(少々、侮ったな……)
 大木に背を預け、深く深く息を吐きながら、私は胸中で一人ごちた。
 どうにも視界が定まらない。体を動かそうにも、少し揺れるだけで腹部が激しく痛む。
 鏡が無いから解らないが、恐らく今の自分の顔は、それはそれは蒼褪めているだろう。
 左手を見れば、刃の部分が消えて、殆ど柄しか残っていない短刀が一振り。
 見つめる内に掌の圧力に耐え兼ねたように、ボロボロと崩れ落ちて砂へと還ってしまった。
 それを見届けて、私は忌々しげに呟く。
「……何が、今回はそれで十分、だ。たった五度振るっただけでこの様ではないか。お陰で痛い目にあった。痕が残ったら、一体どうしてくれるんだ」
 今、ここにはいない相棒に向けての悪態は、しかし内から現われた反論によって、次の瞬間には封じられていた。
(いいや、本当は違う。解ってはいるさ。五度も避わされて、逆に反撃を許した私が甘かった、という事くらいは)
 その、受け止めるにはあまりに気分が悪い事実に、しかし言い訳はできなかった。そんな事、出来るはずが無いのだ。
 ……何故なら、私は“絶対的な致死能力”という、あまりに反則的な力を持っているのだから。
 ありとあらゆる存在を等しく殺す。闇に属する術の中でも最高の一つ、終焉の概念とも言うべき性質。
 それを私は魔術書より引き出した。全ての存在に死を与えるという、文字通り死神の力だ。
 そう、専用端末であるレクイエムを使えなかったとは言え、ジョーカを五枚用意したゲームで負けたようなものなのだ、自分は。
 ターゲット――マリアといったか――が、一撃を決めた後逃げてくれて助かった。もし止めを刺しに来ていたら、手加減などできなかった私は、確実に彼女を殺していただろう。
 そんなことになってはもはや、ルシファに文句を言える立場ではない。いや、文句どころか、今の様をルシファが見れば、確実に呆れてしまう事だろう。弁解の余地も無い。
 しかし――。
「あれが、咒法というものか。……なるほど、私やルシファのように傑出した術ではないようだが、魔術より遥かに応用が利くらしい。威力はともかく、選択肢の多彩さは凶悪だ」
 分析を終えて、よく考えもしないまま言葉が口をついて出た。
「……昔からあの手合いとは相性が悪かったな、あいつ。大丈夫か、あの馬鹿は」
 思わず心配してしまうような言葉を呟いてしまった。その事に妙な苛立ちを覚えながらも、私は痛む腹部を手で押さえて立ち上がる。この程度の傷は、振り返れば日常茶飯事だったな、と思い返して。
「成り行きとは言え、たった一人の相棒であることに変わりは無い。ここで見捨てるのも、度量の足りない話だろう。……そう、別に心配をしている訳ではない。私はただ、最低限の義理を果たすだけだ」
 まるで言い聞かせているみたいだ、なんて胸中で悪態をつきながらも、出来る限りの急ぎ足でルシファの元に向かった。



Tale−Conductor−

 Other-3




 激しい痛みに、いい加減意識が飛びそうになってきた時、私はようやっと探していた人物を見つけた。
 そいつは、先ほどの自分のように木にもたれていたが、こちらに気づくと、のろのろと片腕を上げて呼びかけてきた。
「よう、無事か」
 やたらと間延びした声音に、こめかみが疼くのを感じる。
 木にもたれて動かなかったから、まさか重傷を負っているのかと思えば、とてもそんな様子は無い。
 暗すぎてよく見えはしないが、声から察する限り、私より遥かに健康体だ。
(その癖、動かないで休んでいたのは、ただ面倒だったからか……)
 心配して損した、と呟きかけ、慌てて内心の声を誤魔化す。別に、元より心配などしていなかった、と。
 そして、怒りの表情を装い歩みを速めた。もちろん、文句を言ってやる為だ。
 そんなことを、誰に聞かせる訳でもないのに、心の中で呟いてみる。
「貴様、人が痛みを堪えて探してやったというのに、無傷の癖に一体何を――」
 ――やっていたのだ。という言葉は、ついに発する事は出来なかった。
 何故なら私は喋りながらも歩いていたし、故に、彼の詳細が見える距離まで近づいていたのだから。
 そして、ルシファは言った。
「ああ、悪いな。流石の俺も、今動くのちょっとキツイんでね……まあ、油断した俺が悪かったんだが」
 それでも、流石にアレは反則だよなぁ……と、呟きながら苦笑いするルシファ。
 声音は全く何時も通り。何の違和感も感じ取る事は出来ない。
 けれど、けれどそれを見て、私は叫ぶ自分を止められなかった。
「ば、馬鹿者! そんな体で何軽口を叩いている!?」
 その言葉が終わらぬ内にルシファに駆けよる。腹部に走る激痛を無視して抱き起こした。
 しかし、それは無理からぬ事だった。何故なら、
「っ……、悪いが、あんまり触れないでくれないか。ああ、お前にこうやって抱いてもらえるのは、それこそ願っても無い事なんだが、流石にここまで血塗れだと、お前の服を汚してしまうだろ? 折角似合っている衣装も台無しだ。どうせ時間が経てば再生するから、その時改めて熱い抱擁を――」
「――良いから喋るな!」
 傷に響く、という言葉は出てこなかった。
 ――彼は、その程度の言葉など、遥かに飛び越してしまっている傷を、全身に負っていたのだから。
 一体どういう攻撃を受ければ、こんな体になるのだろう。そう言いたくなるような、凄惨と表現するのも生温い、その体。
 彼は、全身のありとあらゆる部位に傷を負っていた。それも、とてつもなく鋭く、深い傷を。
 服は大量の出血によって余す所無く染められ、それこそ襤褸布と呼んでも差し支えない具合だったし、露出している肌を見れば、そこには無数の切傷が縦横斜めに、敷き詰めるように刻まれていた。
 その内の何本かは極めて深く、右手は比較的無事だったが左手は機能を果たすとは思えない程にズタズタになっている。
 その指が全て繋がっている事が奇跡と呼べるような具合だ。胴には、普通ならそれ一つで致命傷である筈の貫通痕が、数えるのもおぞましいほど大量に穿たれている。心臓を含めた全ての臓器が、恐らく機能を停止しているのは間違いなかった。
 唯一完全に無事なのは首から上で、それは彼が己の術によって、自身最大の急所への攻撃を無効化したからだろう。
 そして、彼が自分を探す為に動けなかった、その最大の理由を私は見つけた。
 ……それは、
「お前、足が」
 ルシファの左足はほぼ完全に、切断されていた。
 僅かに繋がってはいるのだが、筋肉や神経、骨や腱までもが見事に裂かれ、残すのは僅かな皮のみである。
 どう考えても使い物にならない。左足だけで無く、彼の体そのものが、ありとあらゆる機能を失っているのだった。
「大丈夫だ。俺がこの程度では死なない……いや、死ねないのは、お前が一番良く知っているだろう?」
 ――だから、心配するな。その言葉が終わらない内に、通常では考えられない現象が起きた。
 断ち切られた左足が、徐々にではあるが繋がり始めたのだ。
 怪異はそれだけでは終わらない。再生は左足だけではなく全身に及び、比較的浅かった傷は完全に消えてしまった。
 その現象に、私は驚きを覚えはしない。その現象は何度も見たことがある。以前は忌々しい能力だと毒づいたこともあったけれど、今胸にあるのは、ただただ安堵のみだ。
 言い訳も誤魔化しもする気が起きないほどの、確かな安堵。
 そう、ルシファはこの程度では死なない。私以外の人間が彼を殺すなら、それこそ首を断ち切るしか、方法は無いのだから。
 けれど、それでも。例え命に別状は無いとしても、致命傷でも死なない体だとしても、それでも、
(痛みが無い訳では、ないだろう)
 そう叫んでやりたかった。それが全く意味を為さない事だというのは理解していたし、ならば彼を困らせるだけの、それこそ子供の癇癪と変わらないから、意地でも言わなかったけれど。
 それでもルシファの身を案じる視線だけは隠せなかった。きっと今の私は、他人に見せられたものではない。

 気の遠くなるような腹部の激痛。恐らく、私自身も重症だ。肋骨の数本は折れているだろうし、内臓も完全に無事ではないかもしれない。けれど、ルシファはこの痛みの何十倍にもなるそれを、まるで平気な顔で耐えている。
 勝てない。そう思った。こいつには、絶対に勝てないと。ルシファがこんな事になってしまったからこそ湧き出る、それは素直な本音だった。
 そして、しばらく経って、ある程度傷が回復すると、ルシファは何でもない様に言う
「心配させて、悪かったな。けれど大丈夫だ。俺を殺すのは、お前だけの役目だから」
 ――他の誰にも譲ってはやらないから、心配するな。そんな事を笑顔で言った。
 その言葉に、強烈な反発を内心で覚えた。気に入らない、そんな事、本当は言ってほしくない。
 けれど、それだけは言ってはならないということを、私は誰より深くも理解していた。
 紡ぐのは本音と真逆。そうしないと、この関係が崩れてしまうから。私はそれが何より怖いのだ。
「……ああ、そうだ。覚えていてくれて、何よりだ。お前を殺すのは、私だけの役目なのだから」
 そう言って、強引にルシファの腕を掴んで体を引き上げる。左足はもう繋がってはいるし、出血自体はとうに止まっていたけど、それでも私が選んだのは、一番軽傷である右手だった。
「っ……悪いが、まだ一人じゃ歩けないんだ。直ったら追いかけるから、先に帰っていてくれ」
 そんな事を平気で言うルシファ。
 いい加減頭にきた私は彼を思いっきり睨み、わざと乱暴に、引き摺るようにして歩き出す。
 そんな態度にルシファは苦笑いを浮かべた。
 その笑みも腹立たしいけれど、もう自分を置いて行けなどとは言わなかったので、私も何も言わなかった。

  *                 *                 *

「しかし、厄介な事になったな……」
 街へと向かう道の途中、唐突にルシファはそう言った。
「ああ、そうだな」
 本当はあまり喋らせたくないのだが、このまま黙っている訳にもいかない。気が進まなかったが、先の事を話し合う事にした。
「正直予想外だ。俺自身もそうだが、お前と正面からやり合って殺されないヤツがいるとは」
 ルシファは、私が負けたとは言わない。この結果はルシファが架したハンデのせいだからだ。
 だが、それでも驚愕すべき事実ではある。本物の死神に出会って、その刃が壊れるまで避け続けたのだから。
「確かに、あの女の力は厄介だ。見えなかったから何とも言えないが、アレは本来、中・遠距離で生きるタイプだと思う。なのに、近距離というこちらのフィールドで、この私が競り負けたのだからな」
 あの女は、何らかの理由で消耗していた。こちらに制限というハンデがあったなら、向こうには残量というハンデがあった。
 どちらのハンデがより重いかと言えば、能力の大部分を封じていた自分だろうが、それでも賞賛に値する腕である事は間違いない。
「しかし、予想外で言うなら、お前の方はどうなのだ。魔眼は使わなかったのか?」
 そう、確かに私の魔術は反則だが、それと同じくらい、ルシファの使用する魔術は最悪だ。
 ありとあらゆる概念を停止させる彼の眼が相手では、何であれその効果を発揮できない。私の"死"でさえも、彼の魔眼とだけは拮抗せざるを得ない程に。
 停止させる対象を、ただ一つに限定しなければならないのがネックだが、それでも使いどころさえ間違わなければ、どんな相手だろうと負けはしないはずなのだ、本来は。
「使ったさ。……ただ、油断した」
 それが弁解でも言い訳でもない事は、ある程度付き合いのあるから判る。
 故に、なおさら不可解だった。何故、油断などしたのだろう。普段の彼ならありえない事だ。
 不真面目なようで、その態度がブラフであることは承知している。
「一撃で“動き”を停止させた。殺すつもりはなかったから、とりあえず腕の一本くらい貰おうと近づいたんだが……」
 そこで、ルシファは一度言葉を切る。その表情は、不可解に対するものだ。
「あいつ自身は何もしなかった。けれど、突然何かに囲まれて、気付いたら」
 この有様さ。そう、淡々と彼は語る。思い出すような表情を浮かべながら、ルシファは推測を口にした。
「恐らく、罠の類だろう。戦闘中に事前に仕掛けを撒いておいて、意思一つで起動するトラップ。意識までは凍結させていなかったから、予め準備されていた物までは停められなかった」
 分析を終えて、ルシファはもう一度、先の言葉を口にした。厄介な事になった、と
「言いたくないが、今度の依頼は相当ヤバイ。それこそ、あの時と同じくらい」
 その言葉に、私は咄嗟に顔を上げる。忌々しい記憶が脳裏に蘇った。ルシファの顔を凝視し、問う。
「それは、言い過ぎではないか? 幾らなんでも、本物の戦争と同じという事は無いだろう?」
 告げる言葉に、微かに怯えと忌避の色が滲んだのが自分でもわかった。
 しかし、ルシファはその言葉を否定する。首を横に振り、静かに告げた。
「いや、依頼人の正体とターゲットたちの立場……どうにもきな臭いし、咒法士を相手にする面倒さは理解できた。下手に組織同士のいざこざに巻き込まれれば、それこそ収拾がつかなくなる」
「――」
 確かに、と思う。ターゲットの一人、自分と戦ったマリアという女は、この大陸の闘争の、中枢に近い位置にいる。
 この依頼を進めれば、恐らく自分たちは最も危険な争いに巻き込まれることになるだろう。ルシファは今度こそ本当に死ぬかもしれないし、自分とてそれは同じだ。というより、再生能力なんて持っていない自分は、彼より遥かに死に易い。
「では、どうする?」
 だから、その問いは、恐らく回避を求める言葉だった。
 このままでは危ない。あの依頼は反故にしよう、と私は言いたかったのだろう。
 それは確かに伝わった筈だ。けれど、その上で彼は首を縦に振らなかった。
「どうするも何も、俺たちはプロだ。一度請けた依頼は、何があっても続ける。結果の如何に関わらず、だ」
 それは、保留に近い続行宣言だった。依頼の失敗も見据えて、けれどまだ降りはしない、と。
 ルシファの答えに、私はため息を吐きながら笑みを浮かべた。尤も、その笑みは呆れの意味しか持っていなかったが。
「解った。お前の言うとおりだ。私にだって、少なからず自負はある。多少の困難で投げ出していては、流石にこの矜持に傷がつく」
 そこで言葉を切った。内心で、私は馬鹿なのだろうか、と解り切った問いを浮かべながら。
「――この案件を続けよう。私をコケにしたあの女にもう一度会い、お前を傷つけたあの男に報復を与え……そして、私たちを巻き込んだ依頼人の顔を、一度見てやろうじゃないか」



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