な秘密でもない。この際、父親の安否も置いておこう。
 しかし彼は私の返答に沈黙した。無論、正論とはそのように作用するものであるから当然。けれどここで会話を終了するつもりは、私の方がなかったのだ。
「判らないな……君がここにいる理由が私には理解できぬよ。無論方法ではなく、君の意思の所在についてだが」
 実のところいくつかの予想はある。しかしそれは私から告げることではないし、それは彼の口から聞くことさえ忌避すべき事柄だった。
 それでも、問わざるを得ない状況というものがあるのなら、今まさしくこの瞬間がそうなのだろう。
「俺にも」
 数秒の遅延を以って、彼はそれだけの言葉を吐き出した。
 浮かんでいる表情は苦悶と疑問。本当にそれを言って良いのかと、彼自身が語っている。
 けれど、

「俺にも、わかりません」

「……ほう」
 正直に言えば、予想していた答えのどれにも当てはまらない言葉だった。
 それほど、素直な言葉が出てくるとは思っていなかった。
「ああ、わからない。わからねーよ、……けど」
 敬語が崩れる。同時、迷っていた表情に別の色が混ざる。
 それは、もうどうにでもなれという自棄かもしれなかったし、
「けど、ここまで来て思ったんだ。俺はアンタと、ちゃんと話さないといけないって」
 一人の少年が精一杯集めた、勇気だったかもしれない。
「本当はずっと前から思ってた。たぶんクリスマス辺りから、俺はずっと迷ってた。……アンタのせいだ、自覚は、あんだろ」
「ああ」
 ないとは言えない。
 それは私自身、少なからず葛藤していた事実だ。
「別にそういう理由じゃなかったってのは知ってたっスよ。アンタのお陰でクリスマスとか、主将と一緒にいられたし」
「それがライフワークだったものでね」
 悪趣味だという自覚もある。ゆえに守らなければならない境界も知っている。
 それでも。
「……それでも、君が今迷っているのは私のせいなのだろうな」
「本音言えば、恨んでるかもしれねーよ。アンタは俺を迷わせるだけ迷わせておいて、いきなりリミットを突きつけやがった」
 天を仰いだ。夕焼けはもうすぐ暗幕と置き換わる。あまり長々と話している時間はない筈だ。
 しかし、今この瞬間以上に大切なことなど、私にはあっただろうか。
 斜に構え、世を儚み、己を見捨て、そんな人間とて正視しなければならぬものがあるとしたら、それはきっと。
「だから、今はわからないとしか、言えない」
 言えないけど……と、最後に迷うように言葉を切って、それでも彼は己の意思をカタチにしてみせた。

「それだけじゃ、アンタが思い止まる理由にはならないっすか」

「――ああ」
 返事をしたわけではない。ただ息が詰まって、意味のない言葉が漏れただけだ。

 他のどんな言葉でも、恐らくは私は謝罪と共にこの関係を清算したに違いない。
 やっぱり間桐桜が好きだと言われれば、安堵を以って祝福したことだろう。
 だがここに来て告げらたのは、保留。悪し様に訳せば、どっちが好きかわからないからとりあえず行くな、と言われているに等しい。
 けれど……顔しか知らない相手に嫁ごうなんて愚かしい女には、その程度の言葉が相応しいのではないか。
 自分に興味がないから、誰が相手でも良い、なんてのたまうくらいなら。
 元々引く手数多の富豪などより、動いている車を自転車で追いかけてまでそんな言葉を言う、馬鹿な後輩の頼み事を聞いて――、一体何の不都合があるというのだろう?
 そう考えた瞬間、どこにあるかわからなかった不服の居場所が見つかった。
 何のことはない、どこを探しても見つからない失せ物の居場所など、大抵一つしかいないものである。
 不服だったのは、心のどこかにある欠片などではない。今まで蔑ろにしてきた、私そのものだったのだ。
「……フ、野次馬趣味の私が放っておくには、君は少々甘露に過ぎるな」
 一瞬疑問を浮かべ、すぐに目を見開く少年に、君が驚いてどうすると思いながら返答する。
 今の私はどんな表情を浮かべているだろうか、なんてどうでも良いことを考えながら。
「了解した。そこまで言うのなら当初の方針通り、君と間桐嬢の仲を全力で取り持たせてもらおう。覚悟しておくことだ」
 当たり前のことを告げた瞬間、少年の表情がひび割れるのがわかった。
 そのあまりに彼らしい変化に、はっきりと苦笑が浮かんだのを自覚する。全く、私がこのまま君になびく訳もあるまいに。
 恋愛探偵氷室鐘の、初の依頼人となった自覚がないのだろう。だから君は少年だというのだ。

 ――まあ、もしこの案件を失敗するようなことがあれば、それなりの対価を以って返礼する用意はあるのだが。
 
 それはまた別の話。とりあえず今は、父と親友たちへの謝罪文句を考えなければならないだろう。今回ばかりは、少々心配を掛けすぎた。

「あれ、もしかして俺、地雷踏んだ?」
 何やらブツブツと、深刻な表情で呟いている彼の肩を叩く。
「今更だな、それは」
 まだもう少しくらいは、この場所で意地の悪い笑みを浮かべていよう。
 恋愛探偵が活躍する余地は、未だ残されているのだから。
「今回ばかりは同情もできまい――悪い魔女に捕まった、と諦めてくれたまえ」


  了



















「さて、此度の作品である氷室恋愛劇場はこれにて終幕したわけだが、なぜこんなところに呼ばれたか知っているかね」
「いや、楽屋ってのは終わったら帰る場所だと思いますけど。っていうか他の人どこっスか、むしろ主将どこだ」
 見渡せばそこはガランドウ。さっきまで畳の部屋だったはずなのに、床どころか壁も無い。
「現実ならそうなのだろうが、聊か我々は事情が異なるだろう。つまりは何故この作品に劇場の二文字がつくか、に繋がる訳だ」
「なにがつまり、なのかサッパリなんですが」
 登場人物は二人以外をおいて一人もなし。まあそもそも架空の世界だからそういうもの、という意見もあるかもしれない。
「まあ以前指摘もあったのだが、どうにもおかしな部分があるだろう。具体的に述べれば、ホロゥ後という舞台設定に於いてもサーヴァントは登場しない、というアレだ」
「……厭な予感がするんで、俺帰らせていただきま」
 振り返れば、そもそも出口すら存在しない。地面さえもあるかどうか希薄で、この空間を染めているのは闇ではなく無というべきだ。
「某悪魔聖人殿にとっては馴染み深い場所だな。エンディングといえばここだろうと、そういうことだ」
 つまりそれは、
「ホロゥ後にサーヴァントは存在しない。可能性なら十分示されているが、少なくとも全員ということはありえないだろう。では、いない人物を登場させる為にはどうすれば良いかというと、あとはもう劇くらいの手段しかない。当然本人ではなく、演劇部の部員たちだ。一部超常現象についてはCGを使ったという方向で一つ」
「もっと拘るところあんだろ……」
「然り、このような裏設定など無視すればあのままそこらの無駄話として残るだろうが」
「……あー、もしかしてこれって、アレっすか、良くテレビとかの最後に流れる」
「うむ、この作品はフィクションであり実在の人物団体等とは関係ありません、というヤツだな。この一文で十分なんだが、折角だから原作にちなんでみた、らしい」
らしい、とか人事すぎるだろう。テンパってんじゃないのか、要するにこれってどう見てもこじつけのBADENDっつーか。
「端的に言うと、私は氷室鐘ではないし君は美綴実典ではない。作品で顕著だったキャラの乖離はこれが原因、在り得なかった出来事もそもそも関係のない絵空事で原作の登場人物を歪める物ではありません――という紛うことなき言い訳だ」
「えっと、ぶっちゃけ俺どうなるんスか?」
「言うまでもない。劇が終われば役者は帰る。舞台が世界だというのなら末路は一つだ、というわけで」
 パチン、誰かが指を鳴らす。それで俺の意識はさっさと虚構の海に帰るのだった、つーかキャラ使った楽屋裏とか厨二病にも程があると思、ってあーれーえー。

「さて、氷室恋愛劇場は終わりです。我々はここで消えますが、他の方々が作り出した世界で、氷室鐘とはお会いすることもあるでしょう。美綴実典は少々厳しいと思いますが。ちなみに何故こんなエピローグが必要かというと、世界ごと終わってくれないと他のFate書けないじゃん、とのことです。まあこれは完璧作者の言葉で自己満足以外の何物でもありません。というか書く気力などなかろうに」

 そういうわけでお疲れ様。氷室鐘は自分で指を鳴らし、さっさと役目を終えるのでした、まる。




「あ、それから、何故終幕が遅れに遅れたのかは語るに涙、聞くに涙の物語があるんスけど、この楽屋裏を含めてぶっちゃけ本人以外どうでもいいことっスね。じゃあ、ないでしょうけどまた縁があれば」


 Top Back
inserted by FC2 system