「任務は、失敗したわ」
 暗い部屋だった。
 唯一の明かりは、窓に掛けられたカーテンの隙間から侵入する光。
 その光がこの部屋に存在する全ての明かりであり、電気も電灯も何も灯っていないその部屋で、私は咒話器を片手にため息を吐いた。
「ええ……ええ、そうよ、情報が漏れていた。……ターゲットは、彼女は部屋に、いなかった」
 咒話器から聞こえる言葉を聞きながら、カーテンの隙間から外を眺める。
「そう。シフォナが、内通者だったの。……で、彼女は?」
 外には早朝にも拘らず忙しなく動き回る人影が多数。一見健全な朝の情景に見えることだろう。
「……あら、死んだの。……それは、残念ね。手を下したのは、メイス?」
 彼らが纏う衣服に共通点はない。学生服、スーツ、様々な私服……活気のあるこの街では、特に珍しい光景ではない。
「……え、違うの? シフォナは、私達の中でもかなりの手練だった筈だけど。……え、エルダが直々に? ……そう、責任を取ったのね。 彼女を加えたのは、エルダの意向だったし」
 しかし、私にはその珍しくない光景が獣を追い回す猟師の庭に見えてならなかった。
「ええ、今は隠れ家にいるわ。お蔭様で、まだ見つかっていない。けど、かなり人員が投員されているわね……まあ、それも当たり前の話だけど。……ええ、独力でホームまで帰れそうにもないわ。ここから身動き一つ、とれそうにないもの。このまま人海戦術を採られれば、そう遠くない内に、私はここで終わるでしょう」
 何の変哲もない人々。その中に時折混ざっている、変種。
 平凡な学生、平凡な大人。身形は周囲と同じなのに、先へ急ぐ動作、服装を整える仕草……そんな日常的な行動の中に混ざる、非凡な視線。異なる表情。
 それは、消えた何か、隠れた誰かを探し出そうとする、プロフェッショナルの証明だ。
「ええ、お願いするわ。流石に、こんな所では終われないから。……ええ、今夜零時ね。わかったわ……ええ、それは任せておいて。陽動の方、頼むわよ。じゃあ、そろそろ切るわ。貴方に、ローリエの祝福があらんことを」
 最後の呟きを残し、接続を停止する。
 例え有線などより遥かに傍受されにくい咒式通信機でも、長い間通信などやっていれば、敵は直ぐにでもこの場所に気付く。そんな間抜けな事態だけは、何としても避けねばならない。
「ふう……零時、か」
 まだ、かなり時間がある。アカデミーのビルから落下した際に消費した、多量の咒力もまだ回復していない。
「とりあえず、休みますか」
 呟いて、私はそのままベッドに倒れこんだ。すると、手の位置に何か硬い触感がある。
 もぞもぞとした動きでそれを目の前に持ってくると、それはテレビのリモコンだった。
 何となくといった動作でリモコンのスイッチを押すと、ちょうどニュースキャスターが早口で何かを言っているようだった。
 その言葉を聞き取ろうとした瞬間、疲労からか、意識に闇の帳が降り始める。
『昨夜……された大型の赤……の未明……ウルズの森に……」
「あ――眠い」
 意識が消える瞬間、キャスターが言った単語が耳に残った。
(ウルズって、この街の名前よね……)



Tale−Conductor−

Side A-
2



「なるほど。あちらは成功のようね」
 魔獣が住まう森を単身で往くのは危険だが、状況が状況なので仕方がない。
 暗く人気の無い森の中を、影のように気配を消しながら駆ける。
 月が昇ったのを見計らって隠れ家を出てきたが、自分を捕まえようとする者も、追跡者の気配もここまで全く感知できなかった。
 恐らく、彼が手を回してくれたのだろう。敵は偽の情報か、それとも彼が引き起こした事件にでも、人手を割いたに違いない。
(この私を諦めてでも対処すべき問題なんて、そうそう存在しない。やつらを相手に、こうも簡単に陽動を成功させるなんて、やっぱり只者じゃないわね)
 私が彼と呼ぶのは、別にその人物と親しいからではない。
 名を呼ぼうにも、彼の名を知らないのだ。
 いや、名を知らないというなら、きっとローリエの全員が知らないに違いない。
 謎の情報提供者。不明瞭なスポンサー。影の後方支援者。
 私たちを情報面や政治面レベルで援助してくれる、正体不明の人物。
 強力な権力を持ち、潤沢な資金源を持ち、豊富な情報力を持つ協力者。
 絶対に必要な存在ということは理解できていても、私には何処か信用が出来ないその人物だった。しかし、彼は今度も裏切るような真似はしなかったようだ。
(最初は……"彼"が内通者だと思ったんだけど……)
 通信で会話した限りでは、彼の言葉に矛盾は無かった。
 そして、こうして私があの街から脱出できた以上、その言葉を疑う理由は無い。
 そう、彼の話が真実だなんて、そんな事疑わなくて良いことくらい知っていた。
 ただ私は、彼の怪しさを理由に、その事実を認めたくなかっただけ。
(シフォナ、か)
 シフォナ=エレノーラ。十五歳、女性、両親不在。
 数年前彼女たちのリーダーが連れてきた、亜麻色の髪を持つ少女。
 夜、マリアの部屋に来て、両親を殺されたと、組織に入った理由を語り、涙を流しながら寂しいと叫んだこともあった。
(彼女が、まさか、内通者だったなんて……)
 信じたくはない。自分よりも小さな少女が、自分の前で涙を流した少女が、まさかやつらの仲間だったなどという現実は。
 けれど、それは恐らく真実だろう。自分がこうして捕まらずに街から脱出できたことが、その証拠。
 それはつまり、私が死に掛けた原因が、彼女であるという証明。
「はあ……気分が悪いこと、この上ないわね。全く、どいつもこいつも皆病んでる」
 呟いた声にも力が入らない。全く、こんな調子で無事に帰れるのか……と。
 ――気配を、感じた。
(な、に……)
 それは、突然だった。
『━━━━━━━━■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■━━━━━━━━』
 人のものとは到底思えない、濁った禍々しい悲鳴。
 その獣のような爆音が聴覚を叩いた瞬間、脳内に文字の羅列が駆け抜けた。
『高密度情報構造体感知・流体反響より大型高位生物と推定・距離三百メートル・南南東から急速接近中』
 何故、これほど大きな気配に気付かなかったのか。
 百メートル級の高層ビルから転落し、その落下を停止させる為に多大な咒力を消費したためか。
 はたまた追手から身を隠していた為に、神経が磨り減っていた為か。
 それとも――今は亡き盟友を想うあまり、周囲の警戒を怠った為か。
 どれでもあり、どれも違う。言うなれば、全てが収束して起こった結果としか、言う他無い。
(そして、今はそんな事に気をとられている場合じゃない――!)
 脳内に投影されたカウントダウンは強烈な勢いで零へと向っている。
 残り既に八十メートルを切った。明らかにこちらを標的と定めているらしいソレから逃げ切る事は、恐らく不可能だろう。
 私は、一度だけため息をついた。本当に忌々しいわね、と小さく呟く。
 その場に留まり、接触の瞬間に全神経を集中させる。
 そして――。
(来る)
 木々を跳ね飛ばす強烈な爆音と共に、突進を敢行してきたソレを紙一重で所で回避し、対象を確認することも無く能力を発現させた。
「……Lance貫け!」
 細い銀色のリングを幾重にも重ね、絡み合わせた腕輪の中央に配置された黒曜石が光を放つ。
 私は落ちていた手頃な石を拾い上げ、全力で襲撃してきたソレに投擲した。
 ドッ、という空気の壁を突き破る音が響き、私が放った石は弾丸の如く飛翔する。
 否、それは真実弾丸だった。砲身が鉄製のバレルではなく、もっと凶悪なものだっただけである。刹那のタイムラグを経て、まるで隕石が岩盤を穿ったかのような、とてつもない爆音が発生した。
 辺り一帯を粉塵が舞う。視界のない状況で、私は息を潜めた。数秒経っても、何かが動く気配は無い。
 僅かに安堵。一つ小さなため息をついた。
「よし。いきなりで驚いたけど、これで大人しく――ッ」
 ――なった、と続けようとした声を無理やり中断させて、咄嗟にその場を飛び退く。
 聞くに堪えない騒音と共に、ソレは寸前まで私その身を置いていた地面に向って、巨大なその身を突進させた。
 地面を掘削する剣呑な音をその聴覚で把握しながら、一気に十メートルほど距離をとる。
 そして粉塵が消え、あらわになった"ソレ"の姿を直視した時、正直私は茫然としたくなった。
 何故ならソレの正体とは、
「……竜って、冗談にも程があるでしょう」
 幅は五メートル、全長は三十メートルはあろう赤き巨体。
 鋼のような硬質の鱗に身を包み、その前足に伸びる凶爪は、大木さえも一撃で薙ぎ倒せるであろう程に剣呑なフォルムだ。
 その左前足の中ほど、抉れたような醜い傷が、恐らく自分が投擲した石の衝突先なのだろう。
(あれを喰らって、飛散する事無く原型を留めているなんて頑丈どころじゃない。……厄介な事になったわ)
 私は空操士だ。能力は端的に言えば空間干渉。
 それも、離れた距離を一瞬で移動する空渡りや、空間そのものを破壊する時崩しといった高度なものは使えない。
 私に可能な事は、例えば圧縮した重力球にベクトルを加えて発射したり、空間を揺さぶって衝撃波を発生させたりという程度の、遠隔的な能力行使でしかない。
 一応、空間を歪曲させて物体を捻じ切るくらいは出来る。けれどそれは至近距離限定で、また捻じ切ることが出来るのはそれほど大きくない物体に限定される。
 元々空操士は物理的に強固で、巨大だったり耐久力に優れた対象とは酷く相性が悪い。
 ――そう、例えば目前の赤竜のような相手などは。
 内心必死で対応策を考えているうちに、十メートル先で佇んでいた赤竜が動き出す。
 巨体とは似つかわしくないほどのスピードで、馬鹿の一つ覚えのように突貫を敢行する赤竜。
 その眼に、燃える様な憎悪の光が灯っているのを見て、私はつい苦笑いを浮べてしまった。
(皮膚が抉られれば痛いってわけか……まあ、一応私にも倒す手段はあるってことね)
 圧倒的な質量で押し潰そうとする赤竜を、先程と同じように紙一重の距離で回避する。
 そして、今度はすれ違い様に密度を高めた重力の壁をぶつけた。
 強烈な圧力の壁は、赤竜を包み込み、そのまま握り潰そうとする。
 ――が。
 赤竜は雄叫びを上げると同時に、その巨体で重力の壁を振り払った。
 見る限り、赤竜の巨体に大きなダメージは無い。人間なら、それだけで数十人を纏めて薙ぎ払える威力が有るにも拘らず、だ。
(やっぱり……規模の大きな攻撃は、逆に威力を分散させる結果につながる。――ならば)
 そう何度も一方的にやられているわけにはいかない。今度はこちらから先制する。
 重力壁の影響で赤竜の動きは鈍い。狙うのは、先程抉った左前足。
 こちらの接近に気付いた赤竜が鋭い爪で、脆弱な人の身を引き裂こうと爪を振るう。
 私はその爪を僅かにスピードを落とすことで回避、そのまま目の前にある抉れた傷に手を伸ばした。
Bend曲がれ
『物質体干渉・並びに空間曲率干渉開始――成功』
 呟くと同時に、脳裏を情報が駆け抜ける。
「これは流石にキツイでしょう?」
 赤竜にそう笑いかけた刹那、それは起こった。
『━━━━━━━━━━━━』
 もはや聞き取ることさえ不可能な絶叫が上げる。赤竜の左前足は、干渉を施した支点に、完璧に圧し折れていた。
 予想通りの結果だ。広範囲の干渉は威力が分散されるが、範囲を限定し攻撃ならば問題なく貫通する。
 それを確信した私は、今度は赤竜の直接脳を揺さぶってやろうと視線を移し――

「……え?」
――力が、抜けた。

 突然の脱力に、思わず膝をつく。
 現状認識能力が追いつかない内に、今度は強烈な眩暈が起きた。僅かに残った冷静さが状態を分析、結果は行動不能。
(し、まっ……力を使い、過ぎ……た)
 意識を保つので精一杯で、回避どころか立ち上がることもできない。その私に、赤竜は残る凶爪を振り上げた。
(……ここまで、か)
 静かな理解が心に広がる。私は、ここで死ぬのだと。
 自分の死に場所は戦場のどれかだと思っていた。
 けれどまさか、こんなどことも知れない森で、こんな行きがかりの魔獣にやられるなんて。
「ああ、ついてない」
 思いついたのは、そんな言葉でしかなかった。
 赤竜の刃が断頭台の如く落ちてくる。
 それを、諦めとも自失ともつかない感情と共に、茫然と見上げる。
 今そこに降り立とうとする死を前に、最期は眼を瞑ろうか、と思った刹那――それは起こった。
『━━━━━━━━■■■■■■■■■■■■■!!』
 赤竜の凶手は、突如現れた巨大なギロチンの刃に切断されていた。




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