交易都市クロス。そこは、古き言葉で天使の在処という意味を持つこの大陸≪ゼラフオル≫の中心に位置する商都。
 聖者も犯罪者も等しく住居が与えられ、あらゆる流通を監視し、あらゆる種類の許しをもって人々に欲望を届ける、大陸最大の違法市場。
 それがもしこの世に存在するのならばこの街に必ず売られているだろうと、全ての住人が口を揃えて頷くほど、善悪の観念を超えて品物が集まる利害の砦だ。
 その街の隅、善良なる市民たちの歓声で賑わう大通りから逸れ、怪しい露店商たちの声を振り切りさらに奥へ。まだ昼過ぎにもかかわらず、入り組み空を閉ざす建物たちによって夜のように暗い迷路の先、様々な品物が集うクロスでも最も深い場所の一つである一角に、一軒の至極平凡な外装の酒場があった。
 大通りで麻薬を出せば、一分も経たないうちに自警団が駆けつけ、そのまま牢に入れられる。路地裏で貴金属を売れば売り出す前に目をつけられ強盗に何もかも、時には命ごと奪われる。あるべき物はあるべき場所へ、いるべき者はいるべき場所へ。住み分けを守らなければ、必ず制裁が待っているが故に、非合法を許してなおこの都の秩序は保たれる。
 その論で言うのなら、強盗さえ怯えて近づかないこの一角は何が集う場所なのか。毒も薬もナイフも銃も、絵画も譜面も宝石も子供も、この闇の帳には並んでいない。裏通りのように血で地面が汚れてもいないのは、治安が良いのか、それともそのような言葉が入る隙間もないゆえか。ありえざる静寂の奥底に眠る物を、街の人々は忘却さえなして考えもしない。
 そう、そのような場所に果たして、ただの酒場が在るだろうか?
 ――答えは、否である。



Tale−Dried Flower−

 SideA-4




 カロン、と涼やかな音と響かせながら、私は扉を開いた。懐かしい気配に、うち頬が緩むのを感じる。
 店内は暗い。照明は小さな咒灯が天井からいくつか吊り下がっているだけで、その半数は黄色く点滅を繰り返している。
 咒法によって周囲のエーテルを電気に変換して消費する、数十年も前からあった古い照明機関は、内部にある部品の劣化によって耐久年数が設定されている代物だ。現在世界に流通している咒灯とは、あらゆる意味において劣っている。
 無駄に演算機関を酷使する骨董品だが、それゆえか店内の雰囲気も古風だ。壁に下がった明らかに出来の悪い贋作の絵や、一体何を作りたかったのか理解に苦しむガラス細工の置物。東の壁には、サバトでも始める気かと正気を疑うような色彩のペンタクルがこれ見よがしに張り付いている。……古風というより、シュミが悪いというべきか、と今更ながら私は悩んだ。
 相変わらずだがもはや見慣れた店内に躊躇なく踏み込むと、奥の方から気難しい声音が届いた。
「らっしゃい、と言いたいところだが、今日は休みだ」
 暗い。物陰になっているカウンタには明かりが差し込むこともなく、目が悪くそもそも光を必要としない店主はこちらの顔を見ることも出来ない。だから、無言だったこちらの名を呼ぶことはなかった。
 「マリアよ。今戻ったわ」
 ガタン、と奥から慌しい音が響いた。
 店主ではない。彼は一瞬眉を上げただけで、特に動じる雰囲気はなかった。やたらと騒がしい気配を発しているのは、店の奥にあるドアからドタバタと足音を立ててこちらへ近づいている、もう一人の店員である。
「マリア、生きていたのね!」
 扉を開くなり、満面の笑みに涙を滲ませながらその店員――ミルティは一直線に飛びついてきた。
 やばい、と思ったがもう遅い。彼女は既に私の目前まで突進していて、
 「ちょ、まっ――」
 静止の声を上げたが間に合わず、背に回された手が強烈な勢いで体を締め上げた。腰が砕けるのでは思うほどの怪力に、ギリギリと何やら剣呑な悲鳴が鳴っている。そして、背骨がもういい、そろそろ諦めようと、ため息をついて、
「その辺でやめておけ。死ぬぞ」
 情味も何もない巌のような声に救われた。
 ハッと何かに気づいた息遣いのあと、唐突にこの体を拘束していたベクトルが消滅。あと三秒遅ければ比喩ではなく折り曲がっていたであろう背骨は、未だに悲鳴の余韻に浸っている。そのいつもの痛みに苦笑いを浮かべながら、私は目の前の綺麗な体に手を回した。
「久しぶり。心配かけたわね、ミルティ」
 わずかに鼻をすすりながら、おかえりなさいと小さな言葉が耳元に返って来た。その声に、ああ自分は生きているんだなと、やっと心が理解した。なのに、

「感動の再開のところ悪いんだが」

 振り返る。気配は未だに感じられないが、宝珠から人型をした質量の存在を示す歪曲関数が表示されていた。
 内心その暗殺者じみた技能に頭痛を感じながら、感情の失せた目つきで見据える。男が見える位置にいたはずのミルティは、視界に納めながらも知覚できなかった事実に呆然と青褪めた。
 趣味が悪いわね、と心中で呟く。何も、気配を消して話しかけることもないのに。
「何でもいい、酒をくれないか」
手にcloseと綴られた札を下げた男の言葉に、無言で立ち上がった店主はボトルの栓を開けた。



 ガチャガチャ、特にマナーを気にする素振りも見せず、ナイフとフォークで魚を器用に解体している目前の男。
 記憶が正しければ、彼の名はヘイズといったか。データベースを検索。適当なプロフィールを参照する。
 ヘイズ=ロートシルト。二十二歳。独身。練成系咒法師。A級。依頼達成率十割の探偵士。政府、イリーガル区別なく依頼を請ける。要注意人物。王冠――。
(結構凄いけど、裏はなさそうね)
 この荒んだ社会において、秩序無き悪を討つ秩序側の必要悪。政府より身軽であるがゆえに、彼らの手が回らない小さな犯罪の芽を摘み取っていくスイーパーの一人。ありふれた存在だが、その中で言えば一流の経歴を持つ、ある意味最も解りやすい人種だ。
 ――都合がいい、と私は判断した。が、
「飯時だ、ほどほどにしろ」
 心中の打算を見透かすように、こちらを見もせずに彼は言った。
 データベースを検索した時に発生した、僅かな咒法の流れを感知したのか。
 普通はできないな芸当だが、理論上は不可能でも何でもない。要は自分や自然ではなく、防壁のかかった相手の咒力をも感知できる突破力と解析速度があればそれでいいのだ。
 自然界の流体のみを対象とした現象行使系ではない。生命のパターンを解析、干渉する対生体系の法具にはそのような事を可能にする物があるのは、随分と前に聞いていた。練成系でそういう仕様は珍しいが、別に有り得ない話ではないのだろう。
 特に悪びれる事無く、肩をすくめて食事に戻る。確かに無粋だったかな、と内心では少しだけ反省した。
 そうして、今度はただの食事の風景だけがテーブルを支配した。
 ヘイズは着やせするタイプなのか、異次元にカロリーを押し込む能力でも持っているのか。華奢な見た目とは裏腹に良く食べた。テーブルとカウンタを往復するミルティが表情を変えていくのが面白い。最初の二往復くらいまでは笑顔だったが、その次は驚き、さらに次となっては困惑し、最後には諦めさえ浮かべて皿を運んだ。ちなみに私は一皿とドリンクのみである。
「食べすぎじゃない?」
 デザートを注文する様を見て、流石にイラつきを感じながら呟く。お前は一体どこまで食べる気だ。
「昨日の昼から飲まず喰わずだ。連戦だけでも堪える上に、何度か大技を使わされてな」
 腹が減って仕方がないと嘯くヘイズを、そうですかと半眼で眇めた。――だったら、残量ゼロまで使い果たした己は、一体どれだけ食べないといけないのか、という心の叫びは何とか封じた。
 諦めを超えて、もはやうらやましそうな表情でミルティがデザートを運んできた。それも当然だろう、花の乙女としては皿一つのカロリーさえ気になる年頃なのだ。それを何皿も平らげるヘイズは、羨望どころか殺意を向けられても仕方がない。ついでに言うと、この店――月桂樹という――の料理はどれも絶品というのがこの界隈での公式見解である。デザートまで運ばされるミルティの心情は、同じ女性として痛いほど理解できた。
 そして当人といえば、乙女の負の葛藤など気づく素振りも見せず、林檎のタルトを咀嚼している。無表情に平らげていくのに、何ゆえか美味しそうに見えるのが憎たらしく思えるのはきっと自分だけではない。
 ため息を吐きながら皿を下げてトボトボと歩いていくミルティを訝しげに見ながら、ヘイズは代金をこちらに差し出す。再開のシーンを見れば、私がこの店の関係者であることは自明の理なので驚きはしない。――いや、この店が私と関係している、とでも言うべきか。
 金額を見ると、彼が食したであろう品々の代金より少し多い。かといって小銭も混じっているのでツリを求めているわけでもないようだ。つまりこれは、
(私の分、かしら。……細かいのか気障なのか。まぁいいわ)
 言えば引っ込めるのだろうが、そんな問答をするのも時間の無駄だ。これで丁度なのだからそれでいいと、本題を話すことにした。
「それで、昨日のことだけど」
 一度言葉を切って、目の前の男を見る。先を促すように黙っている目に、まずは言うべきことがあるなと気がついた。
「私はマリア、マリア=セルロットよ。昨日は助かったわ、本当にありがとう」
 ヘイズは僅かに頭を振った。気にするな、という意味だろうか。どうでもいい、という雰囲気では無かったので、内心私はほっとした。
「もう知っているだろうが、ヘイズ=ロートシルトという。フリーの便利屋だ」
 感情が見えない声だが、特に閉じた風でもない。名乗り返したことから見ても、ただ表に出ないだけで、それほどひねた人格でもないようだ。
「礼はいい。俺が勝手にしたことだ。それより聞くべき事がある。昨日の二人と、それに」
 そんな風に思っていたからだろう。その言葉と同時に、その瞳の奥に垣間見えた殺気に、僅かな怖気を覚えたのは。
「お前は、何者だ」



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